不思議な音色が聴こえていた。
流れるような琴の音だ。
真っ白な霧の向こうに人影が見える。
後ろ姿は、どこか懐かしい面影。
そういえば、ここは仲哀天皇の父君が訪れた聖地であった。
あの方が尊であろうか。
もしそうであるならば、これから私が成そうとしている戦は正しいことなのか、それを問いたい。
あの兄妹を討ってから、私の心には迷いが生まれている。
手を伸ばした。
ケーンと琴の音が高く鳴り響く。
あと少し、でその人影に手が届く。
さらに高く、琴の音が響いたその時、霧の中の人影が振り向いた。
ああ、それは。
いつも愛しげな眼差しで、優しく微笑んでくれた、懐かしい背の君の御顔だった。
…
神功皇后は伊都の層々岐山山頂に望み、遠く海原を見ていた。
「襲津彦よ、我は新羅へ向かう前に、神の望んだ神田を拓こうと思う。」
後ろで控えていた武内宿禰はしばし黙考の後答えた。
「それはよき考えかと。このあたりのことに詳しいものに訊いてみましょう。
五十迹手がよろしいかと思われますが。」
皇后は頷いた。
手にした石を見つめ、今朝の夢を思い返しながら、心が穏やかになるのを感じていた。
【浮嶽神社】
松浦に達した神功皇后は新羅への航路を確認した後、橿日宮を目指します。
その帰路で皇后らは「伊都国」を訪れたと思われます。
皇后は伊都国へ入る境にそびえる「浮嶽」へと登り、山頂で戦勝祈願を行いました。
凱旋後に神功皇后が神社を創建したのが「浮嶽神社」(うきだけじんじゃ)です。
鳥居の扁額には亀が乗っていました。
鳥居の左右には狛犬の代わりに「大黒天」と「恵比須」の像があります。
とても「笑門来福」な気分にさせてくれます。
拝殿は侘びた風合いを見せています。
古びた天井画も味わいがあります。
本殿の裏手にはなんとも幽玄な杜が広がっていました。
【宇美八幡宮】(糸島)
長野川のほとりに「宇美八幡宮」があります。
一般に宇美八幡宮といえば、糟屋の宇美八幡宮を連想する方が多いでしょうが、
糸島の宇美八幡宮も負けず劣らず、素晴らしい神社でした。
一の鳥居のそばに、発掘された支石墓がいくつか置かれています。
どれもかなりの重量級でビクともしそうにありません。
ここ宇美八幡宮には本宮と上宮があります。
かなり急傾斜な石の階段を上ると本宮があります。
本宮の祭神は「応神天皇」「神功皇后」「玉依姫」「瓊瓊杵命」「気比大神」「菅原大神」となっています。
後に八幡宮、聖母宮、宝満宮を合祀していますので、本来の祭神は「瓊瓊杵命」と「気比大神」ということになります。
本宮は武内宿禰の第四子「平群木菟」(へぐりのつく)の子孫が祀り始めたそうです。
仁徳天皇と平群木菟は同じ日に生まれて、それぞれの父親である応神天皇と武内宿禰は吉祥があったため、
互いの子の名前を交換したといいます。
名の交換で思い至るのは、武内宿禰が神功皇后の子、応神天皇を連れて敦賀の氣比神宮を訪れた時のことです。
応神天皇の禊ぎのために訪れた武内宿禰は、気比大神である「伊奢沙別」(いざさわけ)と名の交換を行います。
そして今度は応神天皇と武内宿禰が、その子らの名前を交換したというのです。
氣比神宮は当初、神功皇后が住まわれていた宮です。
そして三韓征伐のため神功皇后が海原に出た時に、船上に気比大神が現れ、
「我は新羅の神、清瀧権現なり」「皇后の国土を守護せん。」
と言ったそうです。
この気比大神は「天日槍」(あめのひぼこ)であったと伝わり、
後に平群木菟の子孫が糸島に宇美八幡宮を創建したということです。
さらにこの天日槍という新羅の神は神功皇后と、伊都の「五十迹手」(いとて)の祖神になります。
気比大神の正体が氣比神宮と宇美八幡宮では違っていますが、
「伊奢沙別」(いざさわけ)と天日槍の神宝「胆狭浅大刀」(いささのたち)との関連性を指摘し、
二人の神を同一神とみる説もあるようです。
宇美の名が示すように神功皇后出産の地としての伝承がここにもあり、
仲哀天皇御殯斂地(ごひれんち)の伝承も伝わっています。
それぞれの説が独自の伝承として残っているようですが、
糟屋の宇美八幡宮とのつながりも深く、互いの祭り事に干渉しあっているようです。
謎深い糸島の宇美八幡宮ですが、ここが神功皇后や武内宿禰にとってとても重要な場所だったことが伺えます。
また伊都国を治めていた五十迹手の聖地である可能性もあります。
現に、ここを訪れると、糟屋の宇美八幡宮に比べて人に知られていないにもかかわらず、
とても高貴で神聖な趣を感じてしまいます。
本宮から少し歩いたところに、上宮への参道入り口がありました。
それはかろうじて道と呼べる山道です。
その先に上宮がありました。
宇美八幡宮の縁起では、ここは仲哀天皇の御殯斂地であり、ご祭神は仲哀天皇となっています。
しかし小高い丘は全長38mの前方後円墳になっていて、古代の首長の墓ではないかと考えられているそうです。
小郡市大保にある「御勢大霊石神社」(みせたいれいせきじんじゃ)では仲哀天皇の御魂を鎮めた石を納めていました。
羽白熊鷲や田油津姫を討伐し、いよいよ新羅へ戦を始めようという前になって、
神功皇后は亡き天皇のことを思い返されたのではないでしょうか。
その思いを石に鎮めて、かつての偉大な首長の聖地に祀ったのではないかと空想してみました。
とても静謐な竹林に囲まれたこの場所は、様々な思いを全て受け止めてくれるような、
そんな感じが僕にもしました。
【雉琴神社】
神功皇后は雷山に登った後、降りてきて「雉琴神社」にやってきたそうです。
しかし僕のストーリーでは雉琴神社のシーンは雷山登山前になってます。
特に意味はないのですが、こちらの方がロマンティックだと思いましたので、そのように書いてみました。
一の鳥居を過ぎると、「弟橘藤」という藤の木がありました。
「弟橘」(おとのたちばな)とは日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻で、東征の時に船が嵐にあい、
それを鎮めるために海に身を投げた人です。
雉琴神社の由来によると、神功皇后がここに立ち寄った時、夢枕に日本武尊が現れて賊徒討伐の法を教えられたそうです。
雉の鳴く声を琴の音に聞いて目覚められたので、雉琴神社と名付けて、凱旋の後に皇后が日本武尊を祀ったということです。
境内の御神木がなかなか迫力ありました。
日本武尊は皇后の夫である仲哀天皇の父親だと記紀は記しています。
しかし実は、日本武尊は架空の人物で、後に記紀が創作したことが判りました。
日本武尊のモデルとなったのは景行天皇で、彼は実際に九州を支配下に置くために赴いています。
伊都国独自の伝承では、雷山には仲哀天皇も皇后と一緒に訪れており、
下山の途中で崩御され、糸島の宇美八幡宮に埋葬されたと伝わっています。
雷山は「層々岐山」(そそきやま)と呼ばれていて、羽白熊鷲が征伐されたのはここだっていう説もあります。
僕はここを訪れてみて、例えば皇后の夢の中に出て来たのは、愛しい仲哀天皇だったのではと、ふと思い至りました。
そして溢れる思いを石に鎮め、糸島の宇美八幡宮に祀ったのではないか、などと考えてみます。
雉琴神社から49号線を道沿いに西に進むとすぐに、もうひとつの「雉琴神社」があります。
小川を渡った先の、小高い丘にあるのですが、
本殿も拝殿もなく、だだ石で囲われた中に、四角い祭壇のようなものがあるだけです。
ひょっとすると、ここは元宮なのではないか、と思います。
そしてさらに宇美八幡宮に近い場所にあるのです。
【雷神社】
雷山の中腹にある「雷神社」(いかづちじんじゃ)の主祭神は「火雷神」(ほのいかづちのかみ)です。
火雷神は黄泉の国に棲む、「伊邪那美命」(いざなみのみこと)の体に生まれた8柱の雷神の1柱です。
太古の昔に、異国から度々来襲する異族を、この神が大雷火となって降伏させたと伝わります。
激しい山道を登った先にあるこの神社に至ると、
急に開けた場所に育つ、大木の数々に驚きます。
圧倒的存在感です。
この聖域は、これら大木に守られています。
石段を登って拝殿へと向かいます。
雷神社の名の由来のひとつとして、神功皇后の重臣のひとり、
中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)が絡んでいるのではないかという説があります。
烏賊津=雷というわけです。
中臣烏賊津連といえば、仲哀天皇を祟った神の名を問う祭祀の際、審神者となった人です。
そして「いかづち」とパソコンのキーボードを打って、変換したら驚きました。
「五十土」と出たからです。
「五十迹手」(いとて)とよく似ています。
雷、中臣烏賊、五十迹手と繋がりがあるのかもしれません。
この一帯は五十迹手が治めており、五十迹手は祖を皇后と同じ新羅の天日槍としています。
雷神社、宇美八幡宮など、この地には謎が多く、そしてワクワクしてきます。
さて、本殿の裏に登るとここにも大木がありました。
「イスノキ」だそうです。
今度は一度境内を出て、駐車場向かいの丘に入ってみます。
そこにある石段が、上へと続いています。
神秘的な森の先に何かあるようです。
古代の祭祀跡でしょうか。
石の塔のパーツが重ね置かれています。
また「雷神社」を出た先に沢に向かって道があります。
下って行くと、
磐座がありました。
「白蛇石」と呼ぶようです。
神功皇后も、ここで祭祀を営んだのでしょうか。
雷山には上宮、中宮、下宮とあるそうで、ここは中宮になるようです。
下宮は「笠折神社」といったそうですが、今はもうないそうです。
上宮はこの先、雷山山頂付近にあるというので行ってみます。
行けるところまで車で進み、あとは登山道を徒歩で登ります。
ここにたどり着くのは、結構大変でした。
思った以上に大きめの石の祠が3つありました。
上宮の主祭神は「層々岐明神」とよばれ、「瓊瓊杵命」を祀っているようです。
瓊瓊杵命といえば、糸島宇美八幡宮の主祭神でもあります。
瓊瓊杵命は天孫降臨を成した神で、後に「木花咲耶姫」と結婚し、3人の息子を授かります。
息子の一人が「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)であり、またの名を「山幸彦」と言います。
この彦火火出見尊は五十迹手の聖地の一つ、「高祖神社」(たかすじんじゃ)の御祭神でもあります。
近くには「日向峠」という峠もあり、宮崎の日向神話と伊都国、五十迹手との関連性がどのように繋がるのか、謎は深まります。
神功皇后らは雷山で数日過ごした後、不動池方面から雉琴神社に向けて下山したようです。
【三坂神社】
神功皇后らは雷山へ登る前と、下ってから後と、「三坂神社」で休憩をとったと伝わります。
三坂神社はとても素朴な神社でした。
拝殿前には何かの顔にも見える大きな石が二つありました。
雷山での戦勝祈願を終えた皇后は、この後、那珂川方面へと向かっていきます。
そこに神田を造るためです。