粟鹿神社 『粟鹿大明神元記』考:常世ニ降ル花 刺国朧月篇 06

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国引き神話の出雲6代王「オミヅヌ」を産んだのが「天之都度閇知泥姫」(あめのつどへちねひめ)で、出雲7代王「アメのフユキヌ」に嫁いだのが「刺国若比売」(さしくにわかひめ)だと記す古文書、『粟鹿大明神元記』が気になったので、兵庫県朝来市山東町粟鹿に鎮座の「粟鹿神社」(あわがじんじゃ)へ、やって来ました。

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粟鹿神社は但馬国一宮または二宮を謳う神社。但馬国一宮といえば、アメのヒボコの聖地「出石神社」(いずしじんじゃ)もそうでした。

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境内の北側には、文化財に指定された勅使門がありました。

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記録上は4回の勅使参向があったとされ、但馬国一宮に相応しい趣を感じさせます。

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南側にはのスタルジックな社務所と、

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参道の入口となる随身門がありました。

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随身門にいらっしゃる、古い木製の狛犬。

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塗装はほとんど剥げていますが、本来は色鮮やかなものだったと思われます。

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こちらにも一際立派な摂社・天満宮。

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粟鹿神社の祭神は
「天美佐利命」(あめのみさりのみこと)
「日子坐王命」(ひこいますのおおきみのみこと)
「日子穂穂手見尊」(ひこほほでみのみこと)
の三柱。

配祀神は
「阿波奈岐尊」(あはなぎのみこと)
「伊弉奈岐尊」(いざなぎのみこと)
「天照大日孁尊」(あまてらすおおひるめのみこと)
「籠神」(このかみ)
「鵜葺草葺不合尊」(うがやふきあえずのみこと)
「月讀尊」(つきよみのみこと)
「素盞嗚尊」(すさのをのみこと)
「豊玉姫尊」(とよたまひめのみこと)
配祀に阿波や月神ファミリーの姿が見えて、僕はニンマリします。

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主祭神の方はといえば、度重なる戦禍などで古資料の多くが消失し、日子坐王命と日子穂穂手見尊とで論争があったようです。
しかし後に発見された、例の『粟鹿大明神元記』に「天美佐利命」が当社祭神であるとの記載があり、本来はこの神一柱が祭神であったことが考えられます。

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日子坐王は磯城・大和王朝の本来の10代大君でしたが、記紀には10代大君は九州から離れることのなかった物部イニエ王(崇神)として記され、現在の万世一系の図からも隠されてしまった人です。
その日子坐王の墳墓が、粟鹿神社本殿裏の円墳であると当地では伝えられています。
ただ、岐阜の「伊波乃西神社」にも「日子坐王御墓」と伝えられる場所があり、定かではありません。

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また、日子坐王を祀ったのは二韓征伐の戦勝を当地で祈願した神功皇后であるとされ、日子穂穂手見も凱旋した神功皇后が塩満珠を当社に奉納せられし故事から祀られたとしており、根拠に疑問を感じてしまいます。
神功皇后系伝承は、虚説が多いと感じています。

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ともあれ、粟鹿神社の祭神は、「天美佐利」一択で間違いないと思われますが、これもまたちょっと問題が残っていました。

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『粟鹿大明神元記』によれば、「第11代垂仁大君(イクメ帝)の時代に、天美佐利命が荒振る神であるために大彦速命が朝廷に申し出て祀ることとなり、大彦速命の曾孫が「神部直」の氏姓を賜って但馬国造に定められたとしています。
つまり、天美佐利はアラブル神であったと。

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この『粟鹿大明神元記』(あわがだいみょうじんもとつふみ)ですが、元々は九条家の蔵に保管されていたのを、昭和30年(1955年)に是澤恭三が発見し、現在は宮内庁の書陵部に保管されており、そのサイトで現物を見ることができました。
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000671700000/a8252393f50b475999ec19b057c29268
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000671700000

『粟鹿大明神元記』は和銅元年(708年)に、粟鹿神社祭主の新羅将軍正六位上「神部直根マロ」(三輪根麻呂)が編纂した書物とされ、粟鹿神社の縁起とともに、イザナギ・イザナミから始まる神部氏(みわべし・三輪氏)の竪系図が記されています。
『粟鹿大明神元記』は鎌倉ないし室町初期の写しであると考えられており、見る分には見やすいのですが、その文面はやはり難解です。
するとありがたいことに、兵庫県立柏原高等学校の村山美生教諭(平成7年当時)が訳され「柏高紀要第4号」に掲載したという資料がありましたので、それを引用しつつ、解釈してみたいと思います。

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新羅将軍正六位上神部直根マロが謹んで申し上けます。神祇官からの認証を頂くことを。
天皇や命により、但馬国の鎮守、阿米美佐利命と粟鹿大明神の由来を詳しく調べて申し上けます。

伊佐那伎命と妻・伊佐那美命の二神より生まれた子、あわせて三神。
大日神(おほひるのかみ) (天照大神)
次に月神(つきのかみ) (月読神)
次に素佐乃乎命(すさのをのみこと) (須佐之男命)

素佐乃乎命が、天に登り天より出雲の樋の川の上流の鳥上山に降りて来たりて

伊那多美夜奴斯(いなだのみやぬし)(稲田の富主)で、名は須佐能夜都美祢(すさのやつみみ/菅之八耳 )という者の娘、久斯伊那多比祢(くしいなだひめ)を娶りて生まれた児、
蘇我能由夜麻奴斯祢那佐牟留比古夜斯麻斯奴」(そがのゆやまぬしみなきむるひこやしましぬ/八島士之身)


大山都美(おおやまつみ)の娘、木花知利比賣(このはなちりひめ)を娶りて生まれた。児、
布波能母知汗那須奴」(ふはのもちちじなすね/布葉之文字巧為)


淤迦美(おかみ)の娘、日河比賣(ひかわひめ)を娶りて生まれた児、
深淵之水夜礼花」(ふかぶちのみずやれはな/深渕之水遣花)


阿麻乃都刀閇乃知尼(あめのつとへのちに)を娶りて生まれた児、
意祢都奴」(おみつぬ/八束水臣津野)


布努都祢美(ふどつつみ)の娘、布弓祢美を娶りて生まれた児、
天布由伎奴」(あめのふゆぎね/天之冬衣)


佐志久斯布刀比賣(さしくふとひめ)の娘、佐志久斯和可比賣(さしくわかひめ)を娶りて生まれた児、
大国主命」(おおくにぬし)

一名は大物主、亦の名は意富阿那母知命(おふあなもじ)、亦の名は葦原色表命(あしはらしこを)、亦の名は八千桙命(やちほこ)、亦の名は幸術魂辞代主命(さちはけみたまことしろぬし)、亦の名は八嶋男命(やしまを)、亦の名は大己貴命(おほあなむち)、亦の名は八千弟命(やちほこ)という。

この大国主命は、二人の子供の親になっているにもかかわらす、(妻に)その姿を見せていなかった。夜が明けるとともに去り、昼には来たことがなかった。そのため、(妻の)玉櫛姫(たまくしひめ)は心中疑いをいだくようになり、(大国主命の)衣に糸をつけ、明るくなってその糸を追い求めて行くと、その糸は茅渟(ちぬ)の陶村(すえむら)を経て真っ直に大倭の御諸山(みもろやま=三輪山)を指していた。これで玉櫛姫は(夫が)大国主神であることを知った。そして、その糸は元のところにただ三輪残っていた。そこから、意富美和君(おほみわのきみ)の姓(かばね)と言うにようになった。

↓

天止牟移比賣(あめのとむいひめ)を娶りて生まれた 児、
阿米祢佐利命」(あめみさり)、粟鹿大社に座す。

又、三嶋溝杭(みしまみぞくひ)の娘、玉櫛姫(たまくしひめ)を娶りて生れた児、
次の、溝杭矢瀬姫(みぞくひのやせひめの)蹈鞴五十鈴姫命(たたらいすずひめ)、
神武天皇に嫁ぎ、綏靖天皇並に皇子を生む。

次の、五十鈴依姫命(いすずよりひめ)
綏靖天皇に嫁ぎ、安寧天皇を生む。

又、溝杭耳(みぞくいみみ)の孫娘、活玉依姫(いくたまよりひめ)を娶りて生れた児、
久斯比賀多命」(くしひがた/天日方奇日方)
大神朝臣(おほみわのあそん)の祖先、神武天皇の御世から綏靖天皇の御世に至るまで内臣として国政を担当した。墓は、和泉国の知努乎曽(ちぬこそ)村に在る。


宇治夜須姫(うじやすひめ)命を娶りて生まれた児、
阿麻能比賀大命」(あまのひがた)

妹、渟中底仲姫命(ぬなそこのなかつひめ)片塩浮穴宮御宇磯城津彦玉手看(かたしおのうきあなのみやしきつひこたまてみ=安寧)天皇に嫁ぎ、四天皇、息石耳命(おきそみみ)、大日本彦須支侶(おほやまとひこすきとも=懿徳)天皇、常津彦某兄命(とこつひこいろえ)、磯城津命(しきつひこ)を生む。
又、大和氏文(やまとうじふみ)付、名は大祁知遅若命(たけちじわか)と在る。

意富多幣良姫命(おほたへらひめ)を娶りて生まれた児、
櫛甕戸忍栖浦浦稚日命」(とのおしすうらうらわかひ)

児、「櫛甕戸忍勝速日命」(とおしかつはやひ)
又、大和氏文、名を大日祁弥賀乃保命(たけみかのほ)と在る。

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竪系図はここまで来て、「以上、榛氏之神宅之印」という注釈が入ります。
『粟鹿大明神元記』の古代資料としての評価は賛否両論あるものの、有用であるとする評が高く、神道史や国語学の研究にとってもすこぶる貴重な古記録であるとする意見が強い傾向にあります。

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『粟鹿大明神元記』の成立年についても「和同元(708)年歳次戌申八月十三日」という表記が正しければ、

天皇記 620年
国記 620年
帝紀 681年
旧辞 681年
粟鹿大神元記 708年
古事記 712年
日本書紀 720年
出雲風土記 733年

ということになり、記紀に先んじて系図が書かれたことになり、柿本人麿はこれを参考に古事記を書いた可能性も出てきます。

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瀬間正之氏は当文献を上代語資料と扱うべきかどうかを文字表記の観点から検討し、上代特殊仮名遣を用いている箇所の正確性について考察したといいます。
その結果、「以上榛氏之神宅之印」以前の記述の表現方法が「娶…」でありそれ以降は「母曰…」となっていること、神名において「移・希・比弥」などを始めとする仮名の用例が『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』『正倉院文書』『上宮記』逸文、天寿国曼陀羅繍帳銘や元興寺露盤・丈六光背銘といった他の上代語資料にも見られるものであることなどから、「以上榛氏之神宅之印」までの系図の神名は記紀と同じく上代語資料としての価値があり、当文献を作成するにあたって参照された元となる上代語資料が引き継がれているとしました。
一方、「以上榛氏之神宅之印」以後の記述は上代語資料とは認めがたい表現であること、天皇の漢風諡号や国号に問題点が生じることなどから、和銅元年成立と見るのには疑問を呈し、出雲にまつわる神の系譜が中心となる「以上榛氏之神宅之印」より前の部分のみ希少性を評価したといいます。
また、表題名について当文献中に「粟鹿大神」の使用例があり、記紀に「大明神」の例が存在せず谷森本でも表題に「大神」を採用している点から、『粟鹿大神元記』が本来の名称であると論じたとのことです。

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たしかに、「大明神」という呼び名は、神仏習合によって広まった呼称に思えますので、本来は『粟鹿大神元記』であったと僕も考えます。
「以上榛氏之神宅之印」以後の資料は、瀬間正之氏も上代語資料とは認めがたいとあるので、ざっと流してみます。

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「多祁伊比賀都」(たけひかつ)

「耶美賀乃許理」(たけみかのおり)

「宇麻志毛呂尼命」(うましけろにのみこと)

「刀余美気主命」(とよみけぬしのみこと)

「意保美気主命」(おほみけぬしのみこと)

「大田田根子」(おおたたねこ)

「大多彦命」(おおたひこのみこと)

「大彦速命」(おおひこはやのみこと)

「武押雲命」(たけおしくものみこと)

「猛日」(たけひ)

「神部速日」(みわべのはやひ)

「神部忍」(みわべのおし)

「神部伎閇」(みわべのぎへい)

「神部奈久」(みわべのなく)

「神部宿奈」(みわべのすくな)

「神部二身」(みわべのふたみ)

「神部小椅」(みわべのこき)

「神部都牟自」(みわべのつむじ)

「神部万侶」(みわべのまろ)

「神部根マロ」(みわべのねまろ)

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粟鹿神社の奥の丘の上に稲荷社がありましたので、登ってみます。

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これも古墳なのではないだろうか。

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さて、ざっと流した『粟鹿大明神元記』後半ですが、気になるところもちらほら。

宇麻志毛呂尼の段で、「母は曰く、丹波道主王の娘、夜知姫(やちひめ)・大知姫命(おおちひめのみこと)である」と記されます。
これは越智族の血を引く姫ということではないでしょうか。

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また、三輪氏の祖オオタタネコ(大田田根彦)の父・意保美氣主の母は、木(紀伊)国の「奈具佐姫」(なぐさひめ)で、大神(おおみわ)の朝臣等の祖先であると記されています。
三輪氏には名草姫の血が流れているのでしょうか。
その後の注釈としては、オオタタネコは崇神天皇の時に現れ、大物主大神を鎮め祭り始めた先祖であり、その功績はうんぬんかんぬんと記されていました。

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そして大彦速の段で、

巻向珠城宮(まきむくのたまきのみや)御宇、活目入彦五十狭茅(いくめいりびこいさち/垂仁)天皇の時、但馬国の粟鹿の嶺に荒振る大神がいた。
大国主神の子「天美佐利命」という。姿を雲紫の如きに変え、自由に空中を駆けていた。
坂道を行く人が十余人あれば五人を殺し五人を往かした。二十人が往来すると、十人を殺し十人を往かした。この様なことは、一・二だけではなかった。
数年を経た時、大彦速命が、恐れはばかって朝廷に(この神を)祭ることを望み、この神の様子を報告した。それで、朝廷より幣帛などを賜り祭り始めた。
また、粟鹿嶺の白鹿、その角の間に粟が生えていた。それで、粟鹿大神と名付けた。
これ以後、人々は安楽になり国内は災難がなくなり、穀物も豊かに実るようになった

と記します。

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ここに於いて、天美佐利は荒ぶる神として記され、道行く者の半分を殺す神と表現されます。この半分を殺す神とは、筑紫の神(命尽くしの神)と同じ表現となっています。
さらに粟鹿の名の由来を、「粟鹿嶺の白鹿、その角の間に粟が生えていた。それで、粟鹿大神と名付けた」と記します。
御朱印をいただく際に、社家の方に伺った話でも、「鹿が栗を咥えて粟鹿山から現れ、人々に農耕を教えた」という伝承により名付けられたとおっしゃっていました。
この『粟鹿大明神元記』を記した「神部直根マロ」は、『日本書紀』天智二年三月条の三輪根麻呂と同一人物であるであろうこと、などから僕はこう考えます。

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粟鹿山から現れた栗を咥えた鹿、それは白鹿であったということ、それは鹿族が阿波族を導いて当地にやってきた、ということを示しているのではないでしょうか。
この鹿族とは春日神ではなく、刺国若比売の国の鹿、「千鹿頭族」だったのでは。
『粟鹿大明神元記』では、当社祭神を大国主命の児「天美佐利」としていますが、この兄弟として「久斯比賀多」の名を記しています。
つまり、「天美佐利」の正体は、タケミナカタなのではないでしょうか。

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諏訪を追われた千鹿頭族が丹波に流れつき、タケミナカタを祀り、オミヅヌの母・閇乃知尼や刺国若比売やなどの伝承を語り継いで系図を書いた。
やがて粟鹿の地は豊かな土地となっていった。

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しかし後世に当地に三輪族がやってきて、その系図の存在を知り、自らの出自を正当化させるため、上書きして自分たちの系図にしてしまった、それが『粟鹿大明神元記』であると。
土地の支配を奪う過程で古い神が荒ぶる神にされてしまうのは、それが当時の常套手段だったのではないでしょうか。
おそらく『元記』は、『古事記』『日本書紀』以降に編纂されたものですが、それらより古いものに見せかけられ、朝廷に大三輪氏の正当性を主張するために上進されたものと推察します。
つまり当書は、記紀同様に内容の真偽には慎重になるべきですが、貴重な情報も秘められている、と考えるべきでしょう。

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ところで、この小さな堀に浮かぶように建てられた摂社「茗荷神社」、

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祭神は「草野姫命」(かやのひめのみこと)ですが、案内には、この神が当社神紋の「抱き茗荷」(だきみょうが)の由来であると記されています。
カヤノヒメは、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であるとされており、神産みにおいてイザナギ・イザナミの間に生まれ、山の神である大山津見との間に、4対8柱の神を生んだとされる女神です。
そして神紋は「抱き茗荷」とは言いますが、

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神紋を見てみると、本来抱き合うように配置される茗荷の葉は片葉であり、半分は菊花紋となっています。
オオヤマツミの后で「野の精霊」(野つ霊)とされるカヤノヒメ、その正体は「幸姫」ではなかろうか。
カヤノヒメは愛知県の「萱津神社」に、日本唯一の漬物の神として祀られています。
粟鹿神社の鎮座地は「池ヶ平」(いけがなる)と呼ばれていたそうです。その名残のように、境内裏には湿地が広がっていました。

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4件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    narisawa110

    今回はホツマツタエ以外に太田氏の関連の話題としては超弩級の回ですねw

    架空の神須佐男が出ているのでこの頃には記紀のルールの下地が出来上がっていたと思われ、物部氏にとっての先代旧事本紀的な位置付けの文書に見えます

    事代主🟰大物主が隠され、八咫烏がタネヒコである事が隠されています。これは記紀制作にある程度太田氏が関わっている事を示していると考えられます。

    日本書という本を作ろうとしたら煮詰まってしまい、途中で人麿を呼び、途中までの設定の段階で各豪族は家名を消される代わりに手打ちの本を作る事が許されたのではないでしょうか?

    いいね: 3人

    1. 五条 桐彦 より:

      はい、思わぬところで太田くんに会ったな、という感じです。
      『元記』が、記紀より先に書かれたか、後だったかによって、話は変わってくると思います。が、narisawaさんのおっしゃるように、記紀ルールの下地は、各豪族間である程度出来上がっていたのかもしれません。

      いいね: 2人

  2. 匿名 より:

    narisawa110

    おお、という漢字は、出雲系に繋がるミスリードをわざと起こしやすい様に意図的に当て字がなされている気もしてきますね。太田や太氏の当て字がそうです。

    あと、阿米美佐利命となると、安倍ともとれる様な面白い当て字があるんですね。

    いいね: 3人

    1. 五条 桐彦 より:

      やたら”おお”がありますもんね。トラップなんでしょうか。
      阿米、たしかにアベですね。アベさんもシカさんと関係がありそうでしたね、そういえば😊

      いいね: 1人

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