筑紫神社:八雲ニ散ル花 木ノ国篇 筑紫番外編01

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筑紫の国魂「筑紫神社」(ちくしじんじゃ)は、筑紫野市内で最も古い歴史のある神社です。

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もとは、筑紫の城山山頂に鎮座していたが、後、麓に移転したという当社。

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奈良時代の『筑後国風土記』逸文によると、筑紫神社と筑紫の名前のルーツについて4つの説を紹介しています。

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1)筑前と筑後の境に荒ぶる神がいて通行人を殺すので、「命尽くしの神」と呼ばれた。このことから「尽くし」すなわち「筑紫」と呼ばれるようなった。

2)筑前と筑後の境に険しい坂があって、馬の鞍の下に敷いた筵(むしろ)がすり切れたため、人々が「下鞍尽くしの坂」と呼んだ。

3)死者を葬るためこの地の山の木を伐採して木棺をつくったため、木が尽きかけた。

4)九州の形がミミズクの形をしているから。

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4)の説はいまいちよく分からず、「ミミズク=ミズク=ズクシ=ツクシ??」なのか?と僕は思っていましたが、nakagawaさんからコメントで、『ミミズクの古名「ツク」から来ているということみたい』なのだと教えていただきました。
当たらずとも遠からず?
ともあれ、他の説は「尽くし」が筑紫の語源だと言っています。

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「筑紫」と言う言葉自体も曖昧で、最も狭義「筑紫」では、当社を中心とした旧御笠郡(筑紫野市・太宰府市及び大野城市と春日市の一部)の区域を言います。
しかし七世紀末ごろに分離した「筑前国」と「筑後国」を合わせると豊前を外した現福岡県の3分の2に相当する広さに。
更には奈良時代になると筑紫島といえば九州全体を指すようになります。

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思いの外長い参道を歩いていくと神門が見えてきました。
その手前右手には、

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大正4年に近隣の無格社5社を、昭和4年に境内社を合祀した「五所神社」(ごしょじんじゃ)が鎮座します。

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祭神は「須佐之男命」「櫛名田姫」「菅原道真公」「伊耶那岐大神」「少名彦名命」。
後半の二柱が境内社で祀られていた神です。

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神門の先はこじんまりとした境内が広がっていました。

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当社主祭神は「筑紫大明神」で、後に「宝満大神」(玉依姫命)と「田村大神」(坂上田村麿)を配祀しています。

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となると、この筑紫神が一体何者なのか、ということが疑問となってきます。

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『古事記』に、「筑紫の国を白日別(しらひわけ)といい、豊の国を豊日別(とよひわけ)といい、肥の国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曾の国を建日別(たけひわけ)という」とあり、筑紫神社の主祭神は「白日別」であるとする説があります。

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では「白日別」とはなんぞや、という新たな疑問が湧くのですが、「白日」は「新羅」に関連するとのことで渡来系の神であるとする向きもあるようです。

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『筑後神社縁起』では筑紫神は筑紫国魂・白日別であり、またそれを「鸕鷀草葺不合尊」であるとし、また『筑前國続風土記』では「五十猛命」、『筑前國続風土記拾遺』では「麁猛命」、『筑前國風土記考証』では筑後國造の祖「大彦命」であると、錚々たる神が名乗りをあげているのです。

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そこで『筑後国風土記』にあった「筑紫」の語源の1)の説が気になります。
詳しく記すと、
「昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、麁猛神(荒ぶる神)がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。筑紫の君と肥の君らが占いによって、甕依姫を巫女としてその神を祀らせた。それ以後、人々が殺されることはなくなった。」
とするものです。

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神々の闘争を伝えるものに、ここからほど近い基山に五十猛が南に向かい合う「高良の神」と石を投げ合ったとするものがあります。

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基山とは木の山、『日本書紀』で神代の別伝としてしるされる、スサノオが息子・五十猛を連れて新羅に天降り、のち出雲に移ったという記述に関連しており、五十猛は多くの樹種を持っていたが、新羅では植えず、筑紫から始めて国中に播いたと伝えるものが名前の元ネタではないかと思われます。

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であれば物部が大和へ東征したように、海部の血を引く紀伊家が筑紫へ西征したということでしょうか。
謎を秘めた筑紫・紀伊国の痕跡を求め、僕は基山へと足を運ぶのでした。

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ところで参道の脇にある稲荷社の横には、

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これまたなぜか、やたら出雲推しの石碑がずらりと並んでいたのでした。

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13件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    筑紫神とは、白日別ー五十猛命ー彦火火出見命です。素盞鳴命の長男で、真の神武天皇ー饒速日命の兄です。嫁は豊玉姫命ー豊秋津市姫命です。その妹が玉依姫命です。五十猛命と豊玉姫命の子供が鵜草葺不合命です。鵜草葺不合命と玉依媛命の息子が神日本磐余彦命ー崇神天皇です。五十猛命は、

    神武東征で戦死して、和歌山県の伊太祁曽神社に祀られています。福岡県では、糸島市の高祖神社と白木神社や福岡市の飯盛神社中宮社に祀られています。

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    1. 五条 桐彦 より:

      コメントありがとうございます。
      九州王朝説に則したお考えになるのでしょうか。
      九州王朝説に詳しい方と親しくさせていただいておりますが、お考えを尊重はするものの、僕自身は富家伝承を基盤にしておりますので、どうしてもいただいた内容に同意はしかねます。

      五十猛は僕が各地を訪ねてみたところ、やはり海部家由来の王であることに相違なく、物部系の彦穂屋出見(火火出見)と同一人物であるとは申し上げにくいところです。

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  2. 8まん より:

    合祀されてる田村大明神は讃岐一の宮の田村神社の事かと?御祭神はヤマトモモソ姫。ここは中国色の濃い神仏習合神社でしたが・・・偶然ですかね。

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    1. CHIRICO より:

      倭迹迹日百襲姫命
      五十狭芹彦命 (吉備津彦命)
      猿田彦大神
      天隠山命 (高倉下命)
      天五田根命 (天村雲命)
      以上五柱の総称を田村大神と申す

      面白いですね、見事に海部系の神と出雲系の神で占められています。
      滋賀の元伊勢・田村神社は征夷大将軍・坂上田村麻呂を主祭神としていますが、元伊勢とあるように大和姫も祀っています。
      倭迹迹日百襲姫命といえば奈良の箸墓が彼女の陵墓とされますが、実際にはそこに眠るのは、伊勢に三輪山の太陽の女神を遷宮した大和姫であると富家は伝えます。
      物部に関連があるとすれば、この大和姫くらいのものですが、その彼女も実際には出雲の神を祭祀しており、物部の神は祀っていませんね。

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    1. CHIRICO より:

      Ciao Alessia♪
      Sembra davvero delizioso.
      È più bello del ramen giapponese!

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      1. Grazie carissimo!! m(_ _)m

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  3. nakagawa より:

    こんばんはお邪魔します。
    4)ですが、ミミズクの古名「ツク」から来ているということみたいです。

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    1. CHIRICO より:

      なるほど、早速書き換えさせていただきます。
      貴重な情報、ありがとうございます!

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      1. nakagawa より:

        「”ツク”はミミズクで”シ”はなんだったけなー。語調を整えるための助字?接尾語?助詞?えーと・・・。」と思いながらコメントしたので、すごく曖昧な言い方になってしまいました。
        単に「ミミズクの古名”ツク”から来ている」と書けばいいものを。
        でもお役に立てたならよかったです。

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        1. CHIRICO より:

          いえいえ、ありがとうございます。
          富家の伝承では、筑紫は「築秦」から来ているとの話でした。
          ところで宇佐の豊王国と海部族の面白い接点を見つけました。
          邪馬台国の女王卑弥呼とされる豊玉姫は、もちろん徐福と市杵島姫の子孫である物部氏の血筋であることは、宇佐家伝承からも読み取れますが、その後海部の血縁も儲けていました。
          そして改めて考えてみると、壱岐対馬を含む安曇の聖域は、海部族の影響が大きいのではないか、と考えるようになってきました。
          それに関連して、赤米神事もひょっとして海部系なのか?とも。
          であれば、那賀川の日吉神社も海部なのかもしれません。

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          1. nakagawa より:

            わー面白いですね。
            日吉神社が海部系だとすると、どういうことになるのか、chricoさんの考察をわくわくしながらお待ちしています。

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          2. CHIRICO より:

            日吉神社は微妙に下り宮になっています。
            僕はそのことがずっと気になっていました。
            日本三代下り宮の全ては、豊家にまつわる神社であることが最近わかりました。
            下り宮は龍宮信仰に関連があるのかもしれません。
            龍宮信仰にこだわっているのは、物部よりも海部です。
            島根に住み着いた海部族は海童信仰と出雲の龍神信仰を結びつけ、龍宮信仰を生み出しました。
            丹波の籠神社を中心とした海部勢力域では、この龍宮信仰や浦島太郎伝説が盛んです。
            そして宇佐の豊玉姫は間違いなく、海部家の血を引いています。
            このことを知っていた記紀の製作者は、彼女を龍宮の乙姫と記しました。
            志賀海神社は鎮座地を龍宮であると説いています。
            壱岐対馬にも龍宮伝説があり、安曇族の支配域でした。
            こうした外堀を埋めていくと、日吉神社の鎮座地は海部であると考える方が妙に納得するのです。
            ただ星読みに関しては、物部族の方が積極的であったと考えています。
            物部の聖地には星読みを行ったと思われるストーンサークルなどが顕著にみられます。
            日吉神社が星読みの聖域であるなら、やはり物部なのかもしれません。
            または元は海部であったが、のちに物部になった、とも考えられます。

            いいね: 1人

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