大濱八幡大神社”越智氏考”:常世ニ降ル花 越智弦月篇 06

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愛媛県今治市大濱町、僕はついに越智族の本拠地へと足を運ぶのでした。

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四国の西北端に、美しいしまなみ海道を望む大濱漁港があります。

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海に面して鳥居が立ち、民家の間にある参道を歩いていくと

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潮風香る「大濱八幡大神社」 (おおはまはちまんだいじんじゃ)が鎮座しています。

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境内で僕を出迎えてくれたのは、ここの主祭神である「乎致命」(おちのみこと)の石像。

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その下に文字が彫られています。

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見れば越智氏族の系図となっていました。
なるほど、越智家は饒速日の末裔だと、やはりそうきますか。
この系図は「大濱八幡大神社神裔氏族誌」によるものとあります。

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また河野氏(旧姓越智氏)の『水里玄義』(すいりげんぎ)という家伝書に、「越智姓が饒速日を祖とする一方で、徐福を祖とする伝もある」という記事があるのだという話を先輩に教えていただきました。
富家伝承によれば、饒速日とは佐賀に上陸した徐福の別名と伝えられていますので、いわゆる越智家は物部族の末裔であると、これらのものは主張していると言えるのです。
ちなみに出雲に上陸した際に徐福が名乗った名前は火明(ほあかり)です。

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大濱八幡大神社は相殿に、「饒速日命」(にぎはやひのみこと)「天道日女命」(あまじひめのみこと)「仲哀天皇」「応神天皇」「神功皇后」「武内宿禰」「市杵島姫命」「大穴牟遅命」を祀っています。
あまり聞き馴れぬ「天道日女命」は記紀に記載がなく、『先代旧事本紀』に「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)の后で「天香語山命」(あめのかごやまのみこと)の母であると記されています。
この
徐福全部盛りの神に嫁いで香語山=五十猛王を儲けた女性とは、郷戸家・八千矛(大国主)と宗像家・多岐津姫の間に生まれた「高照姫」となります。
つまり饒速日も火明も徐福のことですが、饒速日に嫁いだのは高照姫ではなく宗像家の市杵島姫でなくてはなりません。
一応、相殿には市杵島姫も祀られていますが、並び順からいっても、本来当地は、物部よりも海部・尾張系の勢力が強かった可能性があります。

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大濱八幡大神社は創建は不詳としながらも、上古に遡って乎致命の九代孫にあたる「乎致足尼高縄」が創建したと伝えており、応神天皇の時代に「王濱宮」と称したと云います。
859年(貞観元年)には宇佐八幡宮より八幡神を勧請し大濱八幡宮と改められました。

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さて、ここからは僕の個人的な考察なのですが、『予章記』他、大三島の大山祇神社本社の伝承も含め、越智家に関するものは矛盾点が多すぎるように思われます。
富家伝承によれば、摂津三島家の溝杙姫(みぞくいひめ)が東出雲王家8代目少名彦・八重波津身(事代主)に嫁いでおり、この摂津三島家の大元が伊予三島家(大三島・大山祇神社)であるとすれば、物部系の饒速日では時代が遅く、合わないことになります。
摂津三島が元で伊予三島に派生したとする考えもありますが、これも饒速日が関与する隙はありません。

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つまりここに伝わる祖神饒速日説は、九州から後に移住してきた物部族による上書きの伝承である可能性が高いと思われます。
物部族は2度の東征で四国に立ち寄っていますので、そこでそのまま定住した者も少なからずおり、徐々に四国に勢力を広げたのではないかと考えられます。

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僕が摂津三島家の大元が伊予三島家であると考えるに至った理由は、越智家が各王家に后を出した家ではないかと考えるようになったからです。
そもそもの発端は、宇佐家伝承に、ヤマタイ国のヒミコである宇佐・豊玉姫の息子「豊彦」の后が越智宿禰の娘「常世織姫」(とこよおりひめ)であると記されていたことにあります。
宇佐家伝承では豊家がすでに夫子ある常世織姫を拉致して奪ったように伝えられていますが、豊彦から竹葉瀬ノ君(応神帝)の流れを追っていくと、越智家も密接に追従している形跡があり、争っていた様子を窺うことはできません。この「拉致した」云々の話は日尾八幡神社に伝わる夫婦の御神体の悲劇が重ね合わされた誤説ではなかろうかと思われます。

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豊家が宇佐家と呼ばれていた古くから、越智家との両家は実に一心同体のような関係であったと思われる痕跡が、日本各地に見られます。
さらに大三島・大山祇神社がクナト王を祀っていたであろうこと、富家伝承における四国は古くから出雲領であったことを踏まえると、伊予三島家、摂津三島家も出雲から移住した一族がいたことが窺い知れます。徳島の大麻山が朝山であること、金比羅宮の祭神が大物主(事代主)であることを見てもそれは確信し得るものです。
このことから、四国にいたという越智族は「オロチ族」が由来ではないかとも考えています。実際、四国にある神社の祭神にオオナムチを祀っているところは少なくありませんが、これは大国主を祀っているのではなく、四国にも大名持・少名彦の二王政があった名残ではないかと思うのです。

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では越智族とは、出雲から更に温暖な地を求めて南下したドラヴィダ族だったのか。その可能性は高いと僕は考えます。そうであれば、古くから四国が出雲領であったという話の理屈も合います。
しかしさらに、越智族の根幹となる古い古い古代氏族が四国にはいたのではないかとも考えるようになりました。
ドラヴィダ族が四国に渡るよりもさらに古い時代から四国にいた越智族の根幹となる者たち、便宜上これを真祖越智族としますが、アッシリアに追われて北王国からひっそりと逃れ、極東の島国に定住した民族がいたのではないか。故に自ら表に立つことを控え、原住民と同化し、しかし自らの根幹を失うことのない一族。そして各王家と姻戚を結ぶことでこの国を影から支えた一族。それが真の越智族ではなかろうかと思うのです。

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四国には元諏訪を主張する神社が存在し、紀伊半島を越えた先の愛知(オチ)県には豊川・豊橋・豊田があり、その先に天竜川がそそぎ、川を遡ると阿智村を経て諏訪湖に至ります。阿智村の阿智神社祭神はオモイカネ、古事記に「常世思金神」と書かれる神です。
越智家を探っていくと、白水・白山・白嶽・白川など、白をシンボルとしていることが知られます。天日矛(あめのひぼこ)の伝承にアカル姫の話がありますが、アカル姫を祀る神社が大阪・岡山・福岡筑紫・そして大分の姫島に鎮座しており、アカル姫は白い石が変化したものだと云われています。ヒボコと出石神社に伝わる后・麻多島との子孫には、田道間守(たじまもり)をはじめタジマがつく名が連なりますが、そこになぜか系統の違う息長家のタラシ姫(神功皇后)が登場します。完全に仮定の話ですが、ヒボコに越智家の姫としてアカル姫が嫁いでおり、その子孫が息長タラシ姫であったなら、彼女が月神を祭祀し、竹葉瀬ノ君を養子に迎え入れられたということにも納得がいきます。息長という氏族名も、変若(ヲチ)と連想させるのです。

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摂津三島家が越智家の血筋であるとするなら大和王朝初期にもその血が流れており、先述の件から豊家、ヒボコ家、諏訪家にも越智の血が受け継がれている可能性が見えてきます。
おそらく海部・物部両家とも姻戚を結んでいたのではないでしょうか。これらのことが、越智家は各王家に后を出した家であったと僕が考えるに至った所以となります。
そして日本には古来、不老長寿の妙薬があるのだと大陸に伝わっていました。徐福らが求めたそれとは、越智族に伝わっていた変若水(をちみず)の事だったのではないかとも思うのです。

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宇佐家伝承には宇佐族は「サルタ族が出雲に来た」ことを知っていたという記述があります。
このことについては、なかひらまい著『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』について「れんげ」さんと考察を交わした時に、当初九州にはインドネシア系の渡海系民族が定住しており、そこに出雲族がやってきて海洋系宗像族や宇佐族の基盤ができた、さらに秦族がやってきて宇佐族が誕生したのであれば時間軸としての辻褄は合うのではないかと話がまとまりました。
ただ僕は少しだけ、この考察に違和感を抱いてもいました。果たしてインドネシア系の渡海系原始民族が、「サルタ族が出雲に来た」と明確な情報を後世に伝えれたのかということです。ここにより高度な知的文化を持っていた越智族がいた可能性を、僕は最近考えるようになりました。そのきっかけは、九州王朝説派のダンブルドア先生との邂逅にあります。

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九州王朝説、阿波王朝説はもちろん僕の支持するところではありませんが、それらを主張するに足る、強大でありながら実像が見えにくい勢力が本州南部から四国・九州にあった痕跡が朧げながらに見えてきました。
それは「白」を纏い「月の霊水」を担う一族。
江戸時代まで天皇の代替わりに儀式を行ったとされる白川伯王家も、その名は霊峰・白山の麓にある白川郷とも無関係ではないように感じられ、背後に越智族の気配を感じ取るのです。

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大濱八幡大神社から池を隔てた対面に、

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越智氏族発祥之地碑があります。
この記念すべき石碑を、もっと分かりやすい場所に置けば良いのにと思いましたが、何故かそれは分かりにくい。

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階段の真下まで来て、ようやくその文字が見えました。

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この越智氏族発祥というのは、先の石像にあった饒速日・徐福系の「乎致命」(おちのみこと)を始祖とするという意味でしょうから、個人的には「物部系越智族」発祥の地としておきます。
真祖越智族発祥は別にあると思われます。それは高知か徳島か。

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越智族のことは本当によく分かっておりませんし、複雑で謎も多いため、あくまで僕個人の見解です。
ただ、親魏和国の女王・豊玉姫の威光が及ぶ東征期までは物部族は当地で大きな顔ができたとも思えず、饒速日を越智族の祖と位置づけたのは、第二次物部東征によって物部・大和王朝が確立された後のことであろうと考えています。

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また当社は、境内摂社に杵築神社、境外摂社に美保神社・楠神社・杵築神社と出雲系摂社群を擁していることも違和感を抱かせます。
越智族が物部系であるなら、このような出雲系神社を祀るとは思えないからです。

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やはり越智族にはドラヴィダ系の血が流れているのではないか。越智族の名の由来はオロチ族ではないかと考える所以でもあります。
しかしその越智族も出雲系越智族であると言えます。
更に深淵に、真祖越智族と呼ぶに相応しい血脈が隠されているのではないか。

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複雑な月齢を読み、徐福が求めた変若水を有し、白をシンボルとする一族。
僕の抱く歴史的疑問として、なぜ日本は今も日本であり続けられているのかというものがあります。玄海の海が険しいのだとしても、隣国にこれまで征服されなかったのは何故か。大挙して押し寄せた渡来人は何故、みな帰化して和人となったのか。
古来日本には、他国の者が神聖にして侵すことのできない強大な何かがあったのではなでしょうか。ひょっとするとそれは北王国から逃れ、歴史に表立つことを禁忌とした一族の末裔たちなのではないのかと、かすかに僕は妄想するのです。

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大濱八幡大神社の境内摂社の「潮富貴神社」(しおふきじんじゃ)には祓戸の神が祀られています。
その中で著名な瀬織津姫(せおりつひめ)、その神の正体は越智の姫君にして豊玉姫の息子・豊彦(ウガヤフキアエズ)に嫁いだ「常世織姫」(とこよおりひめ)であろうと僕は考えます。

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常世とは月の変若水で満たされた冥界。
神が背負った穢れを浄化するのが変若水。
白山に祀られる菊理姫は常世と現世の境界を取り持つ女神。
太陽神の代替わりを担った常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)。
天皇の代替わりを担った白川伯王家。
こうしたキーワードが、ここに来て一つに繋がり始めたのでした。

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最後に、ここ大濱八幡大神社に立つ石像がもう一体あります。
それはなぜか伊藤博文公の石像。

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なるほど、そういうことです。

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15件のコメント 追加

  1. 出芽のSUETSUGU より:

    GW後半。家の衣替えと妄想研究。この頃、結構なコメント連射で申し訳ありません。空いておられるときで構いません、何か情報をお持ちで教えて頂けたら幸いです☺

    祓戸社によく瀬織津姫が祭神となってて、それが越智族の常世織姫のこと。これは確かにピッタリですね。汚れを神聖なる水で祓う。。古代は罪人は、摂津の淀川から淡路島を経由して四国へ流したというのも、流刑という意味合いが、死の汚れをまとった者が死国(常世)に行って穢れを祓って再生する(そこに淡路島がなんか関係しそう)その必須アイテムとして越智族の有する変若水。。神の背負った穢れを祓う。。

    なるほど。天村雲神社が徳島にあるのが不思議でしたけど、父や子孫の関係する出雲王家ツートップ◯害の穢れを祓うために、香語山こと五十猛とホヤ姫は、まず阿波の徳島にきて、(確かに徳島の日峰山は香具山という)天村雲を産んで、阿波を経由して京都丹後へ行ったあとに大和へ進出したとも考えらませんか。ん?でもホヤ姫は物部系の姫ですけど。。元から阿波にはいないはず。では生誕地はやはり、丹後??

    そこはちょっとわかりませんが、京都丹後と阿波徳島は、同じ海人族としての海部と越智族との強い結びつきがあるのですね。ここら辺りはいつかきちんと順序と現地調査(笑)を通して学びたいとは思えど、主婦&サラリーマンゆえ、なかなか手は広げられません(^_^;) 

    私は八重波津身と八千矛さまの、御子や姫君のその後ことがまだよく分からないので、その辺りの時代で引っかかってますね。。でもそこに阿波や、越智族の役割を絡ませると、あっそういうことだったのか、的なことがわりと出てきたのです。

    死の穢れと云えば、ひょっとして味耜高彦が書紀にあるように謎の死の穢れをつけられた話も、その後に出雲に残って少名彦となる前に?阿波に行ってないかな。。と思えてきます。なぜなら阿波には事代主の神社が多い。あれは阿波ルーツの摂津三島溝杭一族が八重事代主のことを祀ったから阿波にあると思ってましたが、この事代主とは実は味耜高彦のことである可能性はないのでしょうか。天事代主(長くて書けない)という天神系の別名があるのですが、これに八重波津身さまをどうしても感じられない。これは味耜高彦のことではないか、でもそうなるとクシヒカタとの関係性でつまずいてしまいます。

    また、下照姫は出自が越智族と関係しそうに思えてきました。また、任那、伽耶との関係性をも感じる姫君です。天日槍ともつながりそうな気がしてきたのです。アカルヒメ、白く照らす。アカルヒメ(赤玉だけど)、これは下照姫と何か関係がないのかと。しかも夫の建葉槌命って。。名前からして竹葉瀬ノ君と似てますよね。

    息長家が宇佐の月読ノ神をまつる家で、また宇佐家の子孫・竹葉瀬ノ君の養子先であった関係のことを考えたら。。しかも豊彦の后は越智の娘。。。

    下照姫と越智族。阿波。伽耶あるいは新羅。まるで謎ときですね(天日矛は新羅の王子ではなく阿羅伽耶の王子でしょう、恐らく。)

    下の国(阿波)から太陽を照らす姫=下照姫。その上である出雲の国から太陽を照らす姫=高照姫、なんてことはあるのかと妄想します。上下がどこかの場所を指すのでしょうか。伽耶が関係するならまた別の話かも?

    ところで高照姫といえば、大元出版シリーズでも実は振れられておらず、ぼかされている点。

    高照姫の実家ってどこ?

    とずーっと思ってます。夫が酷いことしてもうた、大和や丹後に行くまえに実家。。。。ってどこ?。。。。

    話を戻します(笑)

    とにかくこの頃、色々とオチがあります。大彦からの〜天児屋根命からこんな風に謎が広がるとは。

    ただ、今の私が、海部や出雲王家に嫁いだ姫君たちのことで何でもオチや阿波に絡ませるのも危ういなとも思う部分もちよっとあって。。。なぜなら阿波に黄泉平坂があった、東出雲町の黄泉平坂はあんなに突然パッと磐座あるのおかしいからデタラメだ、とおっしゃられる阿波古代史研究家の方もおられて、そこは島根半島出雲族ルーツとしては聞き捨てならんというのが本音です。阿波古代研究家さんたちの言われる、出雲神話の舞台は実は全て阿波だった、というオチだけは勘弁して欲しいと思うのです。

    長文失礼しました。話が多くてボケてきましたが、高照姫の実家ってどこ?

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    1. 五条 桐彦 より:

      福岡の久留米に水沼氏という氏族がおり、水沼の巫女は月夜に変若水で神の穢れを祓うとされています。水沼氏には豊玉毘賣縁起と言うものが伝えられており、豊と越智の姻戚関係による分家であろうと考えられます。安曇族もしかり。
      常世織姫は豊彦と共に東国に逃れていると思われ、その子孫である竹葉瀬君の敦賀までの移動ルートを辿ると、途中に越智神社が2社見え、福井には越智山が存在します。越智山越知神社の御住職は、越智山から古代の祭祀遺物が出ていることから、古代越智族がここから白山信仰を興していったと推察されます。
      故に、白山に祀られる白山比咩=菊理姫は常世織姫である可能性が高く、また瀬織津姫とも同神であると考えています。

      アカルヒメは、確か日本書紀の一に曰くとして、白い石から生まれたとされていたと思います。

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      1. 出芽のSUETSUGU より:

        越智族は各地の豪族と姻戚関係にあり分家も結構ありそうですね。水沼氏、名前からして奇跡の水で穢れを払う姫巫女がいてもおかしくないですね。

        ところで、下照姫については富家の口伝でも敢えて触れないようにちよっとしたタブーなのかもしれないと思うようになりました。ここでもあまり記載しないほうがよいのですかね。。。(う〜むどしよう)

        アカルヒメについては赤留比売命神社とか大阪の比売許曽神社の由緒が気になり、もうハッキリと下照姫のことだとありますよね。天日槍あるいは敦賀の都怒我阿羅斯等?が元夫で嫌になり親の元に帰るといって、出雲に?? この部分の日本書紀は全てがデタラメとは言えないのではないかなと。。似たようなストーリーが朝鮮の『三国遺事』に「延烏郎(よんおらん)と細烏女(せおにょ)」説話としてあって、新羅でも同じ類の話が伝承してるということは、信憑性は一応あると思いました。出雲王から八重垣が守れないから天日矛は住むことを拒否された、この辺りには態度だけではなく姫君(下照姫)を大事にしなかったから追い出された。。のかな。。味耜高彦が怒ったのは。。。

        建葉槌命って名前が似てて気になりましたけど、これまた竹葉瀬君の敦賀のルートに越智神社?豊彦。。。神功皇后。。新羅。。伽耶。。

        時系列が全然合っていなくておかしいけれど、なんか繋がる、というのはどこかで誰かと誰かが本当は同一人物なのだけど、後世のことをぼかすために、大分前の神話に例えたということもあるのかもしれないと思えてきました。前後でその逆も然り。同じようなトリック結構ありますよね。。記紀のストーリーはその伏線なのかもしれませんね。

        そこに越智がまた絡み、白山信仰へ進化して伯家へつながるのですね。菊理姫=常世織姫=瀬織津姫。。なるほど。

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  2. 匿名 より:

    ただの下級武士では無かったのですね…w

    明治維新についての大元本にも、ここまでは書かれていませんでした。

    幕末当時、海外からの圧だけでなく、越智や物部といった氏族の思惑もあったんでしょうか?

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    1. 五条 桐彦 より:

      記紀編纂と明治維新は、闇が深そうですね。

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  3. 匿名 より:

    伊藤博文…..越智。そういう事ですか。ゾゾっとしましたw

    単なる下級武士では無かったんですね。

    wiki情報ですが、『明治初期に政府公文書で本姓やカバネを使うことが義務づけられていた時期には、越智宿祢博文と署名した』らしいです。

    宿祢って…物部に認められた敬称。日本を支配しているのは、古代から現在に至るまで、一握りの氏族ってことなんでしょうか?

    話は外れますが、明治天皇は護良親王のために鎌倉宮を建てたり、南朝贔屓の印象があるのですが、なんか、ここら辺とも連動してそうな気がしてきました。

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    1. 五条 桐彦 より:

      僕は彼は越智では無いんじゃないかと思っているんですがね。そういことにしてしまったのかな、と。
      なんかこの辺は、あまり突っ込んではいけない気がしてます。

      いいね

      1. 匿名 より:

        返信ありがとうございます。

        コメントが直ぐ反映されなくて、勘違いして重複してコメントしてしまいました。

        突っ込まない方がいいと、自分も思います。

        越智宿祢って、署名もなんかいい名前使ってみよう的な自己主張感もします。

        個人的には支持してない、明治天皇すり替え説がよぎって、ゾゾッとしました。

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        1. 五条 桐彦 より:

          私も支持していない派なのですが、企みはあったのではないかと、思わざるをえない痕跡に遭遇することがあります。

          コメントは、一度承認されるとすぐに反映される時と、毎回承認扱いになる場合、稀にスパム扱いになってしまう場合があります。
          本業がそれなりに忙しく、確認が遅れがちで申し訳ありませんが、気長にお待ちください😌

          コメントは気軽にご投稿いただけると、嬉しいです😊

          いいね

  4. 匿名 より:

    越智 小市 高市 古市 越
    越ノ八俣大蛇 九頭竜 
    福井市八俣 越智山 南越前河野村 白山 泰澄 十一面観音  

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    1. CHIRICO より:

      越智のキーワード、ありがとうございます。
      当初、越家の大元は何処だろうと考えていましたが、越智族を知ってそうなのではないかと考えています。
      しかし富家の伝承で越智家は一言も語られていないのが、僕の説の大きな瑕疵です。
      越智のキーワードは、まだまだたくさん出てきそうですね。

      いいね

  5. さいとうよしみ より:

    おはようございます。コメントありがとうございます。
    今治の土地にも関心を寄せて頂き、縁ある者の一人として感謝申します。
    残りの人生の後半戦の時間は、東国の歴史の中の姫神の足跡を辿る事に使っております。平将門公も瀬織津姫大神を奉斎していた物証も、そんな旅路の途中で巡り会えました。
    『越智』の視点で東国を見直して見ますね。千葉妙見、相馬、東国三社、香取海、四方拝……日高見、中臣祝詞…。
    分からないことばかりです。

    いいね: 1人

  6. さいとうよしみ より:

    ごめんなさい。
    もう一言だけお許し下さい。
    祓戸の禊ぎの姫大神。以前は出雲族の姫巫女の系譜と判断しておりましたが、最近は古代出雲族入植以前に、そのルーツ起源を遡る判断も必要ではなかろうか……?と漠然と感じおる次第です。
    お気に障りましたらお許し下さい。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      祓戸の四神の名は、いくつかの古代氏族に由来を感じさせますが、その主たる瀬織津姫の正体は越智の常世織姫で間違いないかと思われます。月の変若水で神を禊ぐ巫女がいたと云われており、それは豊族の末裔だろうと考察しておりましたが、むしろ越智族の血を濃く引いていたのだろうと今では考えています。そうして九州・四国をはじめとした越智族の痕跡を探っていくと、やはり出雲より古いルーツを感じることが多々あります。

      いいね

  7. さいとうよしみ より:

    こんばんは。
    CHIRICO様の旅路の途中のお考えを伺えました。
    万葉歌人高市黒人(尾張國愛智郡作良郷、年魚市潟)にも辿り着けました。新しい学びになりました。
    ありがとうございました。

    いいね: 1人

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