「一生に一度はこんぴらさん」
ということで行って来ました、金刀比羅宮へ。
「こんぴらさんはきついよ~」とお客様との会話の中でも何度か聞きました。
言うても神社でしょ、皆んな登ってるんでしょ、と僕は心の中でほくそ笑ます。
「金刀比羅宮」(ことひらぐう)参拝をきついと言わしめるのは、その785段の階段。
言うても1000段未満じゃないっすか。
1000段くらい、すすいっと登っちゃいますから、僕は。
などと早朝の表参道商店街を歩きながら、軽い気持ちでいました、この時までは。
長い長い石段を登ります。
途中の商店では、荷物を預かってくれたり、杖を貸してくれるところもあります。
また縁起の良い段数に立つ商店は、それにあやかる店も。
紫の鳥居が見えてきました。
この鳥居の両脇には、やや大きめの備前焼の狛犬が鎮座しています。
がんばれよ~、そう励ましてくれていますが、
この先の113段目から大門までは「一之坂」と呼ばれる、特に急な石段となっています。
勾配が並じゃないっすよこれ。
一之坂の横には、重要有形民俗文化財の灯明堂があります。
安政5年(1853年)、備後国因之島浦々講中の寄進により、船の下梁を利用して建てられました。
まっじきつい。もう心折れそうです。
この階段を駕籠で運んでくれるサービスもあるのだとか、信じられん。
300段ほど登ってきたところに何かあります。
第19代宮司の「琴陵宥常」(ことおかひろつね)(1840-1892)の銅像です。
琴陵宥常は帝国水難救済会を創立した人物として知られます。
365段を登ったところにあるのは金刀比羅宮の総門「大門」です。
大門は水戸光圀の兄である讃岐国高松藩主「松平頼重」から寄進されました。
大門の左手前、鼓楼の傍らに、清塚(きよづか)と呼ばれる石碑があります。
清少納言(せいしょうなごん)が夢に出て、自らの墓を示したという伝承が残っているそうで、そのようなことが石碑に刻まれているようです。
清少納言を輩出した清原家は、僕の遠い遠い親戚にあたる(ということにしている)一族ですので、金刀比羅宮に急に親近感がわきました。
ここから眺める讃岐の町は、朝霧に覆われて美しいものでした。
思えばずいぶん高いところまで登ってきたことです。
しんみりと物思いにふける僕でしたが、こんぴら参りの冒険は、まだ始まったばかりなのでした。
大門から先、150m程続く石畳の道は「桜馬場」と呼ばれます。
春には両脇の桜が参拝者の目を楽しませます。
そしてずらりと並んだ全国から奉納された石碑は、当宮の信仰の深さを偲ばせます。
「こんぴら参り」が全国的に広まったのは江戸時代のこと。
当時、庶民が旅をすることは禁じられていましたが、社寺への参拝の旅は許されていました。
そこで「お伊勢参り」や「熊野詣」と並び、こんぴらさんは「一生に一度はお参りしたい場所」として、庶民の憧れとなったのでした。
桜馬場を過ぎたところにある銅鳥居の下に
「こんぴら狗」という湯村輝彦氏デザインの銅像が立っています。
江戸時代、当人に代わって飼い犬に代参させたと伝えられており、その犬は「こんぴら狗」と呼ばれるようになったとのことです。
伊勢参りにも似たような話がありましたが、犬がそのようなお遣いをしたのでしょうか。
神馬舎もありました。
美しい白馬が2頭いましたが、撮影禁止だったので看板を。
そしてなぜか象の像。
これはもしやサルタ、、、いや違うか。
「こんぴら」という呼び名は、かつてインドを含む南アジア周辺で使用されていたサンスクリット語(梵語)の「クンビーラ」が語源だと言われています。
クンビーラとは、ガンジス川に棲むワニを神格化した水神で龍神にあたります。
また仏教では「宮比羅」(くびら)と呼ばれる水運の神様で、古来この地に祀っていたともされています。
こんぴらさんは江戸時代までは、神仏習合の「金比羅大権現」を祀る「象頭山松尾寺金光院」という寺院でした。
それが明治期の神仏分離令によって「大物主神」を祀るようになったと云います。
大物主とは一般に大国主の荒魂とされますが、実は東出雲王国8代少名彦の「事代主」のことであり、西出雲王家8代大名持の大国主とは別の神であると、東出雲王家・富家の末裔の富氏は語ります。
富氏曰く、讃岐国は古くから出雲文化圏であったといいます。
金刀比羅宮の由緒書きによると、大国主が象頭山に本拠を定めて、この地方の経営に当たったと伝えています。
また伊予国風土記の逸文に、「湯の郡」(道後温泉)の記事があり、大穴持ノ命が(洞窟で死んだ)スクナヒコノ命の姿を見て、(助け得なかったことを)悔い恥じて、大分の速見(別府)の湯を地下の水路で引き、スクナヒコノ命を浸して入浴させたら、しばらくして生き返ったと書かれてあります。
この記事はスクナヒコノ命の不慮の死を、四国の人が知っていたことを示していると富氏は言います。
僕は「こんぴらさん」という呼び方から「金比羅」と勘違いしていましたが、当宮の名称は「金刀比羅宮」、ことひらぐうなのです。
当地の地名からも、その元の字は「琴平」であるということが分かります。
これは出雲の琴引岩や熊野のゴトビキ岩に関連があるように思いました。
古代出雲人はインドのドラヴィダ族が移住してきたものでした。
彼らはワニとコブラを畏れ敬い、ナーガという龍神を生み出しています。
仏教もまたインド由来であり、「クンビーラ」も「宮比羅」も、当地に古くから出雲族の龍神信仰と繋がりがあったことを示すものであると思われます。
祓戸社の隣に鎮座する火雷社には、火産靈神・奥津比古神・奥津比賣神に座して、八衢比古神・八衢比賣神・來名戸神が合祀されています。
この八衢比古神・八衢比賣神・來名戸神こそ古代出雲の原初の神、サイノカミの三神なのでした。
628段の石段を登ったところに、金刀比羅宮「旭社」があります。
幕末期に清水次郎長の子分「森の石松」が親分の代参で訪れた際に、あまりにも立派な旭社を本宮と間違え、刀を奉納していってしまったという逸話のある立派な社殿ですが、旭社は本宮の後にへ参拝するのが正しい順序なので先に進みます。
鳥居の先に
賢木門(さかきもん)があります。
天正12年(1584年)に長曽我部元親が寄進したものと伝わります。
元親軍の往来の邪魔になるので火をつけたところ暴風や数千の蜂による神罰が下り、慌てて再興したところ柱を逆に建ててしまったことから「長曽我部の逆木門」と呼ばれていたという逸話があります。
しかし、この話は長曽我部を辱めるための創作で、それまでここに門は無かったそうです。
伊勢神宮や皇陵の遙拝所を過ぎると、
昼間でも薄暗い「闇峠」があります。
ここに1段だけ下る場所があるのですが、それは実際には786段ある本宮までの石段を、「な・や・む」と読める語呂が悪いということで、一段下げて785段にしたものであると云われています。
手水の先の連籬橋を渡ると、
建速須佐之男尊と、その后神である奇稲田姫尊を祀る「真須賀神社」があります。
スサノオは大国主神の御祖神とされていますが、それは大きな誤りです。
さてこの急坂、652~785段に続く「御前四段坂」を登ると
いよいよ金刀比羅宮・本宮があるのですが、
右手に大年神・御年神・若年神を祀る御年神社と、
積羽八重事代主神・味鉏高彦根神・加夜鳴海神を祀る事知神社が鎮座します。
これらの神々は間違いなく出雲の神。
ただ、その系譜は誤って伝えられているようです。
左を見ると御百度石があります。
金刀比羅宮の御百度参りは気合がいりそうです。
狛犬も凛々しく
鳳凰のような尾を纏っています。
それにしてもはるばる歩いてきました。
785段、
威風堂々、金刀比羅宮・本宮へ、ようやく辿り着いたのです。
本宮境内から讃岐平野を眺めると、朝霞の中、左手に「讃岐富士」と呼ばれる飯野山(いいのやま)が見えていました。
見通しが良いと瀬戸大橋まで望むことができるそうです。
風が吹き抜ける心地よい社殿。
祭神は「大物主命」と「崇徳天皇」。
大物主は先に記した通りですが、崇徳天皇は保元元年(1156年)に讃岐国に配流されたことに由来します。
讃岐で崩御する前年の長寛元年(1163年)に当山境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮したと伝えられています。
崇徳天皇は菅原道真・平将門と並ぶ日本の三大怨霊として有名です。
修験道には御霊信仰があり、その影響で祀られていると云われています。
本宮の右手に2基の銅灯籠が建っています。
古くからこの右側の灯籠を触ると「へそくり」が増えるご利益があるといわれており、灯籠を撫でて帰る人が多いとのことでした。
「お伊勢参り」や「熊野詣」と並ぶ「一生に一度はお参りしたい場所」なんですね!!
いつかは行きたいです。
でも、階段が…( ;∀;)
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そう、旅する管理栄養士さんにはおすすめしたい「こんぴら参り」です♪
階段はもう、ゆっくり登るしかありません。
最終的な裏技で、中頃にある資生堂パーラーまで車で登ることができます。でもっぱり下の商店街から登ることをおすすめします。
登っている時は何でこんなにきついのか恨めしく思いますが、登拝してみると、なぜ江戸時代の人たちが恋焦がれたのか、何となく分かる気がします。
伊勢や熊野とはまた違った風が吹いていました♪
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そうなんですね!!
行ける日までに体力をつけます(笑)
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金比羅船船追風に帆かけてシュラシュシュシュ~。
五人百姓の加美代飴。ちっちゃハンマーで叩いて割る飴。懐かしい場所。
大物主とインドのシヴァ神と合神した大黒さん。日本の七福神は日本人のルーツとなる民族の場所からの神様で成り立ってるようですね。
あの階段、籠で登りたくなる膝がやばい場所として記憶されました。(笑)
ここももう一度訪問したいです。
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この日は金刀比羅宮を参拝して他に数カ所回る予定でしたが、石鎚山の疲れもあって、もう讃岐うどんを食べて帰路につきました。
また改めて讃岐攻略に訪れたいです。
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琴平の語源、知りませんでした。面白いですネ!
ワニをパーリ語(ビルマの一部)だとkumbhīla
https://en.wiktionary.org/wiki/kumbh%C4%ABla
シンハラ語だとකිඹුල් (kiᵐbul)キンブル、ラオ語(ラオス)でກຸມພີ (kum phī)、ベンガル語でকুমীর (kumir)。
南インド(セイロン島)とラオス、ベンガル。東南アジアはインドと離れますが、3世紀にインド化が進んだ場所で、今使われているカンボジア、ラオス、タイ、ミャンマーの文字はインドのブラーフミー文字に源流があります。
クンビーラ、いい響きですね。まだ行ったことないので行ってみたくなりました。
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クンビーラは世界を結ぶ、
クンビーラ・コトビーラ、これからの合言葉ですね、シュラシュシュシュ。
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素適なところですね。
拝見させて頂いていると息が切れてきそうです(笑)
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階段の数が多いだけでなく、坂が急なんですね。
でも割とご年配の方も、頑張って登ってありました。香川の方の元気の源は、こんぴらさんなのかもしれません!
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両親が香川県出身なので参りました。登り終わった後の絶景くらいしか覚えていませんが、何故か懐かしいです。
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そうでしたか、香川は思ったよりもずっと都会でしたが、それと同時にとても懐かしい空気を感じるところでした。
今回は石鎚山と金比羅山でずいぶん時間を使ってしまったので、またゆっくり旅したいと思っています。
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おはようございます。
母と最後に行ったのが、金比羅山でした。
階段が上がれず、母は籠に乗って……
懐かしく拝見致しました。
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taiyouさま、おはようございます😊
そうでしたか、思い出深い場所ですね。
朝一番に参拝いたしましたが、うっすら差し込む光が神々しくて、良い気持ちでした。
早朝なので籠の方は見かけませんでしたが、すごいですよね、コツなどがあるのでしょうか。
この後、奥宮まで行きましたので、次回はそのお話です。
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お気を付けて下さいね~💛
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