神倉神社:八雲ニ散ル花 木ノ国篇08

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この社では、2月6日の夜に御燈祭りがおこなわれる。
参加する男たちは「上り子」と呼ばれ、 1週間前から精進潔斎する。
潔斎の期間中は、口にするものは白飯や豆腐など白い物に限られる。
白は古代から男の種水の色であった。
その伝統があったので、現代の紅白歌合戦の白も男の色である。
そして祭りの当日、上り子たちは全員、白衣を着て参拝する。
腰には、男性の象徴の縄を巻く。
この祭りは、女性の参拝は禁じられている。
社の前では、男神の象徴の大松明に火がつけられ、石段の途中まで下る。
上り子たちは、争うようにしてその火を自分の松明に移し、山上に向かう。
全員が山上の境内に入ると、いったん木柵が閉じられ、あたりに炎と煙が立ち込める。
そして、ふたたび木柵が開かれると、上り子たちは一斉に飛び出し、数百段もある急な石段を駆け下りる。
それは正に、古代イズモ族が重要視した女神と男神の合体を祝う祭りであった。

ー大元出版 富士林雅樹 著『出雲王国とヤマト政権』ー

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和歌山県新宮市、標高120mの「神倉山」(かみくらさん、かんのくらやま)山頂付近に、街中からも目視できる大きな丸みを帯びた岩があります。
この岩が「神倉神社」(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)の御神体「ゴトビキ岩」です。

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神倉神社の参道入口は、国道42号線から入り込んだところにあるのですが、その曲がり角が少々分かりにくいので、前もって調べておいた方が賢明です。

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無料の駐車場に車を停め、赤い太鼓橋を渡ると、すぐに見えてくるのは「猿田彦神社」と「神倉三宝荒神社」。

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猿田彦は一般に「導きの神様」と認識されていますが、本来は出雲のサイノカミの一柱。
インドのガネーシャがその前身であると富家に伝わります。

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猿田彦神社の裏手には滝のような、小さな沢が流れていました。

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猿田彦神社から参道を進んだところに掲げられた石碑。
「日本書紀」の「神武天皇紀」にはこうあります。
「(神武天皇は)佐野を越えて、熊野神邑(くまののみわのむら)に至り、天磐盾(あまのいわだて)に登った」

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この先の山頂付近にある「ゴトビキ岩」が「天磐盾」であり、御神体として祀られる所以であると云われています。

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参道麓の鳥居が見えました。
賽銭箱が設置してあるように、ここで遥拝することもできます。

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なぜなら、この先の道のりを見たときに、これはもうムリ、となる人もいるからです。

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この強烈な石の階段は、花崗岩の自然石を組み合わせて築かれており、538段あるのだそうです。

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幅は平均約4m、高さと奥行きは一定ではありませんが、おおよそ高さ25cm、奥行きは30から40cmとかなりの大ぶり。
建久4年(1193年)に源頼朝が寄進したとして有名ですが、その根拠は『熊野年代記』の記事がその旨を伝えるに過ぎないと云います。

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それにしても厳しいのは石の数や大きさもさることながら、その急勾配さ。
少し登っただけでも息が切れます。

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この石の参道の中程に広場があり、小さな神社が建っています。
これは「火神社」といいます。

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神倉神社では毎年2月6日の夜に、「お燈祭」(おとうまつり)という有名で勇壮な火祭が執り行われます。
白装束の男たちが、この急勾配の石段を火のついた松明を持って全力で駈け降りるというもので、迫力のある荒々しい男の祭だそうです。
これは当地に住み着いた出雲族たちが、ゴトビキ岩で行なっていた原初のサイノカミ祭りの名残を示していると、『出雲王国とヤマト政権』に記されています。
この日だけは神倉山は女人禁制になります。

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さて、厳しかった石の参道も、ここまでくるとあと一息。
勾配もずいぶん緩くなります。

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すると赤い玉垣に囲まれた神域が見えてきました。

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手前には、この結界を守るように小社が建っています。

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長い道のりのように感じますが、ここまでかかった時間は10分ほどでした。
しかしきついのはきつい。

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鳥居をくぐってすぐにある、味わいある手水鉢。
新宮城城主の水野重良が寛永8年に寄進したとあります。

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先へ進むと、

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ありました、神倉神社の社殿と御神体「ゴトビキ岩」。

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社殿は今にも、神体岩に押しつぶされそうです。

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ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮地方の方言だと一般には言われており、さもありなん、という御姿をしております。
神武が麓からも見えるこの岩の上に立ち、大和を見下ろしたという伝承も頷けるというもの。
このとき、天照大神の子孫の「高倉下」が神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした「八咫烏」の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされています。

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しかしながらWikipediaを見てみると、「熊野権現御垂迹縁起」などをはじめとする資料には、神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられていると書かれていました。

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神倉神社は、「熊野速玉大社」の飛地境内摂社という扱いで、「熊野三山」の一部、および世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部であると位置付けられています。
しかし熊野速玉大社がゴトビキ岩を「元宮」と表現している通り、当地の祭祀は熊野速玉大社創建の遥か昔、弥生期からなされていたのでした。

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実はこの日、僕はAM5:00にゴトビキ岩まで登ってきていました。
それは是非、ここから御来光を拝したいと思ったからです。
参道の写真は降り時に撮ったものです。

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ゴトビキ岩の横の小さな社殿には、祭神として「高倉下命」と「天照大神」が祀られていますが、当地は本来、出雲族がサイノカミの岩神を信仰した場所であると『出雲王国とヤマト政権』に記されています。

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であれば、太陽信仰を持つ出雲人がここで朝日を拝しなかったわけがありません。

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古代出雲族は、形の良い山「神奈備」に昇る朝日を神として崇拝していました。
ここ熊野灘には朝日の方向に山はありませんので、海から昇る太陽を直接拝していたと思われます。

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往古に天照大神の名はありませんでしたが、のちに「大和姫」が伊勢に「出雲の太陽の女神」を祀るようになり、それを記紀編纂に合わせてそのように呼び習わされることになりました。

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かくして今日も彼女は、高天原から豊葦原中津国を遍く照らしたまうのです。

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熊野信仰が盛んになると、ゴトビキ岩は熊野権現が熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになり、修験者も集うようになりました。
中世以降、度々火災や水害、台風そして戦禍に遭い、繁栄と荒廃を繰り返します。
現在の社殿や鳥居は、大正から昭和初期に再建されたものになります。

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戦国時代に熊野信仰を広める大きな役割を果たした者に、「熊野比丘尼」と呼ばれた僧形の女性芸能者たちがいました。
彼女らは新宮神倉の妙心寺などに属し、熊野牛王宝印を売り歩き、『観心十界曼荼羅』や『那智参詣曼荼羅』などを絵解きしながら、聖地熊野の信仰を広めていきます。
修験道においては女人禁制が常でありましたが、女性の参詣を積極的に受け入れてきた熊野ならではのことです。
このおおらかさは当地に定住したという出雲族のDNAが影響していると、僕には思えてなりません。

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しかし、江戸時代になると紀州藩の宗教政策のために熊野三山は神道化します。
そのため、寺を拠点とする熊野比丘尼たちは勧進権を失い、熊野三山から切り離されてしまいました。
生活に困り果てた熊野比丘尼たちは、やがて春をひさぐようになり、色比丘尼とも呼ばれるようになります。
さらに明治の廃仏毀釈で妙心寺は廃寺となり、熊野比丘尼の姿は完全に消えていきました。

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実は神倉神社・ゴトビキ岩の真の聖域は、意外と知られていない少々奥まった場所にあります。
偲フ花でも、以前はこっそりと掲載していましたが、ネット上にもだいぶ画像が出てまいりましたので、ここに公開いたします。

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以前、僕がゴトビキ岩を訪れ、今にも下ろうとしたその時、地元の方らしき女性がおもむろに話しかけて教えてくださいました。
「少し良いところへご案内しましょうか?」

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そこは巨石と巨石が重なり、挟み合う形でつくられた、洞窟のような場所でした。

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一般的には、「花の窟」が女性の神様で、「ゴトビキ岩」が男の神様を表していると解釈されるそうです。
それももっともだと思っていましたが、富王家が伝えるところでは、ここゴトビキ岩は男神では無く、女神を祀っていたと記してあります。
その意味が解りました。

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「倉」とは、古代では子宮を意味したそうです。

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「ゴトビキ岩」の呼び名もヒキガエルのことではなく、出雲・飯石郡の「琴引岩」と同じ名前だというのが真実のようです。

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熊野の「熊」とは本来「隈」であり、「神」を意味する言葉でした。
つまり熊野とは「神が坐す処」という意味であり、元々は東出雲王家の王が眠る「天宮山」の麓の呼び名でした。

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往古に出雲族が紀伊半島へ移住し、ここに神を祀ったのは間違い無く、この岩の下からは神仏習合期の経筒の他、弥生期の銅鐸片や滑石製模造品が出土しています。
銅鐸祭祀は、出雲族に特有のもので、彼らが大和・葛城に移住してからも続けられていました。

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磐座の前に坐し、差し込む光を横にそっと静かに目を閉じます。
琴引く磐の下で、太陽の女神を拝し、新たな生命の誕生に神秘を見出す古代人の息遣いを感じるようで、気がつけば自然と涙が溢れてくるのでした。

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3件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    高倉下命。
    父は五十猛/天香語山命(徐福(天火明命)と出雲の富王家の高光姫命の御子)
    母は出雲の神門臣王家、高彦/味耜高彦の女の大屋姫命。
    (伝、伯母の高光姫命の輿入れに際して付いて来て身の回りのお世話をしていた?)
    天村雲命の異母弟。で、母親と共に紀伊国に移り住み紀伊国造家の祖となる、
    いわゆる神武東征に際して、九州から侵攻してきた物部勢力を高倉下の子孫らは勇敢に迎撃、熊野に迂回した軍勢を追撃して熊野川の中洲に追い詰め、殲滅寸前にまで追い込んだらしい。
    (神話で高倉下命が神武軍を助けた云々は嘘。)
    その熊野川の中洲が紀伊熊野大社の元地、大斎原だとか。

    高倉下命の子孫に武内大田根命が現れます。
    この方がいわゆる武内宿祢(九州の物部勢のヤマト攻略(準備段階)に加担して宿祢の称号を賜る)。

    時代は第二次物部ヤマト侵攻(この時に別動軍の猛攻を受けて約700年続いた出雲王国は滅亡)の
    リアル神武=イクメ大王/垂仁大王の時代。

    色々変遷、流転があって最終的には出雲の元王家、富家に保護され富家の姫を娶り、
    出雲の王族の称号の臣を賜り、武内臣大田根と号して、
    子を残し出雲で没します。
    、、、これが後々、日本の歴史上最重要な意味をもちます。

    熊野に迂回した神武は第一次物部侵攻の時で物部三兄弟が出陣。一方が戦死なさり、二人が共に大和入り。どちらが大王(主導)となったかが不明な為に
    ウマシマジという架空のキャラクターを創作したとか?
    孝霊大王の頃?

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      高倉下は神武側だと思っていましたので、敵対していたと知った時は驚きでした。

      【名字由来net】というものがありまして、僕の名字を検索してみると、

      「清原氏(天武天皇の皇子舎人親王の子孫)の五条系図に見える。現愛知県である尾張藩、現山梨県である甲斐、現山形県、秋田県である出羽、現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中、現長野県である信濃、現福岡県の一部と大分県北部である豊前にみられる。」

      とあり、驚きました。
      天武天皇といえば、富家の「オホド大王」と、武内襲津彦の子孫「蘇我刀自姫」の御子「カナヒ王」の血を引く石川臣系の帝となります。
      清原氏の五条系図を見ると、確かにその先に僕の名字の一族があり、かつ五条氏は筑前に移ってきています。
      父の実家のすぐそばには、五条という地名の場所もあります。
      福岡という土地柄、物部の血は流れていても、出雲人のそれはなかろうと思っていましたが、僕にも出雲のDNAが流れているのかもしれないと思うと、嬉しくなってきました。

      いいね

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