大山祇神社:八雲ニ散ル花 番外

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伊予国の風土記に曰ふ。乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積神、またの名は和多志大神なり。
是の神は、難波高津に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。
此神、百済国より度り来まして、津国の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津国の御嶋の名なり。

- 『釈日本紀』

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愛媛県今治市大三島町宮浦、瀬戸内海に浮かぶ大三島の西岸に鎮座する「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)を訪ねました。
伊予国一宮にして三島社・大山祇社の総本社、または山神社の総本社とされる神社です。

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宮浦の港に面して一の鳥居が建っており、

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神奈備の「鷲ヶ頭山」(わしがとうさん)、「安神山」(あんじんさん)、「小見山」(おみやま)の三山の西麓に本社は鎮座しています。

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島内最高峰436.5mの鷲ヶ頭山は、古くは「神野山」(ごうやさん)と呼ばれ、神聖な山とされてきました。
毎年1月7日の生土祭の赤土は安神山から拝領され、小見山は「お宮の山」が変化したものと伝えられます。

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大山祇神社は以前は大三島南東部にあたる瀬戸に祀られていたとされており、養老3年(719年)4月22日に現地に遷座されたそうです。
しかし当社の記録によれば瀬戸の地の社は「横殿宮」(よこどののみや)と呼ばれており、大山祇神社や三島宮とは呼ばれていません。

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横の殿ですから、これは現社地の大三島宮浦に本社がもともとあって、何らかの理由で瀬戸に仮の社殿が建てられたものではなかろうかと考えられています。

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そもそも横殿宮のあった瀬戸からは、神体三山を望むことはできないそうです。

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境内に足を踏み入れると、すぐ右手に斎田がありました。

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大山祇神社は平安時代編纂の『延喜式』に「大山積神社」と記され、また「大三島神社」とも称していました。

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「日本三大三島」または「三三島」(さんみしま)と呼ばれる社があり、それは当社の他に大阪の「三島鴨神社」(みしまかもじんじゃ)と静岡の「三嶋大社」になります。

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三島鴨神社は大彦が、三嶋大社は大彦の息子・ヌナカワワケが創建したと斎木雲州氏は語ります。

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大彦とヌナカワワケは、出雲の事代主と摂津・三島家の溝杙姫(ミゾクイヒメ)との間に生まれた子、天日方奇日方(あめのひかたくしひかた)や蹈鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)らの子孫で、そのことをとても誇りにしていました。

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クシヒカタとともに大和創建に大きく関わった摂津の三島家、その発祥の地が、三三島の中でも当社、大山祇神社であると言うことができます。

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神門を潜ると、広い境内に出ました。中央に大木が聳えていますが、

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左手にも少し変わった御神木があります。

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「能因法師 雨乞いの楠」、1066年の大干ばつの際、能因法師がこの木に幣帛を掛け雨乞いを行ったことに由来すると云い、『金葉和歌集』に詠まれています。

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樹齢3,000年、幹周17mで日本最古の楠と伝えられていましたが、残念ながらすでに枯死しています。

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雨乞いの楠の裏には神池があり、宇迦神社がひっそりと祀られていました。
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境内に、これ見よがしに屹立する1本の大樹。
神木「乎千命御手植の楠」。

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幹周11.1m、根周り20m、樹高約15.6m。
伝承樹齢2600年で、御島(大三島)に祖神大山積大神を祀った乎千命(おちのみこと)の御手植楠とな、ふむふむ。
んんっ!なんですとー!

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乎千命って、越智さんじゃぁないの~⁉︎
三島と越智、繋がってんじゃん!

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大山積神って伯耆富士・大山の神、つまり「クナト大神」なわけで、樹齢2600年てえと、紀元前6世紀?出雲王家初代大名持「菅之八耳」就任前か?

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僕は年代考証が苦手で、樹齢も怪しいものですが、それにしても出雲王家より古く越智家は存在していて、そこから三島家が誕生し、事代主に嫁入りさせた、ひとまず線は繋がったよ、おい。

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乎千命御手植の楠の奥には葛城社があって、ちゃんと一言主を祀ってる。

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と飛び上がって喜んでしまいましたが、しかし鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)には次のようにありました。

「『伊予国風土記』には次のように乎知の郡の御嶋について記されている。この御嶋に坐す神の御名は大山積神、またの名は和多志の大神である。この神は難波の高津の宮で天下を治められた仁徳天皇の御代に姿を現された。この神は、百済の国から渡り来られ摂津の国の御嶋に鎮座されたのである。云々。御嶋というのは、もとは摂津の国の御嶋の名である」

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これによると大山積神はまたの名を和多志(わたし)の大神というとあります。
和多志神とは聞き慣れぬ名ですが、ネットで調べてみると「渡し」の意味であるとか、GHQに強制される以前の「私」の表記であったとか説明されています。
後者はどうも風説程度のもので実際には戦前の文献などにも見られないようですが。

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さらに大山積神は仁徳帝の代に百済から渡り、摂津(大阪)の御嶋に鎮座した後、当地に来たのだと云います。
であれば、乎千命と越智家は無関係なのだろうか。ぐぬぬ。

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三島と越智のつながりを示す資料がないだろうかと検索をかけてみると、次のような情報に辿り着きました。
「大山祇神社の社家は三島大祝家と呼ばれ、伊予小市国造の越智氏の後裔であり、さきの河野氏とは先祖を同じくする同族である」と。
おお、あるじゃん!
これは『神紋と社家の姓氏』というサイトからの引用です。

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「越智氏は饒速日命の子孫を称し、越智郡少領武男の孫玉興が越智郡大領となり、その子玉澄、そしてその子にあたるとされる安元が三島大社(大山祇神社)の初代大祝となったと伝える」

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この情報元を探してみると、大山祇神社社家に伝わる『三島宮御鎮座本縁』にあるようで、「文武天皇の慶雲4年(707年)に玉澄の奏するところにより二男の高橋安元を三嶋大山積社務の擬神躰大祝に任ずべしとの勅許があり、元明天皇の和銅元年(708年)3月3日に安元を大祝に補任した」というものに依るようです。

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なるほど、「大祝家は近世になって三島を名乗り、いまに三島大祝家として続いている」とあり、確かに三島家と越智家の繋がりは一応の裏はとれました。
だが、

ちが~う!

違います。そんな戦国時代や近世の話をしているわけではないのです。
出雲王家に后を出した古代氏族の摂津三島と、豊王家に后を出した古代史族の伊予越智が同族であるという確証が欲しいのです。

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ちなみに玉垣の隙間から垣間見てみると、本殿の左右に味のある社殿が建っていました。
向かって右に鎮座するのは「上津社」。
祭神は「上津姫」と「雷神」だそうで、

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向かって左に鎮座するのは「下津社」。
祭神は「下津姫」と「高籠神」になっています。

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『釈日本紀』は大山積神は百済から渡来して摂津(大阪)から伊予国に勧請されたとしますが、百済建国は4世紀前半だと考えられています。
また『三島宮御鎮座本縁』に依るところでは8世紀の話になっており、どちらも大国主・事代主の時代である紀元前3世紀と全く噛み合いません。

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そして「越智氏は饒速日命の子孫」である説もいささか怪しく感じるものです。
饒速日は佐賀に上陸した徐福が名乗ったものであり、そこから越智が派生し、三島になったとしても事代主の后となるには遅すぎます。

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結局、摂津三島家と伊予三島家、そして伊予越智家を結びつける唯一の伝承は今のところ、神木「乎千命御手植の楠」に頼るしかないのです。

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本殿の真裏に来ました。
そこに「姫子邑神社」(ひめこむらじんじゃ)という雰囲気のある摂社が鎮座していました。

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祭神は「木花開耶姫命」と「火々出見命」「火須勢理命」。
記紀に大山積神の娘とその御子とされる神々です。

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木花開耶姫は薩摩(鹿児島)の阿多津姫のことであり、伯耆国の大山の神とは関係がありません。
彼女の父としての大山積神はまた別の人物を示していると思われます。

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三島大祝家はいったいその根をどこに持つのだろうか。
摂津三島家とは別の家柄である可能性も出てきました。
大三島の本来の社家は、ある時点で別の氏族と入れ替えられたのでしょうか。

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諏訪大社の大祝はタケミナカタの子孫とされていますが、どうも本当は大彦の子孫ではないかと考えられます。
出雲大社の社家も出雲家と称して古来の出雲族のように振る舞っておりますが、実は違うのだと出雲旧家は伝えます。

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歴史は歪み、真っ直ぐではありません。様々な思惑や時の情勢によって常に曲げられ絡まり、完全に紐解くことはもはや不可能となりました。
しかし当社の歴代大祝は「大祝職は、神壇を居所に構え、半大明神と号し、弓矢を携えず、国境を出ず、連日御神事に専念しご祈祷をするものなり」と、日々祭祀の奉仕に勤め、ひたすらに神前に仕えます。
それは諏訪大社の大祝もしかり、出雲大社の社家もしかりです。
複雑な感情はひとまず収め、僕らがうつつをぬかしている間も神と対峙し、国の泰平を祈祷されるその姿に、心から感謝申し上げるものなのです。

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大山祇神社の裏手数分のところに奥の院があるというので歩いてみます。

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道中ちらほら石が祀られて微笑ましい。
そして突然それは現れました。

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で、でたわね!
メデューサかと思わんばかりの大樹「生樹の御門」(いききのごもん)です。
高千穂の八大竜王水神社を思い出します。

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この先に奥の院と神宮寺塔頭東円坊があり、古来この楠の門をくぐると長寿になると云われています。

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奥の院は補修中で、

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神宮寺塔頭東円坊はこんな感じ。
神宮寺は当初、神供寺というの名前で四国霊場八十八ヶ寺の第55番札所とされていたそうですが、廃仏稀釈により廃寺となりました。

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それにしても生樹の御門、すごい迫力です。
大昔からこの形ではなかったと思いますが、僕の目には出雲族のサイノカミ祭祀を彷彿とさせました。

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大山祇神社は、平安時代には「日本総鎮守」の名称が与えられ、源氏・平氏をはじめ多くの武家からの信仰が篤く、数多くの武具の奉納がおこなわれてきました。
また、三島水軍の河野一族からの奉納品も多く、特に甲冑は日本の国宝・重要文化財指定品の大半が当神社に所蔵されています。
中に胸回りが広く、胴の部分が絞られた唯一の甲冑・胴丸があり、これは女性が身につけていたものとみなされています。
天文10年(1541年)、大祝安舎の代に大内氏が攻め入った時、陣代だった弟の安房は討死したため、妹の鶴姫が代わりに戦闘に参加、見事に撃退したと伝えられます。
天文12年(1543年)、大内氏が再び侵攻してきた時、鶴姫は再度陣代として出陣しますが、思い人であった越智安成が討死、一旦兵を引いた鶴姫は早舟による急襲によって大内軍を打ち負かします。しかし彼女はこの戦いの最中に行方知れずになったとも、戦いの後に思い人の死を嘆き入水自殺したとも云われています。鶴姫18歳のことでした。
この瀬戸内のジャンヌ・ダルク、鶴姫が身につけた甲冑が先のものであると考えられています。

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結局、大山祇神社参拝での収穫は、乎千命御手植の楠にまつわる伝承のみということでした。
これは社伝である『大三島記文』に大山祇神子孫の乎千命が祖神を大三島に勧請したと記されていることに由来します。
大三島は古くは「御島」と記され、神の島として崇敬を受けていました。
また、神社境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれています。
それらを踏まえると、やはり僕は、古代史族としての越智家と三島家が、ここで結びつくように感じられるのです。
今回は夕刻に滑り込んでの参拝でしたので、十分な時間が確保できませんでした。
ぜひまた再訪できることを願い、当地を後にしたのです。

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2件のコメント 追加

  1. Yopioid より:

    大山祇神社は懐かしいですが、ここまで詳しいことは知りませんでした。素晴らしい記事をありがとうございます。さて、ふりかけ王国広島には三島食品がありますが、きっとこれも摂津三島と、、、ごめんなさいウソでーす。瀬戸風味食べたくなりました。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      いつもご拝読、ありがとうございます♪
      広島がふりかけ王国だとは知りませんでした。
      あのこれでもか、と白米を消費させようとする、恐ろしくも魅惑的な粉末。
      三島食品といえばあの「ゆかり」ファミリーで、「のりたま」王国を掲げる丸美屋にケンカ売る反骨メーカー、なるほど摂津三島に通じるもの感じますとも、感じますとも。
      ああ、熱々の炊き立てご飯とふりかけで一杯やりたくなりました!

      いいね: 1人

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