橋津神社(貴船宮):八雲ニ散ル花 龍宮ノ末裔篇 13

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「常世織姫の墳墓が宇佐家の伝承によって、現在の宇佐市橋津字上築にある貴船神社の社地であるといわれている」
というので探し出して訪ねてみました。
それは民家の細い路地の先にあり、訪ねてみてびっくり、

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廃れているどころではありません。

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石灯籠の残骸や

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朽ちた狛犬のようなものが置かれています。

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それにしてもアンバランスな体型。

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宇佐公康著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』によれば、この神社の祭神は京都市左京区貴船町にある貴船神社から勧請されたと思われる「貴船大神」で、古くから宇佐宮大宮司の宇佐家が社司を兼務し、祈年祭・新嘗祭・神幸祭の三大祭を斎行していたのだそうです。

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昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発して、軍国主義・国家主義が台頭しはじめた翌昭和13年以来、神幸祭などの祭りが中止されて、今は見る影も形もなく廃れてしまっているとのこと。
社地は盛り土をして築いたとみられる小高い丘陵をなし、盗掘されてしまっていますが、三世紀初頭の原始的高塚古墳の形態をそなえていると考えられるそうです。

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では本当にここが常世織姫の墳墓だったのでしょうか?

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貴船神社を目当てに、はるばる宇佐までやってきましたが、思いのほか廃れた社にがっくりしていると、ほど近い場所に「橋津神社」なるものを見つけました。

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少しノスタルジックな、雰囲気の良さげな神社です。

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そこで一ノ鳥居の神額が「貴船宮」になっていることに気が付きました。

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案内板を見ても間違いありません。

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由緒には以下のようにあります。
「延文二年丁酉(1357年)南北朝鮮時代11月14日はしゅうず邑の産土神として勧請以来私達の御先祖様は鎮守の神として崇敬してまいりました。
明治に入り近郷に散在していたお社や石祠等を当神域に合祀し大正3年5月27日社号を橋津神社と改称し現在に至っております。
当社は宇佐宮の御神幸祭や禊神事等と深い関係があり、御神輿等が立ち寄られた記録があります。」

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二ノ鳥居の扁額には「大明神」の文字。
貞享2年(1685年)の文字が刻まれており、北馬城地区で最も古い年号を刻した鳥居だそうです。

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祭神はこの通り。
先の貴船神社は、どうやらここに合祀されているようです。

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境内は少し荒れた雰囲気。

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社務所らしき建物をぐるり回り込むと、立派な社殿が鎮座していました。

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さて富家伝承と宇佐家伝承、似通った部分もあれば矛盾する部分もあります。
僕は専門家ではありませんので、どちらかが正しいのか、どちらも間違っているのかを確定することはできませんが、僕は富家伝承の側に立って考証をしています。
そして各地を旅して由緒や伝承の痕跡を辿ると、それが限りなく正しいことを伝えていることを確信してきました。

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宇佐公康著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』によると、宇佐稚屋は伊予国の越智氏と数年にわたって戦ったと伝えられ、その時に彼は、越智宿禰の娘ですでに夫も子供もあった常世織姫を拉致して凱旋し、そのまま結婚をして宇佐押人が生まれたのだと記してあります。
宇佐公康氏はまた、稚屋は神武天皇と菟狭津媛の間に生まれた皇子であるとしており、稚屋の子・押人が応神天皇であると著書の中で述べています。
つまり応神天皇は神武天皇の皇孫であるというのです。

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神武天皇-宇佐稚屋-宇佐押人(応神帝)

これを富家伝承に置き換えるなら

物部イニエ(崇神帝)-豊彦(豊城入彦)…竹葉瀬ノ君(応神帝)

となります。
ちなみに菟狭津媛は豊玉姫のことでしょう。

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そうであると仮定すると、常世織姫は豊彦の后ということになり、彼女が当地に眠っているというのは否定的な話になってきます。

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常世織姫は豊彦に従い、越智家を率いて上毛野国に移住したものと考えられます。
仮に宇佐に残ったとしても、その後は伊予国に里帰りしたのではないでしょうか。

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また、竹葉瀬ノ君が応神帝として大和の大君に就任したのちに、母を当地に葬るでしょうか。
表向きは母は神功皇后となっていますので、大々的に葬れはしなかったでしょうが、秘密裏に実母を埋葬したとすれば、それは上毛野国だったのでは。

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とはいえ、宇佐家に常世織姫は当地に葬られたと伝えられているのなら、何かしらの有力者が眠っているのだと思われます。

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裏切られ東方に追いやられた龍宮の末裔は、竹葉瀬ノ君の代に奇跡的に大和の王となることができました。
その栄光を記念して、宇佐神宮には応神帝と神功皇后が祀られるようになったとのことです。
しかし竹葉瀬ノ君の皇子・菟道稚郎子は、武内系の大雀(おおさざき)に騙し殺されてしまいます。
その後、古事記・日本書紀により、偉大なる豊王国と月神信仰の存在は徹底的に隠されることになり、今では宇佐家伝承と富家伝承から読み解いて、微かに残る痕跡を辿るしか知る術がありません。
それでもこうして旅をしていると、龍宮の末裔らが生きた脈動は各地に確かに残されており、彼らの泡沫の夢を僕に見せてくれるのです。

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2件のコメント 追加

  1. nakagawa より:

    貴船神社(の元宮?)に感動してしまいました。
    肥前狛犬、手水にはイクシス( ΙΧΘΥΣ)。
    他所に合祀されても、この場所でなければならないものがあるのでしょうね。
    そして橋津神社の方に、若宮社として隼別皇子が祀られているのにびっくりでした。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      貴船神社は民家の奥に隠されるようにあって、意思を持って訪ねなければ辿り着けないような場所にありました。
      今は向かいに公民館のような建物があり、地元の方によってなんとか維持されているといったところでしょうか。
      手水はなるほど、イクシスですね。
      宇佐では隠れキリシタンの痕跡を他でも見かけたような気がします。
      八幡神とキリストを同一視する思想もあるようですしね。

      いいね: 1人

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