
2月17日春、大和国磐余に築かれた都、若桜宮には賑やかな笑い声がこだましていた。
数々の武将や一般の民も迎えての大宴会だ。
戦で、片腕を失った者も、片目を失った者も、息子や父、伴侶を失った者もいたが、
この時ばかりは皆、笑顔を見せていた。
「この神酒は、わたしだけの神酒ではありませぬ。
酒の神で常世におられる少御神が舞い歌いながら醸して造った酒です。
さあ、さあ、残さずお飲みなさい」
神功皇后が歌いながら言った。
そして武内宿禰も太子のために返歌を作って歌う。
「この神酒を造った人は、その鼓を臼のように立てて、歌いながら醸したのであろう。
このお神酒の何ともいえずおいしいことよ」
ここに国は治り、皇太子「譽田別尊」を中心に皆が取り巻く。
この先は女王「息長帯比売」の治世、ここは若桜の宮。
青い空に伸びる小枝にふくらむ桜のつぼみも、やがて咲き始める春の宴。
やまとし うるはし。


【若桜神社】
ついに、長い旅を終えた神功皇后は大和の地に戻ってきます。
忍熊王を滅ぼした年の10月2日、皇后は摂政として皇太后と称されます。
翌年11月、仲哀天皇の御陵を築き、
さらに翌年1月3日、「譽田別皇子」(ほむたわけのみこ)を皇太子として、大和国の「磐余」(いわれ)に都を築きます。
これを「若桜宮」(わかさくらのみや)と言います。

奈良の桜井市に、「若桜宮」の候補地として、二つの宮があります。
ひとつは谷にある「若桜神社」です。

住宅街にあり、ひっそりとした感じです。

鳥居の横には復元された「若桜の井戸」があります。
境内の少し離れにも「桜の井」というのがあり、「桜井」の地名の由来となっています。

此の御酒は 吾が神酒ならず
神酒(くし)の司(かみ) 常世に坐す
いはたたす 少御神(すくなみかみ)の
豊寿(とよほ)き 寿(ほ)き廻(もと)ほし
神(かむ)寿き 寿き狂ほし
奉(まつ)り来し御酒そ
あさず飲(を)せ ささ
宴で皇后は、皇太子にお祝いの歌を歌います。

それに対し、武内宿禰が太子に変わって答えて歌います。
此の御酒を 醸(か)みけむ人は
その鼓(つづみ) 臼(うす)に立てて
歌ひつつ 醸みけめかも
この御酒の あやにうた楽しさ さ

神功皇后が「少御神が醸して造った酒」を皆の美酒だとして振舞ったと云う話は、とても意味深いと思います。
少御神とは出雲の副王「少名彦」のこと、特にその中でも「事代主」のことを言っていることは明白です。
酒造りは奈良の「大神神社」(おおみわじんじゃ)からはじまったといわれています。
御神体の三輪山は古来から「三諸山(みむろやま)」と呼ばれ、「うま酒みむろの山」と称されました。
「みむろ」(実醪)とはすなわち「酒のもと」の意味です。

日本書紀によると、第10代崇神天皇の時代、国が疫病の流行で混乱を極めていた時、天皇に夢で大物主大神様から神託があったと云います。
「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」
それを聞いた天皇は「高橋活日命」(たかはしいくひのみこと)を呼び、一夜で酒造りを行い神酒を奉納しました。
すると疫病は去り、国が富みはじめたそうです。
その時に高橋活日命が詠んだ詩が
「此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久幾久」
(この神酒は私が醸したものではなく、大和の国をおつくりになった大物主神が醸された神酒です。幾世までも久しく栄えませ)
この大物主という神は出雲の大国主と同一の神とされていますが、実は出雲8代八千戈王(大国主)の国政を支えた副王「事代主」の事であると富氏は語っています。
つまり、神功皇后のこのエピソードは、図らずも富氏の伝承を裏付けていることになるのです。
余談ですが、酒蔵の軒先に吊るされている、良く見る「杉玉」は大神神社から全国の酒蔵に届けられています。
この杉玉は「新酒が出来ました」という合図だそうで、新酒が出来た頃に「青々とした杉玉」が吊るされ、一年かけて徐々に茶色になっていき、それが酒の熟成具合といわれています。
また神酒のことを「ミキ」と読みますが、昔は「ミワ」と読まれていたそうです。

神功皇后が若桜宮を築いたのち、四人の天皇が皇居をここに築きます。
「履中天皇」(りちゅうてんのう)、「清寧天皇」(せいねいてんのう)、「継体天皇」(けいたいてんのう)、「用明天皇」(ようめいてんのう)です。

履中天皇は神功皇后の皇子「応神天皇」の孫になります。
用明天皇は「聖徳太子」の父と伝わる人です。


【稚桜神社】
桜井市池之内の「稚桜神社」(わかさくらじんじゃ)も若桜宮の候補地です。

狭い路地裏の小高い丘の上にありますが、なんとなくですが、こちらの方が神功皇后の若桜宮なんじゃないかと思いました。

小さな祠がいくつかあり、

階段を登りきったところに拝殿があります。

やや広い空間があります。

若桜宮を築いた後の、日本書紀などの皇后の記述は、かなり時代的にちぐはぐなものとなります。
一文では神功皇后と卑弥呼を同一視するような文章もあります。

晩年の皇后は40年の謎の空白期間を経て、百済と交流し、新羅を攻め、伽羅7カ国を平定します。
やがて389年、100歳の年齢で、若桜宮にて崩御いたします。

皇后の後半の年表は、例によって日本の歴史を深く見せるための工作で、皇后は実際には40~50歳ほどで崩御されたと思われます。
このような作為や日本の戦争のために皇后の逸話が利用されたことなどにより、神功皇后の歴史はタブー視されたり、創作だと言われたりします。

しかし、神功皇后を祀る神社は全国に900社にも及び、「河村哲夫」氏によれば、皇后の伝承地は3000を下らないと言います。
これほど太古の人に愛され、支持されている天皇・女帝は、なかなかいないと思われます。
そしてそれらの地を、実際に歩いてみると、なんとも生き生きとした神功皇后の生き様を如実に感じることができました。

敦賀の氣比神宮で、天皇の妃になることを夢見ていた少女は、ある時突然、天皇に「豊浦宮」へやってくるように言われます。
「豊浦宮」に来た頃の皇后はまだ幼く、純真無垢な神秘性を持っています。
しかしいきなり、「塵輪」の襲撃を受け、一気に戦の様相にさらされます。
仲哀天皇はより効率よく九州を制圧するために、都を「豊浦宮」から「岡の水門」、そして「橿日宮」へと移していきます。
その旅路は決して楽な道ではなく、運命に翻弄される皇后の、揺れ動く心情が各地に残っていました。
ようやくたどり着いた「橿日宮」ではいきなり、自らの神託が元で、愛する仲哀天皇が亡くなってしまいます。
普通の女性ならば、ここで大和に引き返すのでしょうが、ここから凄まじい、皇后の旅の始まりです。
武内宿禰を始めとする重臣たちに支えられ、剛の者の「羽白熊鷲」や「夏羽」「田油津姫」の兄妹といった、まつろわぬ者を討伐します。
そこには物部肝咋連(もののべのいくひのむらじ)の思惑も、見え隠れしていました。
激戦を終えた皇后は、再び迷いが生じたように、九州筑紫の地を祭祀をしつつ彷徨います。
そこで出会う「安曇磯良」や海神の加護を受けて、いよいよ決心し、遠く新羅の地を目指すのです。
命がけの航海の後、見事三韓征伐を成し遂げ、再び橿日へと戻ってきた皇后は、そこで母となります。
わびしさを感じながらも、元気な皇子を産んだ皇后を待ち構えていたのは、皇子の異母兄、「麛坂王」と「忍熊王」でした。
今度は我が皇子のために、先王の息子たちと戦い、神功東征の旅に出るのです。
そうして少女・巫女から妻となり、さらに自ら戦神となり、また母となって女王へ成長します。
神功皇后の歴史は、確かなものとして各地の伝承に残っていたのです。


【神功皇后陵】
日本書紀によると、386年の4月17日、神功皇后は若桜宮にて崩御なされます。

そして半年後の10月15日、奈良市山陵町宮ノ谷の「狭城盾列池上陵」(さきのたてなみのいけのへのみささぎ)に埋葬されました。

それは平城駅から北へ数百メートルにある、簡素な住宅街の側の古墳(五社神古墳)です。

辺りはしっとりとして静かです。

皇后は今もここに眠り、筑紫の橿日まで思いを馳せ、永い夢を見ているのでしょう。
僕の神功皇后伝承をつなぐ旅も、ひとまず終了です。
しかし他の旅先で、新たな伝承地にめぐり会う可能性は多いでしょう。
そんな時はきっとまた、ワクワクしながら、僕も思いを馳せるのです。
必要があれば、また加筆修正をしたいと思います。
最後に、今回散策した、伝承地をまとめさせていただきます。
神功皇后伝
1)忌宮神社
1:忌宮神社
2:豊功神社(満珠島・干珠島)
3:仲哀天皇御殯斂地
2)織幡神社
4:佐波神社
5:勝田勝山神社
6:織幡神社(沓塚)
2.5外伝)縫殿神社
0:縫殿神社
0:縫殿宮
3)国見岩
7:風師山・風師神社
8:飛幡八幡宮
9:若松恵比須神社
10:国見岩
4)一宮神社
11:皇后崎
12:一宮神社(岡田宮)
13:紅影の池
14:魚鳥池(魚鳥池神社)
15:貴船神社
5)岡湊神社
16:岡湊神社
17:埴生神社
18:八劔神社
19:伊豆神社
20:久我神社
21:神武天皇社
22:高倉神社(高倉頓宮)
6)古物神社
23:剣神社
24:古物神社
25:神崎神社
26:春日神社
27:笠松神社
28:若八幡宮
29:山口八幡宮(見坂峠)
7)香椎宮「儺の橿日宮」
30:香椎宮
31:古宮跡(棺懸の椎)
32:不老水
33:鎧坂
34:兜塚
35:耳塚
36:濱男神社
37:頓宮
8)櫻井八幡宮
38:皇石神社
39:御勢大霊石神社
40:仲哀天皇殯葬所
41:櫻井八幡宮
9)伊野天照皇大神宮
42:五所八幡宮
43:小山田斎宮
44:伊野天照皇大神宮(古神殿跡地・神路山)
45:黒男神社
46:斎宮(聖母屋敷)
47:六所宮跡
48:審神者神社
10)砥上岳
49:御陵寶満神社
50:御笠の森
51:大根地山(烏帽子岩)
52:砥上神社(中津屋神社)
53:砥上岳(ひづめ石・みそぎのはる・かぶと岩・武宮)
11)大己貴神社
54:松峡八幡宮(目配山・御化粧川)
55:美奈宜神社(林田)
56:大己貴神社
57:老松神社
12)荷持田村
58:荷持田村
59:水裕神社
60:秋月八幡宮
61:粟島神社
62:喰那尾神社
63:矢埜竹神社
13)美奈宜神社
64:射手引神社
65:益富山
66:羽白熊鷲塚
67:美奈宜神社(寺内)
14)味水御井神社
68:太刀八幡宮
69:福成神社
70:隼鷹神社
71:老松神社(媛社神社)
72:赤司八幡宮(益影の井)
73:味水御井神社
15)蜘蛛塚
74:高良玉垂宮(高良山神籠石・背くらべ石・馬蹄石・奥宮)
75:弓頭神社(烏帽子塚)
76:鷹尾神社
77:権現塚古墳
78:車塚古墳
79:老松神社(蜘蛛塚)
16)香春岳
80:田原正八幡宮
81:香春神社
82:若八幡神社
83:鏡山大神社
17)鏡神社
84:堀江神社
85:與止日女神社
86:玉島神社(垂綸石)
87:度瓊可久岩
88:鏡神社
18)伊都の層々岐山(雷山)
89:浮嶽神社
90:宇美八幡宮(糸島/上宮)
91:雉琴神社
92:雷神社
93:雷神社上宮
94:三坂神社
19)現人神社(住吉本津宮)
95:染井神社
96:染井の井戸
97:高祖神社
98:背振神社
99:伏見神社
100:裂田神社(裂田溝・一の井堰・迹驚岡)
101:現人神社
20)宮地嶽神社
102:松尾宮
103:若杉山(綾杉・太祖宮)
104:宮地嶽神社
21)志賀海神社
105:綿津見神社
106:志式神社
107:志賀海神社(表津宮跡・仲津宮・沖津宮)
22)御島神社
108:警固神社
109:大神神社
110:波折神社
111:盾崎神社
112:御島神社
23)神集島
113:名島神社(縁石・帆柱石)
114:小戸大神宮
115:壱岐神社
116:塞神社
117:鎮懐石八幡宮
118:神集島
24)邇耳神社
119:白沙八幡神社
120:住吉神社
121:爾自神社(東風石)
122:聖母宮
25)神住居神社
123:豆酘浦
124:神住居神社
125:与良祖神社
126:浜殿神社
127:与良石
128:厳原八幡宮神社
129:住吉神社(雞知)
25.5外伝)和多都美神社
000:磯良恵比須の磐座
000:玉の井
000:亀石
000:豊玉姫の墓
26)胡簶神社
130:阿須浦
131:住吉神社(鴨居瀬)
132:胡簶神社
133:古津麻神社
134:鰐浦
26.5外伝)海神神社
135:海神神社
136:雷神社
27外伝)慶州
000: 慶州
28)能古島
137:能古島(白髭神社)
138:住吉神社(姪浜)
139:熊野神社(今津)
140:六所神社
29)風浪宮
141:風浪宮(白鷺の楠・磯良丸神社・磯良塚)
142:大善寺玉垂宮
29.5外伝)筑前一之宮 住吉神社
143:筑前一之宮 住吉神社
30)宇美八幡宮
144:鳥飼八幡宮
145:日守八幡宮
146:駕輿八幡宮
147:旅石八幡宮
148:宇美八幡宮(湯蓋の森・衣掛の森・産湯水・胞衣ヶ浦)
31)筥崎宮
149:筥崎宮(筥松)
32)大分八幡宮
150:うぐいす塚(ショウケ越え)
151:大分八幡宮(産湯の井戸・古宮跡)
152:稲築八幡宮
153:撃鼓神社(乳の池・上宮)
154:曩祖八幡宮(結びの石)
155:綱分八幡宮
156:日若神社
33)風治八幡宮
157:位登八幡神社
158:風治八幡宮(腰掛け石)
159:岩獄稲荷社
160:山浦神社
161:生立八幡神社(二子大神)
34)篠崎八幡宮
162:到津八幡神社
163:仲宿八幡宮(胎石)
164:豊山八幡宮
165:住吉神社
166:熊野神社
167:旗頭神社
168:乳山八幡神社
169:篠崎八幡宮(力石)
35)住吉荒魂本宮
170:甲宗八幡神社
171:和布刈神社
172:住吉荒魂本宮(武内宿禰お手植えの楠)
36)生田神社
173:廣田神社
174:生田神社(生田の森・生田森坐社)
175:長田神社
176:本住吉神社
37外伝)住吉大社
177:住吉大社(五所御前・玉の井)
178:飯匙堀
38)逢坂
179:逢坂の関(蝉丸神社・関蝉丸神社 上社・下社・瀬田川)
39)氣比神宮
180:氣比神宮(角鹿神社・土公・氣比の松原)
181:山津照神社(豪族息長氏郷聚)
終)磐余の若桜宮
182:若桜神社
183:稚桜神社
184:神功皇后陵
参考書・サイト


「神功皇后伝承を歩く」上下巻/綾杉るな 著

「神功皇后の謎を解く」/河村哲夫 著

「出雲と蘇我王国」/斎木雲州 著
電称倭国伝(つくしまほろば)
神功皇后|高校生が書いた日本書紀現代語訳
壱岐の神功皇后伝説
対馬の式内社をめぐる2 ~神功皇后関連の神社群~ | (一社)対馬観光物産協会ブログ
神功皇后 大和へ
明日香村を訪ねて
他

大彦生命(笑)
大彦命(^_^;)
いいねいいね: 2人
大彦生命だったら今の生保移行してもいいかも😄
いいねいいね: 1人
ん???
五条さん、高屋安倍神社行っておられるじゃないですか。 そう、若櫻神社の境内社が高屋安倍神社です。
で、由緒書きに、大彦生命、と書いてあり、写真の本殿に祀られてるような感じでした。
雨をの後だったのでちよっと暗い感じでした。
いいねいいね: 1人
実はそうなんですよね、僕も後で気がつきました😅
確か中の本殿は、外からはほとんど見えなかったと記憶しています。
いいねいいね