
島根県松江市にある「佐太神社」(さだじんじゃ)は、神在月において、神々が最後に立ち寄る神社だと噂されます。

非常に格式ある神社ですが、その内容においては謎も多いと聞いています。

「秋鹿郡佐田大社之記」に第11代垂仁天皇54年の創建で、養老元年(717年)に再建されたとあります。
垂仁天皇は九州物部氏の王「イクメ」のことであり、大和へ東征を行い、大和磯城王朝を滅ぼして大王となった人です。

その頃は出雲王家の命運に関わる時でした。
出雲では西側から物部軍、東からヒボコの子孫の田道間守(タジマモリ)軍の猛攻撃を受け、そして、出雲王国の600年の長きに続いた歴史が幕を閉じた時でもありました。
しかしその後、当の垂仁・イクメ大王は田道間守の存在を疎ましく思い、出雲族の野見宿禰に彼を打ち倒すよう依頼します。
野見宿禰はこれを成し遂げ、再び出雲族が重宝されることになりました。

そうした中、創建された佐太神社は、「出雲国風土記」によると、もとは神名火山(朝日山)の麓に鎮座していたと記されています。
朝日山は当社の杜の後ろ、西に2km先にある山となります。

社殿は3棟あり、正中殿は「扇の地紙」の神紋に、御祭神は「佐太大神」「伊弉諸尊」「伊弉冉尊」「速玉男命」「事解男命」、

北殿は「輪違」の神紋に、「天照大神」「瓊々杵尊」、

南殿は「二重亀甲」の神紋に、「素盞鳴尊」「秘説四柱」の、合わせて十二柱をお祀りしています。

しかし、これらの十二座の神は後に祭祀されたもののようで、風土記には「佐太御子社」とあり、延喜式には「佐陀神社」とあって、その祭神は一座としか考えられません。
当社の本来の祭神は「佐太御子神」一座であったと思われます。

明治維新後、佐太神社は松江藩から、この祭神について、正殿の秘説一座の神名を明らかにして、かつこれを「古史伝」の説に従って「猿田彦命」とせよという強硬な命令を受けました。
しかしこれは、当社にとって根本をゆるがす大問題なので、正神主以下、祖法を楯に挙って猛反対したと云います。

これを藩は聞かず、明治三年六月に至り、これを「佐太御子神」として顕示することで結着しました。
しかしそれでもなお収まらず、同十二年に、主神を「佐太大神」としましたが、さらに十八年、「佐太御子大神」と書替えるに至ったと云います。

康元元年(1256年)の「社領注進状」(出雲大社所蔵)によれば、かつての佐太神社の社領は280丁と、杵築大社に匹敵するほどの敷地を有していたと云います。
宝永3年(1706年)の「佐陀大社勘文」によれば、島根郡と秋鹿郡に7000石の社領と224人の神人を有していましたが、太閤検地によって大幅に減じられたそうです。

さて、佐太御子神とは「サルタ彦」のことであると多くの研究者が推察しています。
であれば、佐太大神はサルタ彦の父親であるので、「クナトの大神」のこととなるのかもしれません。
朝日山の麓には、クナトの大神の聖地があったのかもしれないということになります。

本殿の北側に北末社があり、「山王社」(御祭神:大己貴命)、「宇智社」(うちしゃ / 御祭神:天児屋根命)、「玉御前社」(たまのみまえしゃ / 御祭神:玉屋命・タマヤノミコト)、「竹生島社」(ちくぶしましゃ / 御祭神:竹生島神)、

南側に南末社 として「戸立社」(とだてしゃ / 御祭神:手力雄命)、「振鉾社」(ふりほこしゃ / 御祭神:天鈿女命)、「垂水社」(たるみしゃ / 御祭神:岡象女命・ミヅハノメノミコト)、「天神社」(御祭神:菅原道真)が祀られています。

旧暦10月、出雲地方では八百万の神々がお集まりになる「神在祭」で賑わいます。
その中でも佐太神社の神在祭は文献上もっとも古くから執り行われており、且つ祭の次第も約500年前の記録とほぼ同じ内容で執り行われていると云います。
「いにしえの祭り」が正統に受け継がれているのが当社ということです。

南末社の裏手に、ひっそりと石の階段が続いています。

「母儀人基社」(もぎのひともとしゃ)とあり御祭神は「伊弉冉尊」(イザナミノミコト)と記されています。

一般に陰暦10月は日本中の神様が出雲に出かけるので「神無月」(かんなづき)と呼ばれています。
逆に出雲國では「神在月」(かみありづき)と呼ばれます。
由来については古来諸説、俗説多くありますが、「神在」は「ジンザイ」と読み、「鎮齋」(ちんさい)すなわち「忌」(いみ)の意味で新嘗祭(にいなめさい)に関係があるようです。

古には、新穀を神に献ずる祭を「相新嘗」(あいにいなめ)といって10月に行っていたそうですが、大宝律令の制定にともなって、伊勢神宮だけは尊崇のため祭を繰り上げて9月に行い、その他は繰り下げて11月に行ったと云います。
そのため、10月は祭りが少ない月、すなわち「神無月」となったそうです。

しかし、出雲國では依然として10月に新穀を献ずる新嘗の祭が行われ続けました。
また、風土記に載る「意宇」(おう)、「秋鹿」(あいか)、「楯縫」(たてぬい)、出雲の神名火・「神名樋山」(かんなびやま)に神々が去来するという「カンナビ信仰」が出雲國にはあり、これが中世になるとに諸国の神々は出雲國お集まりになるという伝承が生まれ、出雲國では「神在月」と呼ばれるようになったと云います。

出雲の神在祭は「お忌さん」(おいみさん)と呼ばれていて、祭の期間中は、歌舞音曲、喧騒、造作等も慎む禁忌の祭でした。
祭は陰暦10月11日から25日までの15日間行行われていたそうですが、11日から17日までが「上忌」で準備期間としての「散祭」(あらいみ)と呼ばれ、18日から25日までが「下忌」で「致祭」(まいみ)とされたそうです。
下忌の方が重儀で18日に「神迎神事」を行い境内に注連縄(しめなわ)を引き渡すと25日の「神等去出」(からさで)神事が終わるまで謹慎斎戒に服したと云います。

佐太神社では明治30年頃より陰暦10月を陽暦11月に改め、上忌が無くなり下忌のみを執行することになり現在にいたっているそうです。八百万の神々は出雲大社にお立ち寄りになった後当社においでになるという噂話は、これは出雲大社では上忌が残り、当社は下忌が残った為に生まれた誤伝だということです。

さて、10分ほど山を登ると、母儀人基社が見えてきました。

そこは、心地よい、幽玄の杜でした。

佐陀大社(佐太神社)は八百万の神々の母神である伊弉冉尊の大元の社で、その背後の山に陵墓を祀っていると伝えられてきました。

ここは中世の頃、「伊弉冉尊」の陵墓とされている「比婆山」(ひばやま)の神陵を遷しお祀りしたとも伝えられているそうです。
ただ、当社が元は神名火山(朝日山)の麓に鎮座していたと出雲国風土記に記されていること、佐太御子神が「サルタ彦」である可能性が高いことなどを鑑みると、ここでいう伊弉冉尊とは「キサカ姫」であると思われます。
つまり古代出雲族の始祖「クナト王」の后「幸姫」の陵墓ということになるのではないでしょうか。

陰暦十月は伊弉冉尊が神去りました月であるという「卜部家」(うらべ)又は陰陽道の説により、八百万の神々は毎年この月になると当社にお集まりになり母神を偲ばれるのだとされ、この祭りを「お忌祭」と呼び、中根を中陰の意味としました。
つまり、神在祭とは出雲から各地へと散っていった人々が、祖母神の墓参りに里帰りする、そんなお祭りだったのかもしれません。



佐太神社の参道を入口の方から進み出てみると、1本の大きな木が目に入ります。

「雲陽誌」が「佐太の宮内にあり、佐太橋の西を折れたところに在る。 二殿在って東に木花咲耶姫、西に磐長姫を祀る」と語る「田中神社」です。

「田仲社」とも表記される当社は、社殿二棟が背中合わせに鎮座しているちょっと変わった神社です。

手前が縁結びの御利益があるという「木花咲耶姫」の社で、

川沿いの方が縁切りの御利益があるという「磐長姫」の社です。

以前は横並びに鎮座していたそうですが、間違って隣の社を参拝し、不幸になった女性が続出したので今の形になったと云います。

余談ですが、神在(じんざい)が「ぜんざい」の語源になったと出雲では伝えられています。

古来のぜんざいは、小豆と餅のみの素材のほのかな甘さを味わったそうで、僕もそれをいただいてみました。
砂糖はご自由にどうぞと言われましたが、小豆のほのかな甘みが体に染みるようで、そのまま全ていただきました。


県の名前にもなっている島根という場所は、重要な場所だったのでしょうね😌
モヘンジョダロなどの遺跡には、日本でも出土している管玉のネックレスの他に、縄文時代の握り拳くらいの動物などを模した人形と同じようなデザインの人形や、レンガ造りの壁と土壁(何故土壁があるのか分からないと言われていました)も見られるので、ドラヴィダ族は元々縄文人で、シュメール文明を興したと言われている、7000年前の鬼界カルデラの噴火で日本脱出したグループと同じ子孫の可能性もありますよね。だから、その地域との交易があったと。考えるときりがありません😅
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“島の根”と書きますからね、本来は島根とは本土側、半島の付け根あたりを指すのかもしれません。
ドラヴィダ族は2度、日本に渡来していると考えると、縄文期の古い時代からいてもおかしくありません。
日本の黒曜石は、ロシアウラジオストックでも出土しているそうで、縄文時代は僕らが思い描くよりも広く交易をしていた可能性もあります。
鬼界カルデラの噴火の影響も考えなければなりませんね。
本当にキリがないのですが、なぜか隠されているのが母系一族の出自です。
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クナト族を日本に導いたブリアート人は、縄文人とDNAで近い関係とわかっていますよね。つまり、縄文人だったのだと思います。
今でもですが、古代、日本人は世界の人達から崇敬され、それが日本を意味するJapan(The Pan)の元となったとも言われています。
海外の人のほうが、そういうことをよく知っています。
もっと、自国に興味を持ってほしいなと思います。
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おっしゃる通りで、政治・教育にも大きく問題がありますが、植え付けられた自虐史観を抜け出すには、自分で本当の歴史を知ろうとする気持ちが大切なのだと思います。
特に今の若い人たちには、日本人であることの正しい誇りを感じてほしいと願っています。
スピリチュアルは間違った思い込みを抱きかねませんので、NGです。
そういった意味でも、富家伝承を残してくれた歴代の富家の方々に崇敬の念を抱きます。
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日本語を話すだけでも、特別な感性が身につくと言われ、海外の人には工事現場の騒音にしか聞こえない虫の声も、虫の音(ね)として聴くこどかできますよね。縄文人は虫を介して他の人にメッセージを送っていたという話も耳にしています、今ではその言葉だけが、虫の知らせとして残っていると。
素晴らしき日本人です(*˘︶˘*).。.:*♡
日本人男性特有のY(ヤップ(ガラクタ))遺伝子も何か意味しているものがあるのだろうと思っています。早く解明してほしいです😌
もしかすると、日本では敬遠されることもありますが、血液型のB型にも意味があるのかもしれませんね。日本にはクナト族が持ち込んだかもと。インドは多い国ですし、中継地のロシアも多いですし、日本も海外と比べると多いです。
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はじめまして、いつもたくさんの真の歴史に迫る情報をありがとうございます。一昨日、昨日と佐太神社の御座替神事と佐陀神能に行って参りました。佐陀神能の神在月の由来や神社の縁起が題材の「大社」で、佐太大神が「八百万神の父母は我なり」と言います。このことは、幸姫とクナト王を指すのでしょうか。つまり、この神社の本来の3座は、幸姫、クナト王、猿田彦となるのでしょうか。
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こんにちは。コメントありがとうございます♪
佐太神社の御座替神事と佐陀神能にご参列されたとのこと、羨ましい限りです。
佐太神社の祭神に関しては謎が多いのですが、僕はクナト王、幸姫、サルタ彦のサイノカミ三神が祭神であろうと考えています。佐陀神能も「大社」とは当社のことである、と伝えたいのかもしれませんね。
神在月に出雲サンカの人たちが墓参りに来るという社が佐太神社であろう、と思っています。
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お返事ありがとうございます。
佐太神社の創建は700年代とのことで、その際に母儀人基社が移されたのか、もともとこの場にあったので神社を建てたのか、それと、これは拝み墓なのかが気になります。
これまでいろいろな神社を参拝していて気づいたことに、出雲系の神社には必ずと言っていいほど、ビロウかシュロの木があります。この社の境内にはなかったので不思議に思っていたのですが、母儀人基社に向かうたくさん木々が茂る階段を上るとシュロが見えはじめ、社の目の前に1つ大きなシュロ、周りには幼木をはじめたくさんのシュロに囲まれ、南国ムード満載の雰囲気です。
しかし、神職に質問しても、それについてはご存知ないのです。
確か、出雲族はインドからビロウの種を持って来たのでしたよね?
社家の朝山家は創建当時から続いているようですが、もしかしたら、出雲系の氏族ではないのかとも考えています。だから、素戔鳴尊など祀っているのではと。神能にあるようにもとは、クナト王、幸姫、サルタ彦の三神がそれぞれ三座に祀られていたのでは?
そして、出雲系の大きな神社はどこも参拝客で賑わっていますが、ここはいつも静かです。
しかし、社紋である扇紋はビロウの葉の形からきている紋です。そう考えると、元々は出雲族が創建したけど、後に血筋が変わったのかもと考えています。
気になることがたくさんあります。長文となり、申し訳ございません。
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なかなか面白いですね。
ありがとうございます😊
実際に足を運んで、敏感に感じ取らなければ気付かない事です。
僕はクナト族が出雲に来た当初は、島根半島には別の勢力がいたのではないか、と考えています。
その勢力の王都の一つが佐太神社がある辺りだったのではないかと。
国引き王・八束水臣津野の頃に出雲王国領になったのかな、と。
ただ、確証はありませんが、そこがロマンですよね😊
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そうすると、あのお墓は、その王都のあったところに後から出雲族が移してきた、或いは拝み墓としてつくったということになるのでしょうか…。
それか、その王都も先にインドの方からやって来た同族だったのでしょうか…。
インダス文明はインダス川流域に発展していますが、海に面した場所で、メソポタミアと交易もしていて、そこも突然消えたようです。近年の大洪水のように災害で消えてしまったことも考えられますが、貿易港として栄えていた街の人達が、移動に海を使わなかったというのは、考え難い気がしています🤔
そうすると、日本へ南の方から入った同族がいてもおかしくないのかと…。だから、宮崎の青島にあんなにビロウの木があるのかと。
因みに、パキスタンに訪問したときに、巷にビロウやシュロの木が乱立している景色を予想していましたがそれは全くはなく、日本のように街路樹や、寺院や偉人のお墓、軍施設、博物館など大切なところにしかありませんでした。ガイドをしてくれた現地人は、ビロウについての認識はないようでしたが、他のヤシ科の樹木と違い、大切にされているのではと感じました。
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私の最近の興味は、主に母系に関するものです。
「八雲ニ散ル花」が出雲男系を中心とした考察ならば、「常世ニ降ル花」シリーズは母系を探る旅になっています。
僕はクナト族以前に日本にやって来た勢力がいて、彼らは四国南部を基盤に、各王家に妃を出していたのではないかと考えています。
元は採掘民族で、黒曜石などを採取していましたが、製鉄に長けたクナト族のことを知り、出雲に導いたのではないかと。
彼らがどこから来たのかは、まだ追いきれていませんが、あるいはインド系、ドラヴィダ族だったのではないかとも考えています。
出雲にやって来たクナト族と和合した島根半島の一族、和合の条件の一つが、クナト王と先住の幸媛の婚姻であったなら、佐太神社に幸媛の墓があっても良いのかな、と思います。
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私もここに来ました。あの時は無意識で誰のお墓かは考えていませんでした。
それでなのですが、なぜか記憶が曖昧になっており、困っていることがありまして
物部神社にも裏手に同じような地形ありませんでした?
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はい、物部神社裏手に少し登ったところにも似たような墳墓らしき石積みがあります。
そこは宇摩志麻遅命の陵墓と伝わっていました。
あと徳島の八倉比賣神社も似たような印象を感じたのを覚えています。
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2017年8月に訪れました。暑かったですが、本当に綺麗で立ち去り難く、ウロウロしているところに車でやって来た家族連れ。ご両親と、大学生くらいの娘さん・高校生くらいの息子さん。お参りをし、昨年のお守りを返却し、社務所で今年のお守りを選んでいました。家族4人がそれぞれ自分のお守りを選んで購入し、帰って行きました。あのご家族にとってはこの立派な由緒ある神社が普段からお世話になっている身近な神社さんなんだ…心底羨ましい。
それから、小豆と餅のみの素材を味わうぜんざい、いいですね〜。私も次回は是非いただきたいと思います。
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母儀人基社は行かれましたか?
私が最初に佐太神社を参拝したときはその存在を知らなかったので、改めて出直してお伺いしました。
とても神気を感じる、素晴らしいところでしたよ。
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