悲しまないでください。
私は幸せです。
数多のお后がいる中で、あなたは私の手を取り、ともに旅立とうと仰ってくださいました。
独りだった孤独な世界から、私を連れ出してくれたのです。
私はあなたに出逢って、生きる意味を知りました。
たくさんのものを頂きました。
でも他の旅の仲間たちに比べて、私は非力です。
それが残念で仕方ありませんでした。
悲しまないでください。
今、私は幸せなのです。
愛するあなたのために、できることがあったのだから。
あなたは世界の全てから嫌われてしまったのだと、私に話してくださいました。
だけど、それは違います。
あなたには、数は少なくとも信頼の置ける仲間がおります。
父王様も持ち得ない、素晴らしい仲間を。
私も、最後まであなたの仲間でいたかった。
でもいいのです。
龍神様、私の命をあなたに捧げます。
ですから、どうかあの人は、
私の愛するあの人の命だけは、お助けください。
私の大切なあなた、
あなたがくれた、この御櫛がもしあなたの手元に届いたなら、
どうか橘の木のそばに埋めてください。
落ちない葉は、あなたを永遠に見守り、
初夏には芳しい花をあなたは愛でてくれることでしょう。
神奈川県横須賀市、三浦半島の東端近く、東京湾にほど近い場所に「走水神社」(はしりみずじんじゃ)があります。
記紀に伝わる12代景行天皇の皇子、「日本武尊」(やまとたけるのみこと)は、ここに御所(御座所)を建てたと云います。
景行天皇はわずかな従者のみを与え、日本武尊に九州の制圧と東国の平定を立て続けに命じました。
旅の途中、伊勢神宮に立ち寄った日本武尊は、神宮の斎宮で叔母の倭姫(やまとひめ)に「父上は私に死ねというのか」とこぼしたと云います。
ハイカラな手水舎があります。
ここの水は、富士山から永い歳月を経て湧き出るそうで、かつては船に積む飲料水にも使われていたそうです。
「御砂倉」という戸棚があり、白砂が少し入れられています。
この砂は、かつて「弟橘媛命」(おとたちばなのみこと)の社があった御所が崎東海岸から小舟で運んできたものだそうです。
小さじで少しだけ、頂きました。
橘の木が玉垣に囲まれて植えられています。
伊勢を出た日本武一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着しました。
走水の御所が崎からは、上総国が見えているので船で渡ることにしました。
走水の地において、船の準備をしているときに、村人が日本武と弟橘媛を非常に慕うので、日本武は自分の冠を村人に与えました。
村人はその冠を石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てたのが走水神社の創建であるそうです。
巨大な包丁のモニュメントかと思いましたが、よく見ると船の舵でした。
そこには弟橘媛の銅版画があります。
日本武は、上総国へいっきに渡ろうと船出しましたが、突然強い風が吹き、海は荒れ狂い、船は転覆の危機を迎えます。
日本武に付き添ってきた后の弟橘媛は「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、尊様のお命にかえて海に入らせて下さい。」と告げ、「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」
と歌を残し、海中に身を投じました。
するとたちどころに海は凪ぎ風は静まり、日本武一行の船は水の上を走るように上総国に渡ることが出来ました。
以来、「水走る走水」と云われているそうです。
やがて上総、下総、常陸、日高見の国々の東征を果たした一行。
大和に帰る途中、碓氷峠から遥か東方を眺めると、光る走水の海の輝きが見えます。
媛を偲んだ尊は、
「あゝ吾が妻よ」
と嘆き呼んだことから、東国を「吾妻・東」(アズマ)と呼ぶようになったと云うことです。
走水神社の御祭神はもちろん、「日本武尊」と「弟橘媛命」。
走水神社に伝わるところによりますと、弟橘媛命が御入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着いたそうです。
村人たちはその櫛を日本武尊と弟橘媛命の御所があった「御所が崎」に社を建て、櫛を納め「橘神社」としました。
後の明治18年に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42年に走水神社に合祀されたそうです。
本殿の裏に水神社があります。
どうやら祀られているのは「かっぱ」のようです。
走水のカッパは人を助ける妖怪だったと云うことでしょうか。
他に石仏なども祀られています。
本殿は切り立った断層の前に建っていますが、この上の丘へ行くことができるようです。
十王・侍女を祀る別宮があります。
十王とは死者を裁く10人の王のことで、道教に見られるそうです。
道教といえば物部族の関与が思い浮かばれます。
弟橘媛命の記念碑というものがありました。
丘の中腹にひっそりと建っています。
「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
竹田宮昌子内親王による御書と云います。
これは「相模の小野で戦があったとき、炎の中で、私の名前を呼んだ君よ…」と訳せます。
一行は焼津の野で、国造の裏切りによる火責めに遭いますが、尊は草薙の剣で草を刈り払い、火打で迎え火をつけて危機を逃れました。
この時、同行していた弟橘媛の身を案じ、尊が火中を潜って媛に安否を問うた時のことを詠った歌であろうと思われます。
更に登って行くと、「古代稲荷社」とある石積みがあります。
尊が蝦夷討伐を祈願した神跡であるそうです。
丘を登りきると、3つの祠がありました。
神明社、須賀神社、諏訪神社とあります。
神明社は元は伊勢山崎に、
諏訪神社は御所が崎に鎮座していたそうです。
須賀神社は走水神社にありましたが、明治18年から今の場所でお祀りしているとのこと。
それぞれの祭神が神明社は「天照大御神」、須賀神社が「須佐之男命」、諏訪神社が「建御名方神」と、物部と出雲の神が入り混じっています。
美しい花を散らせた橘の君の想いが、今も残るような場所でした。