島根半島と米子市を結ぶ弓ヶ浜を進むと、草穂が広がる中にぽっかり浮かぶ丘が見えます。
ここが粟嶋であり、事代主が幽閉された島です。
弓ヶ浜半島は今は陸続きになっていますが、古代は島でした。
中海は「王の海」と呼ばれ、東出雲王家の領海でした。
そこに小さく浮かぶ島が「粟島」で、ここに連れてこられた事代主は、数人の海童(徐福か連れて来た童男童女)に取り囲まれ、島に幽閉されたと云います。
粟島で事代主が非業の死を遂げ、黄泉の国に行かれた、と人は噂しました。
それで粟島の対岸にあった島を黄泉の国・黄泉の島と呼んだと云います。
やがて黄泉の島が夜見の島となり、今の弓ヶ浜と名前を変えていきました。
733年(天平5年)の「伯耆国風土記」では、こびとのスクナビコナがこの地で粟を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれています。
「日本書紀」でも同じように、スクナビコナが淡島で粟茎に弾かれて常世へ渡ったと記しています。
島の頂上に粟嶋神社はありますが、187段あるという石の階段を登らなくてはなりません。
途中階段の横道に鳥居が見えます。
先へ行くと荒神宮がありました。
さらに石段を昇ると「蝮蛇神祠」とあります。
怪しげな細道を進むと、
小さな石の祠があります。
一体何を祀っているのか、由緒も不明です。
ようやく神門が見えて来ました。
事代主は餓死と判定され、その遺体は八雲町の熊野山に埋葬されました。
その後、事代主の亡くなった島全体が神域となり、ここに事代主の御霊が祀られました。
しかし不思議に思うのは、仮に事代主が拉致され、この島に放置されたとしても、王の海はそれほど荒れる海でもなかったように思えますし、夜見の島や本土へも、なんとかたどり着けたのではないでしょうか。
海には鰐鮫がいたのかもしれませんが、ここは事代主の庭のような場所だったと思うのです。
あるいは事代主は体を縛られ、自由を奪われた上で孤島に放置されたのかもしれません。
山頂の境内はさほど広くなく、伊勢神宮遥拝所や、
出雲大社遥拝所がありました。
そして本殿裏に降りる道を見つけると、
美しい、古代の数々の歴史を秘めた王の海(中海)が一望のもとに見えていました。
「うき雲を はらひし風を あは島の しまにのこして 月ぞすみける」
文政期の米子の文人「福島林仙」が詠んだ、「米子八景」の一つです。
粟嶋からの中海の水面に映る秋の月夜は「粟嶋秋月」と呼ばれる名景で、粟嶋全体は米子市の名勝に指定されています。
本殿裏の道は、人の通った気配が薄く、蜘蛛の巣などに悩まされました。
「粟嶋神社社叢」と呼ばれるこの杜は、スダジイなど高木から中低木が生い繁り、珍しい照葉樹林を形成しています。
島全体が原始林とされ、鳥取県の天然記念物の指定を受けています。
なぜこんな獣道を進んでいるかというと、島の先には事代主幽閉の洞窟があるというのです。
しかし後で気づきましたが、島の裏側へは、正面参道入り口横側から簡単に行くことができました。
別れ道の先に、
「御岩宮祠」という磐座があります。
「お岩さん」と呼ばれるこの大岩は、「海からたどり着かれたスクナヒコナ(事代主)が、やれやれ着いたと、まっ先に抱きつかれた岩」とあります。
「神の依代」として古くから信仰され、岩は石と同じで石は「セキ」と読めるところから、風邪やセキによく効く神としておまいりする人が多いなどと、呑気な注釈が添えられていますが、
まさにここに、事代主は拉致されて来たのです。
すぐそこまで海が迫り、恐怖のあまり、この岩に抱きついたのでしょう。
さらに進むと、
「静の岩屋」という小さな洞窟があります。
そこには「八百比丘尼」の伝承が言い伝えられていました。
地元の漁師の娘が、誤って人魚の肉を食べてしまい、不老不死になってしまいます。
世を儚んだ娘は出家して、粟嶋の西側にある洞窟で隠遁生活を送り、一切のものを口にしなかったそうです。
娘は800歳を迎えて死に、「八百比丘尼」と呼ばれたと云います。
この洞窟が、事代主を幽閉した洞窟であると聞きましたが、穴はとても小さく、屈んでも入れる気のしない、そんな洞窟です。
しかしgolchさんが地元の方に尋ねられたところ、「人が一人は入れる」とご回答受けたそうです。
「大汝(おおあなもち) 少名彦の いましけむ 志都の岩屋は幾代経ぬらむ」
万葉集の355番「生石村主」(いずしすぐり)の歌は、大国主と事代主がそれぞれ岩屋に居られたことをそっと伝えていました。
もう既に調べておられるかもですが、詳しくは市のホームページに伝承の八百べくさんのことは載ってました。リンゴン(龍神)講、気になりました。
そう言えば
粟嶋さんの参道階段途中に、
龍神様の祠があったかと。
伯耆のほうも龍神様やアラハバキ信仰の名残は残ってますね。
アラハバキと言えば、サイノカミ信仰のクナト大神とサイノヒメの仲良く並んだ石神さまは、淀江の亀甲神社が最も多くあるのではないでしょうか。近代のも作ってるくらいで(笑)ある意味、引き継がれてるのか?と思うような面白いものが見れます。
藁蛇さまもおられますね。石馬が出土された天神垣神社にも有名な藁蛇さんとそれを祀る子供のわりかしポピュラーな行事があります。
五条さんのブログにもある、出雲郷の阿太加夜神社や揖夜神社には有名な藁蛇さんいますよね。あれは目があって、特に阿太加夜神社のは可愛らしい。
都我利神社にも。ただ、藁蛇に関しては、大彦も寄ってアラハバキ信仰を続行する決意をしたと口伝に書いてあった、波波伎神社に残ってないのは残念です。
大神山神社の尾高のほうにも、
龍神様の祠と池があります。
そこはクロガネモチ(ナンテンのような赤い実)がこの時期がキレイです。小さい木ですけど。センリョウかもしれませんが。
このように龍神様を大切に祀っていた出雲族ですから、粟嶋さんとこにリンゴン講なる集まりが昔からあってもおかしくないですね。やはり、何か出雲族と関係があるのかもしれませんね。
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コメントで八百比丘尼のことがあるのを見つけましたので、地元話をひとつ。
小さな頃に、ばあちゃんから、糺さんと粟嶋さんに夜行ったらダメダメと言われてました。
(この近辺に賀茂御祖神社という地元の小さな神社があり、私達地元民は、ただすさんと呼んでます。下鴨神社京都の糺のもりから来てるのでしょうね)
で、妖怪がでると。
糺さんの近く花園町は大昔遊郭があり、女狐さんの妖怪がでると。
そして夕方以降は、坂のところで境港からやってきたまた別の怪談話があって怖がらせてくれましたよ。
粟嶋さんについても、
あそこにいくと八百べくさんに
出会って引きずられちゃうぞーって。おばあちゃん。
粟嶋神社がある所は海だったので、昔話舟の渡し賃は3文だったそうです。
昔、この粟嶋に数人で信仰していたリンゴン(龍神)講があって、当番になると神さん拝みの後、講仲間にごちそうを出すのがきまりでそこで人魚の肉を出したのが始まりだそうですね。
みんな怖がって食べなかったけど、袖に隠して持ち帰って食べた人がいて、800歳まで生きて寂しい想いをして。。みたいな。
出雲ぞとの関係は、
この龍神さま、のあたりですかね。。
あと、戦時中は市のホームページを見ると、
違う方のことをお参りしてたとこみたいですね。
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面白い話をありがとうございます。
地元話には、いろいろヒントが隠れてそうですね。
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いまは、大山が目の前にあり、毎朝、朝日☀を拝める幸せを感じてます、食べ物も美味しいです☺
大山の麓エリアや、淀江、南部町エリアも色々あるはず。。
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度々失礼いたします。
気になることがありまして。。
少し回りくどいかもしれませんが大目に見て下さいませm(_ _)m
事代主神と言えば地元では美保神社。境内外の摂社末社を合わせると、事代主様の御子たちに囲まれた幸せな神社だなあ。。と思い何度も通ってはフラフラしとります。
どうも私には前面に出されていない御穂須須美命の存在感を、なぜか美保神社には1番感じます。
父を想う娘の願いみたいなものを
感覚ですけど父上そのものよりも、隠されていたとしても、感じます。
いや、私がそう思い、感じていたいだけなのかもしれませんが。。
説明できない感覚。
たくさんの方のブログで考察しておられますが、事代主神については、どうも謎が多すぎるように思えてなりません。出雲風土記にはその存在を触れられておらず、伯耆誌や鳥取神社誌も同じくあまりない。倉吉の波波伎神社が主祭神になっておりますが、詳しい伝承は未だに私は分からずです。
山陰内では、島根半島の加賀神社や揖夜神社境内のように、境内社ということで恵美須社があり、事代主神はそのような形で多く祀られておられ、あと、同一神とされる少名彦の祀られてるお社はいくつか見つけました。。
それから富家口伝によると、出雲大社や熊野大社にも、元々は境内に祀られていたはずが。。。諸々でなくなったのですよね。前者は大穴持御子神社(三歳社)に事代主、後者は拝殿右横に少名彦という名前をかろうじて見つけました。
以前、五条さんが言って下さったように、境内に出雲王家の神様と呼ばれた方々のお名前の由緒書きがあろうとなかろうと、神様は自然の中に、そこにおられる。だから八重波津身さまは出雲に元はおられた方で、出雲を今も見守ってくださってると信じています。由緒なんて勝手に後世に勝者に都合よく書き換えられてるのだから。、。
ただですね。。。何と言っていいのかわかりませんが、自分の感覚がまだどうしても、なぜだか八重波津身様の辿った何かを、ゆかりの地を歩きながらこれだ!と感じることができないのです。これは由緒書きにあるないは関係なく、自分の五感からくるものです。(新参者で感じようなんて無理か(^_^;))
だから、色んな方の考察をネットサーフィンしたり本を読んだりして、
「事代主は元々出雲の神様ではなかった。」なんてことが書いてあると、DNA的勝手な思い入れが強いだけに、私はかなりガチで悲しくなってしまいます。「ハア?なあにを云うておるのぢゃ??」と思いつつも。。、でも、気になるという(笑)
何処かのえらい大学の古代研究者の方の、事代主はホントは出雲の神ではない、という考察論文書いてたりしてるのを見るのもちよっとなんか辛い。のめり込みすぎですかね(^_^;)
謎解きミステリーみたいに、四国へ行ったもうひとりの事代主説(事代主は役職名だしありか?)の方がまだ、可能性的に、なるほどとか思います。
とにかく(笑)東出雲王家の第8代少名彦としてこの出雲におられた八重波津身さま、これは揺るぎない真実だと私は信じています。
でも確かに、事代主さまのことをもっと感じられるのは、、むしろ出雲国外なのかもしれませんね。
奈良、播磨、京都、滋賀へと2回にわけて巡ってみたいと思います。
鴨都波神社には、まずは行かないと。御所、桜井市はまっさきに。
山陰にあまり八重波津身様を感じられるお社が少ないのは、あの不慮の事件以来、出雲王家の御子たちについて大勢の出雲族が県外に移住したからなのでしょうか。
クシヒカタ様が大勢の出雲族を引き連れて大和へ行ったり、建御名方は諏訪、出雲族尾張系も始め丹波に行ったりと、あの事件が全ての要因で、出て行かざるを得なかったたからなのでしょうか。
そして御子たちが父を思い偲び、行く先々で事代主を祀った社を建てたから、山陰にはあまりないけど、県外にはあるのでしょうか。それで元々、事代主は出雲の神様ではないと考察される方々が多いということなのでしょうか。。。謎です。
それでは長く失礼しました。
滋賀や播磨、京都、奈良で大彦にゆかりがあるおすすめの神社があれば少しだけでも構いません。チラッと神社名を教えて頂けたら喜びます
m(_ _)m
ちなみに、沙沙貴神社、野洲市の兵主神社、その周辺の古墳は行く予定です。長野までは足は運べず残念ですが。。
その他、大彦には関係はないようですが、雲州氏の本にあった、
姫路の生矢神社、播磨福﨑の二ノ宮神社にも行こうと予定しています。
京都、奈良、播磨はまだまだ勉強不足で分かっていません。
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そう言われてみれば、エビス社はたくさんありますが、事代主社、八重波津身社などはあまり見かけませんね。なるほど。
以前、淡路島のたぬきさんという方から教えていただいたことがあります。たぬきさんは出雲口伝と非常に似た内容を知っておられ、出雲散家の子孫の方ではないかと思っています。お父様が修験者のようでした。
たぬきさんがおっしゃるには、天神社は今は菅原道真が祀られていますが、元は手間天神として事代主を祀っていたそうです。道真公が富家の子孫なので、事代主に置き換えて、道真公を祀るようになったと。
それでも、事代主が見えないのは不思議ですね。二柱とも祀れば良いことです。何か事代主の存在を消そうとする、大きな出来事があったのかもしれませんね。
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五条さんこんにちは。
なんとなくこの神社は、以前から気になるお社です。
実家がこの粟嶋神社付近です。粟嶋神社はウオーキングにちょうどよいコースです。
私的なことで恐縮ですが、自分の先祖の辿ってきたルーツが島根半島四十二浦巡りをしながら少しずつ感じられるようになってきました。
曾祖父が父に、島根半島からうちは来ていると伝えた言葉から、その時偶然、テレビで特集をやっていた美保神社のことも妙に気になるといった感覚が芽生え始め、私の取り憑かれたかのような先祖返りの旅(大袈裟か(笑))が始まってしまいました。
長男からも少しは聞いていましたが、なんだか呼ばれてるかのように先祖返りしているのは、家族の中で私だけのようです。
五条さんのブログを知ったのもその経緯からです。それまでは全くと言っていいほど地元の古代史に興味がありませんでした、
長男から送ってもらったリンクに書いてあったことや、うちの口伝(笑)がどこまでが定かなのかはわかりませんが、近江から山陰へ。松江で尼子に仕えており、毛利に攻められて逃げて逃げて、島根半島の小さな村浜の付近に移住した一族、出雲源氏の末裔とのことです。
確かに家紋は沙沙貴山君から発生する近江源氏→出雲源氏の家紋でした。沙沙貴山神社の由緒と富家の口伝によるとですが、どうやらひょっとしたら。。大彦を祖神とする一族の可能性が。。という所までは辿り着きました。まあ、血の1滴くらいは入ってる可能性はあると思います☺
古事記に載っている野浪浜、奴奈禰神社へこないだ行ってきました。この神社を先祖も拝んでいたのかなあと。ちなみにご祭神は大巳貴命と事代主でした。この地で姓を変えて見つからないように隠れながら海洋貿易をしてなんとか財を蓄えたあと、伯耆の国、粟嶋神社近くに移住したんだなあと海をみて先祖に想いを寄せてみたりなんかしました。
実家の近所に安倍という地域があり、小さい頃はそこでよく遊んでいました。小、中の頃は、粟嶋さんの前の川で、ハゼ釣り(地元ではゴス釣り)なんかもよくしていました。ところが、その頃からこの神社の中に入るのは、なんか怖かった記憶があります。犬の散歩しながらこんもりとした森が怖かった。
大元出版シリーズ、斎木雲州さんの
書籍を読んで例のことを知った時にそんな小さい頃をふと思い出しました。あと、少しですが滋賀の沙沙貴山君のことや出雲源氏のことも触れてあり正直驚きました。そして1番驚いてしまったのは、粟嶋神社。。。実家近所の安倍のことも載ってたからです。ホント、全国区からすると地元の人しか知らないような地域が多くの方の手に渡る本に載るなんてと。
そして、五条さんのブログに辿り着きました。多くのことをここから学ばせて頂きました。口伝を鵜呑みにするだけでなく、きちんと、各所へ自分の足で趣き、5感で感じとることで自分なりの考察が降りてくるのだと。ありがたく読ませて頂いております。
これから、播磨、そして滋賀、京都奈良とフィールドワークの旅に来月から行って、自分なりにルーツを辿って、なんとか史実に近いものを家族に伝えられたらなあと思っています。
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心頭を滅却すれば、下りに見える、伝説の階段ww
体調維持の為に登り降りする方がいらっしゃるようです。
さて、不思議なことに八百比丘尼が何故そこにと思うんですよね。
昔、オバマ自販機と土御門家史跡を見に行く際に、高速から下道に入った道すがらで神社を参拝しまくってましたが、八百比丘尼社があったのを思い出しました。
日本海側に伝承が多いような気がしますが、出雲伝承とどのような関係があるのか、興味があります。
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八百比丘尼って何者でしょうかね。人魚の肉を食べて不老不死になったって人が実在したわけではないでしょう。武内宿禰のように役職名のようなものを継承した複数の人物の総称でしょうか。
案外、散家などとつながるのかもしれませんね。
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山陰への旅行を考えるたびに候補に上がるものの、うまく組み込めずに未だ訪問していない気になる神社です。ただ、当初は「こびとのスクナビコナが実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国に…」の、可愛らしいような、去ってしまって物寂しいようなイメージしか持っていませんでした。そうして訪問できないまま時は過ぎ、今では事代主殺害の悲しいお話を知ってしまったので、覚悟を持って訪問することとなりそうです。
島の裏側へ行く方法の情報、ありがたいです。
ちょうどこの記事を見ていた頃、鳥取県米子市や鹿児島県奄美大島などで見られるヌカカとかいうハエの仲間で、噛まれると蚊より強い痒みが長く続く厄介な虫が…というニュースを見ました。中海や弓ヶ浜の地名、彦名公民館の館長さんのコメントなど出てきまして。5月〜7月が要注意だそうです。
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うわ、そうなんですね。
刺されなくて良かったです。
「ハブに注意」やら「スズメバチに注意」などの警告をよく見かけますが、ヌカカですか。。
出雲、また行きたくなっちゃいますね。
県外移動制限が解除になったばかりですが、様子を見つつ、まずは福井と奈良の出雲系聖地を回りたいと思っています。
行きたいところは数あれど、まずは出雲王家関連の聖地は外せません。
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