
仙台のHERO、「マサムネ・ダテ」。
せっかく仙台に立ち寄ったので、独眼竜の眠る場所を訪れることにしました。
そこは「瑞鳳殿」(ずいほうでん)と呼ばれています。

参道途中に、鹿児島県人七士の墓とあります。

なぜ、遠く離れた東北の地に、鹿児島県人の墓があるのか?
そう、西南戦争で国事犯となった西郷軍の軍人は、自ら願い出て東北の地を開拓しました。
その労苦ゆえ、亡くなった方達がいたそうです。


瑞鳳殿へつづく坂の途中に「瑞鳳寺」があります。

狛犬のような自然石が置いてあります。

立派な境内を進むと、

本堂があります。

瑞鳳寺は、初代「政宗」、二代「忠宗」、三代「綱宗」の位牌が安置されているお寺です。

寛永14年(1637年)、忠宗によって瑞鳳殿とともに創建されました。

ご本尊の釈迦三尊像は、平泉の毛越寺より遷したと云います。

中には歴史的資料物とともに

リアルな人形などもあって驚きました。

本堂を出ると、風情ある門が見えます。

「高尾門」と呼ばれる門です。
この門は、三代綱宗公の側室「椙原お品」の邸にあったものを移築したものだと伝えられます。

裏千家のお茶をなされている方からコメントで、当記事の紛らわしい表記へのご指摘とともに、いくつかの情報を教えていただきました。
ありがとうございます。
この高尾門をくぐった正面のお堂は「栄西堂」といい、日本にお茶を招来された「栄西禅師」をお祀りしてあるそうです。
栄西禅師といえば、佐賀県脊振村の山中にある霊仙寺跡にゆかりがあり、改めて感銘を覚えます。
こちらの栄西堂の中には、栄西禅師のブロンズ像(人間国宝香取正彦造)が納められており、栄西禅師象は井ヶ田周治様ご寄進で、栄西堂もそうであろうとのこと。

「君はいま 駒形あたり ほととぎす」(高尾)

高尾門から本堂裏手に回ると、素晴らしい茶室がありました。

この茶室は昭和十年、政宗没後三百年を記念して建てられたそうです。

茶室の屋根を見てみると二つあり、「瑞新軒」と「桑庵」の二つの茶室が隣り合って建っています。

瑞新軒は裏千家の又隠写しの四畳半、桑庵は二畳台目中板つき。

瑞新軒の前には「想姥仙」という碑があり、昭和四十四年に仙台市から名誉市民の称号を贈られた今は亡き清香院様(嘉代子ご母堂)の母、幾久寿様を想い淡々斎宗匠が立てられたものと云います。

瑞鳳寺は1637年、伊達政宗の霊廟をまもる菩提寺として建立されますが、伊達家三代が眠る幽玄な場所です。

また第四代以下の藩主らは仙台市内の大年寺山に眠っているそうです。


瑞鳳寺を出ると、大きな石の階段を昇ります。

が、その前に右手に鬱蒼とした道があるので歩いてみます。

何か見えてきました。

そこにはたくさんの石灯籠と墓石があります。

「御子様御廟」(おこさまごびょう)と呼ばれ、5代吉村以降の藩主の夭折した子女の墓であると云います。

かつては幼き者は、命を保つことも難しかったのだと、あらためて思わせられます。

いよいよ瑞鳳殿内部へ進んでいきます。

杉並木に挟まれた階段は、確かに楽ではありませんが、一般のガイドに紹介されているほど苦になるものでもありません。

年配の方や、子供達も元気に昇っています。

苔むした手水所跡があります。

入園料を払って中に入ると、ガイドのおばあちゃんが眠っていますので、そっとしておきましょう。

ドラゴンの手水舎。

その裏手に立派な門があります。
涅槃門と呼ばれます。

左右に寄進された、石灯籠が立ち並び、

拝殿が鎮座します。

その奥には、見事な装飾を施された本殿。

瑞鳳殿は正式には「経ヶ峯伊達家墓所」と言う霊屋(おたまや)です。

経ケ峯にある伊達政宗を祀るこの霊廟は、桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な建築物として昭和6年(1931年)に国宝に指定されましたが、太平洋戦争時の1945年、戦災で一度全焼します。
その後昭和54年(1979年)に焼失以前の瑞鳳殿を忠実に再現して再建され、現在の姿となりました。

伊達政宗はホトトギスの鳴き声を聞きに経ヶ峯とよばれる静かな森を訪れ、その際に緑豊かなこの地を気に入って自分の墓を建てるように指示したと云われています。

昭和49年(1974年)に瑞鳳殿址の発掘調査が行われましたが、その際は政宗の遺骨や副葬品などが出土したそうです。

本殿両脇には、殉死した家臣らの宝篋印塔が並んでいます。

破天荒だった天下の武将は、多くの人に、当時も今も慕われ続けています。


瑞鳳殿を出ると、戊辰戦争で亡くなった仙台藩士1,260人の弔魂碑があります。

そして雰囲気の良い石畳を少し歩くと、

「善応殿」と「感仙殿」が見えてきます。

「感仙殿」は、二代忠宗の廟であり、

「善応殿」は三代綱宗の廟となります。

両者は瑞鳳殿と相対するように正面が東向きになって建てられています。

感仙殿の右手奥には妙雲界廟があります。

伊達家では第四代藩主以降は、主に大年寺山の茂ヶ崎城跡近くの伊達家墓所に埋葬されていますが、例外として江戸で死去した「伊達周宗」(第九代藩主)と「伊達斉義」(第十一代藩主)は、この妙雲界廟に墓があります。
これは十一代斉義の妻「芝姫」(あつひめ)の墓です。

妙雲界廟は石碑で残る藩主の墓です。
四代藩主、綱村公の「前例にならい、御霊屋を建てたならば子孫は大変である。自分が死んだら墓石を建て瓦屋根で覆えばよい」と言う遺命より、以後御霊屋は建てられなくなり石碑となりました。

三代綱宗の頃は殉死禁止令により殉死者は無かったが、替わって14名の家臣が剃髪して百日間の弔いを行ったそうです。
戦国を駆け回った英雄は、それを慕う人たちに囲まれて、ホトトギス鳴く経ヶ峯の森に眠っていました。

裏千家のお茶をしている者です。記述内容の一部が少々気になり連絡させて頂きます。
「三代綱宗公の側室「椙原お品」の邸にあったものを移築したそうです。」と言う箇所です。
「高尾門」をくぐった正面の建物ですが、このお堂は「栄西堂」です。
日本にお茶を招来された「栄西禅師」をお祀りするお堂で、
(一社)茶道裏千家淡交会宮城支部で、毎年6月5日の「栄西忌」に栄西禅師の遺徳を忍ぶ法要をしています。
お堂の中に栄西禅師のブロンズ像(人間国宝香取正彦造)が納められています。
これを寄進した方は、お茶の井ヶ田園の何代か前の店主であり、宮城支部の第2代支部長井ヶ田周治様です。
井ヶ田周治様ご自身の揮毫による扁額「謝茶」がお堂の点前上部掲げられています。
ただ、お堂本体も井ヶ田様の寄進と認識しておりますが、側室の邸にあったものを移築と記述されて
いるので、瑞鳳寺住職の鎌田先生に直接お伺いしてご確認頂けると幸いです。
以上、どうぞ宜しくお願いします。
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詳しいご紹介とご指摘、ありがとうございます。
私の写真の載せ方と書き方が悪かったのですが、お品邸からの移築は高尾門の事です。
一文の前に「この高尾門は」を付け加えて修正させていただきます。
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