葛城一言主神社:八雲ニ散ル花 24

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「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」

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葛城に移ってきた東出雲王家のクシヒカタ一族は、葛城山の麓に、父「事代主」を祀る社を建立します。
それが「葛城一言主神社」だと云います。

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参道沿いに「蜘蛛塚」と書かれた標識とともに、長方形の石が鎮座しています。

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古代において、天皇への恭順を表明しない土着の民などを「土蜘蛛」と呼んでいました。
そうした民を征伐し、遺体を埋めた場所などに置かれた石と思われます。

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祭神は「葛城之一言主大神」(かつらぎのひとことぬしのおおかみ)と「幼武尊」(わかたけるのみこと)となっています。
幼武とは第21代「雄略天皇」のことです。
雄略天皇は神功皇后の時代を過ぎて、武内襲津彦の子孫らが葛城一帯に豪族として名を馳せていた頃の大王です。

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祭神の一言主神と雄略天皇のエピソードは、少々謎めいています。
「古事記」に記されるところによると、雄略天皇は葛城山で、自分たちと全く同じ格好の集団と出会います。
そしてその相手が「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神。葛城の一言主の大神である」と名乗ると、天皇は恐れおののき、大御刀・弓矢・百干の衣服を差し出したといいます。

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ところが、ほぼ同時期に記された「日本書紀」によると、雄略天皇と一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだと記されています。
つまり、天皇と神は対等の立場で書かれているという事です。

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さらに「続日本紀」に至っては、雄略天皇は、無礼があったとして一言主神を土佐へ流刑に処したとあります。
ここまで遠くに流刑となった神は類を見ない扱いです。
なぜ、これほどまでに、一言主神の神威は落ちていくのか。
また時代が下り、平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」では、一言主神は役行者(役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、いつまでたっても橋が架からないと役行者の怒りにふれ、谷間に呪縛された、とまで記されます。
なお、この使役の時に一言主神は自らの顔の醜さを隠して昼は働かず夜のみ働いたそうです。
なので約束の時までに橋を架けることができなかったと言い訳をしています。

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階段下には「亀石」というのがありましたが、あまり亀には見えません。

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境内には樹齢650年の「無患子」(むくろじ)がありました。

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一言主神の正体は謎とされてきましたが、その字面から見ても、「事代主」のことであることに間違いありません。
東出雲王家のクシヒカタは、事代主・八重波津身と三島の姫「玉櫛姫」との間に生まれた御子です。
当時副王であった父と、八千戈王が謎の死を遂げたことに嫌気がさしたクシヒカタは、母とともに三島へ移り、さらに二人の姉妹と多くの出雲族・三島族を引き連れて、新天地「葛城」に都を造るべく移り住んだのです。
そして、そのシンボルたる葛城山の麓に、神・事代主を祀りました。

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ところが時を過ぎて、出雲族の勢力は弱まり、代わりに力をつけてきた穂日家の子孫は、自分たちが出雲の主であるように画策します。
そこで時の右大臣「藤原不比等」に働きかけ、史実から出雲王国の痕跡を消してしまおうとしたようです。
その辺りの影響で、一言主の扱いが記紀やそれに付随する伝承において奇妙な変遷を辿ることになったのだと思われます。

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しかし事代主の神威は、出雲の大国主・八千戈に負けず劣らず、今なお日本において絶大な支持を得ています。
名を変えられているのでそれは見えにくくなっているのですが、事代主は一言主と形を変え、恵比寿と呼ばれ、そして三輪山の大物主として多くの人が正体を知らず信奉し続けているのです。
「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神」とは、「凶事も吉事も、この神の一言で決まる」という意味であり、非常に尊厳高い神であることが伺えます。

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その謂れも、今は「願いを一言で願えば何でも叶えてくれる」と柔らかなご利益として伝えられ、「いちごんさん」との愛称で親しまれています。

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葛城地方にやってきたクシヒカタは、出雲や三島の多くの人々と葛城の地を開拓しました。
それで、葛城にはタタラによる金属精錬技術などの出雲文化が広まったと云います。

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クシヒカタと一緒に移ってきた妹は、「タタライスズ」姫と呼ばれました。
タタラとは、当時の製鉄法のことであり、「イスズ」とはユスギから変わった言葉で、川砂鉄をすくいとる意味であったと云います。

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葛城一言主神社を少し南に下ったところに「名柄」というの地がありますが、ここから銅鐸が出土しています。
この銅鐸は、周辺から出土した銅鐸の中では古いものに属するようです。
最古の銅鐸は出雲王国での祭りの際に使用される神器でしたが、出雲人の移住によリヤマト王国の神器にもなっていったと考えられます。

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境内拝殿の横に、にひときわ目立つ盆栽のような木があり、その下にも「蜘蛛塚」がありました。

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伝承では、かつて神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足とを切り離し、別々に埋めたと云われています。

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比較的近い場所に高天原の「高天彦神社」があり、そこにも「蜘蛛塚」と「蜘蛛窟」があります。
出雲族は「言向け」と呼ばれる言葉・説得で統治した一族でした。
武力での制圧は好まなかったと云います。
古代の書物を見ると、中国では異族・異敵を動物や虫などの名を含む蔑称で呼び蔑む傾向があります。

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葛城地区は後に中国渡来人の「海家」がやってきて、クシヒカタらの「登美家」や多岐津彦ら「高鴨家」を圧倒します。
しかし海家、後に「尾張家」と呼ばれる彼らと登美家、高鴨家らは共存を果たし、激しい争いをした形跡はありません。
彼らに対して激しい攻撃を加えた一族は、二度の東征を神武東征の神話に置き換えられた、筑紫平野を拠点とする九州物部一族でした。
物部氏が葛城に住む大和の民を惨殺した痕跡が、これらの蜘蛛塚ではなかろうかと思います。

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境内にはうつくしくそびえる御神木がありました。

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「乳銀杏」(ちちいちょう)と呼ばれています。

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樹齢1,200年ともいわれていて、祈願すると子供を授かりお乳がよく出ると伝えられているそうです。

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古代の隠された栄枯盛衰を感じる、葛城一言主神社はそんな場所でした。

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