【唐川八幡宮】
妻垣神社から更に山奥に入ったところ、杵築市山香町の山村に「唐川八幡宮」(からかわはちまんぐう)があります。
ここは珍しい「下り宮」。
唐川は辛川とも書かれ、渡来系文化の影響を感じさせます。
また地元では唐川を「からこ」と発音するそうです。
本殿の正面、石垣に接するように鳥居が立っています。
狭い隙間から扁額を見て見ると、ちゃんと八幡宮と記してありました。
神社の記録では霊亀2年(716年)、八幡大神が3歳の童子の姿で玉石の上に立たれて現れたとあるそうです。
江戸時代の行幸会では、妻垣神社に御験を行幸させたあと、神宝のみを当社に納めたと記録されているそうです。
ひっそりと幸神が祀られているのも、気になりました。
【小山田神社】
宇佐市北宇佐の山中に、宇佐神宮の元宮の一つとされる「小山田神社」(おやまだじんじゃ)があります。
宇佐神宮行幸会八社の一つ。
御祭神は八幡大神。
明治6年(1873年)、小向野村中の貴船神社を合祀し、高龗神・闇龗神を配祀するとあります。
元正天皇の霊亀2年(716年)、「鷹居瀬社の位置は路頭で、往来の人が無礼であるから、小山田の林に移りたい」との託宣がありました。
そこで、大神朝臣諸男と辛島勝波豆米などが小山田の林に神殿を造営して八幡大神を奉斎したのが当社だと云うことです。
境内から下に降りる階段がありました。
ちょっと降りてみます。
池があり、
竹林の道がありました。
この先には向蔵坊というお寺があるようで、小山田神社の元の鎮座地だそうです。
養老3年(719年)、大隅國(現:鹿児島県東部)と日向國(宮崎県)で隼人の襲来があった時、八幡大神は「我れ行きて降伏すべし」と隼人征伐の神託を下し、御進発されたのは、この「小山田社」からだと云うことです。
【鷹居神社】
鷹居瀬社の片割れ「鷹居神社」(たかいじんじゃ)は、大分県宇佐市の公園のようなところにぽつんとありました。
天明天皇の時世、和銅3年(710年)のある夜、八幡大神が大神比義と辛嶋勝乙目に、姿をあらわさず声のみで告げました。
「我は神となって後、空を飛び回ったが住む所がなかった。そのために心がすさんでしまった」
大神比義は、和銅3年(710年)より和銅5年(712年)まで祈り鎮め、八幡大神を祀る初めての社殿を建立し、祭祀を行い神事に勤めました。
これが、現在の「鷹居瀬社」です。
あまり近づくと警報がなるようになっているらしかったので、恐る恐る写真を撮ります。
本殿はほとんど、その姿を見ることができませんでした。
【化粧井戸】
鷹居神社の東より、宇佐神宮西参道までの道を勅使道といい、隼人ゆかりの「化粧井戸」「凶首塚古墳」「百体宮」(百体神社)などがあります。
化粧井戸は放生会に参加した福岡県吉富町の八幡古表神社と、大分県中津市の古要神社のそれぞれの傀儡子を洗ったと伝えられています。
井戸は3つありますが、どれもすでに枯れています。
傀儡子は現在、それぞれ「八幡古表神社の傀儡子の舞と相撲」「古要神社の傀儡子の舞と相撲」として国の重要無形民俗文化財に指定されているそうです。
【凶首塚古墳】
化粧井戸から程近いところに「凶首塚古墳」がありました。
養老4年(720年)に朝廷が大隅・日向の隼人を討伐した際、宇佐八幡の神軍も参加し、隼人の頭(首)を持ち帰って、塚に葬ったと伝えられるものだと云います。
ただし、この古墳からの出土物は6世紀末頃のものと断定されており、大隅・日向の隼人討伐とは時代がずれるそうです。
この隼人の霊をなぐさめるために始められた祭りが、宇佐宮の放生会だと云うことです。
田んぼ越しに遠くを見ると、宇佐神宮の大鳥居が見えていました。