
福井県小浜市の多田ヶ岳山麓に鎮座する聖地、、若狭国一宮「若狭彦神社」(わかさひこじんじゃ)、「若狭姫神社」(わかさひめじんじゃ)を訪ねてみました。
そこはとても気持ちの良い、素晴らしい場所でした。


【若狭姫神社】
そこは総称として「若狭彦神社」と呼ばれますが、「上社」(若狭彦神社)と「下社」(若狭姫神社)に分かれており、また「上下宮」、郡名から「遠敷明神」とも呼ばれています。

上社と下社、どちらを先に参拝するのか、意見はまちまちのようです。
僕はとりあえず「下社」から参拝しました。

下社は水路と石垣に囲まれた境内に鎮座し、ちょっとノスタルジックな印象です。

境内に一歩足を踏み入れた途端に、濃密な森の空気に満たされます。

ここは森と水の気に溢れた聖地のようです。

境内に入ってすぐ右手に社務所があります。
後に向かう「上社」には社務所がありませんので、御朱印等はこちらでいただきます。

神さびた神門。

富家の伝承によると、第2次物部東征により西出雲を攻めた朝倉彦は、軍勢を率いて因幡国から但馬国を通り、さらに東へ進みました。
そして、途中若狭国に住んだ一派がいたと云うことです。

彼らは若狭を統治し、そこの豪族になりました。
その子孫が、後世に一族の神社を建てたのが当社であるそうです。

神門をくぐった先にも、広い敷地があり、いくつかの建物が見受けられます。

舞台は老朽化が激しく、今も使われているのかわかりません。
しかし往年の風格があります。

石碑の先にある蔵も、

かなり古びています。

摂社・境内社も鎮座していますが、

どれも朽ちかけています。

森の木々は樹勢よく、まるで生きて動き出しそうな雰囲気です。

御神木のひとつには

招霊の木(オガタマノキ)もありました。

下社・若狭姫神社は721年に上社より分祀されて現在地に移されたそうです。

元は上社が祭祀の中心であったそうですが、現在はほとんどの祭事は下社で行われています。

祭神は「豊玉姫命」を「若狭姫神」として祀っています。

彦火火出見尊の妻である豊玉姫は、記紀では龍宮の乙姫と描かれていますが、実際は宇佐・豊王国の女王で、『魏書』に「邪馬台国」の「卑弥呼」と記されたその人でした。

ふと拝殿前の地面に足型があります。
そこに立ってみます。

前には極小の賽銭箱。

右手に案内板。
そして上を見上げると、

大迫力の御神木「千年杉」がそびえていました。

豊玉姫の御霊が宿るという御神木は、確かに強いエネルギーを感じることのできる巨木です。

第2次物部東征軍は豊王国との連合軍でした。

朝倉彦の軍にも豊軍が加わっていましたので、宇佐・豊家の一族も当地に残ったのかもしれませんが、

物部勢にも、豊玉姫の威光は甚大だったことでしょう。

今少し、境内を散策していると、乳神さまという御神木がありました。

銀杏の大木からは、確かに気根が乳のように下がっています。

根のコブも女性的なふっくらさ。

「子種石」、

いわゆる陰陽石です。

そして境内の奥に御神水がありました。

滔々と流れる清らかな水は、ほのかな甘みを有しています。

当社の社紋は「宝珠に波」。
これは彦火火出見尊(山幸彦)が龍宮で手に入れた潮を自在に操る「潮盈珠」「潮乾珠」に由来しているそうです。

境内を後にしようとしたところで、遥拝所と書かれた二つの立て札を見つけました。
一つはこれから向かう「上社」のもの。
もう一つは「白石神社」とあります。
気になって調べてみると、若狭彦神社の元宮であると記されています。なにっ!

再び境内を出ようとしたところで看板を目にしました。
そこで振り返ってみると、

なるほど、乙姫が優しく、背を見送ってくれていました。


【若狭彦神社】
下社を出て車で10分ほど、さらに山中へ進むと「上社・若狭彦神社」がありました。

社務所は無く、無人と聞いていましたが、確かにひと気を感じません。

参道途中にそびえる二本の大杉。

これは二の鳥居の役目を果たしているそうです。

参道の杜は深く、

いくつもの巨木が立ち並びます。

そして見えてくる神門。

神門から一歩足を踏み入れた時の、神聖たる空間の演出は見事、としか言いようがありません。

とっぷりとした、濃密な空気に満ちています。

ただ、やはり建物の老朽化は激しいようです。

こちらも奥に、御神水がありました。

時をかけて浄化された、深山の水が湧き流れています。

拝殿は豪族の里宮の雰囲気。

上社では、「若狭彦神」として「彦火火出見尊」、物部の祖神「イニエ」王を祀っています。

社紋は下社と同じ「宝珠に波」。

今では上社は、「初心を取り戻す」「神聖な気持ちがよみがえる」といったご利益があると云われています。
農林商業、海上安全、漁業、縁結び、安産育児、学問、厄除、交通安全等の信仰が深く、また畳・敷物業の神ともされ、インテリア関係者の信仰も集めているのだとか。

境内社の若宮社は「鸕鷀草葺不合尊」(ウガヤフキアエズノミコト)を祀っています。

日本海沿岸の僻地に、第2次物部東征の名残が、ひっそりたたずんでいました。


【白石神社】
さて、若狭彦神社に元宮があるというので調べてみますと、それは上社から車で15分ほど「遠敷川」(おにゅうかわ)という川ぞいを登ったところにありました。

標識があるわけでもなく、勘を頼りに探しました。
と、川向こうにこんもりとした、いかにも幽玄な雰囲気の杜があります。

元宮の名は「白石神社」、どこにも標識がありません。

100名水に選ばれた「鵜の瀬」の給水所があります。

そして「良辨和尚」なる人物の誕生の地という石碑がありました。

良辨和尚とは持統天皇の頃の人のようで、東大寺の建立に尽力し、初代別当となった、ただならぬ人物のようです。
先ほどの鵜の瀬の水は、若返りの霊水だという話です。

さて、古ぼけた社殿らしきものが見えます。
ちょっと怖い感じも受けつつ、階段を上りました。
すると、

すごい、苔です。
苔の絨毯がありました。

上社、下社も苔がすごいなと思っていましたが、ここはまた一面の苔。
足を踏み込むのをためらいます。

薄暗い社殿の中を覗けば、「白石大明神」の扁額が。
間違いありません。

伝説では、若狭彦神が白馬に乗って雲の中から降臨したのが、この遠敷郡下根来村白石の里だったといい、その姿は唐人のようであったと云います。

和銅7年(714年)9月10日に彦神が示現した白石の里に上社「若狭彦神社」が創建されました。
そして翌、霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座したとあります。
下社「若狭姫神社」は、養老5年(721年)2月10日に上社より分祀して創建されました。

若狭彦神は唐人の姿のようだったとありますが、物部氏は元は支那秦国の渡来人ですので、そのように見えたのでしょうか。
しかしこの白石に社殿を建てて、翌年には遷座したというのも、何か意味ありげな感じがします。

一説に、東大寺と「鵜の瀬」は同じレイライン上にあり、さらにその南には金峰山や、空海が祀ったとされる丹生の聖地があり、不老不死のラインが築かれているのだとか。
遠敷と丹生、若返りの霊水も、あながち眉唾という話でも無いのかもしれません。



のみずっち
いつもブログ拝見しております
ここの地名の「根来」は紀州の根来衆(ねごろ)を、「白石」は伊達藩の白石城を連想しますが、地名としての関連はありそうですか?
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のみずっちさん、コメントありがとうございます♪
確かに「根来」などは珍しい名称でもあり、関連が気になりますね。今のところ僕には分かりませんが、調べてみるのも面白そうです。
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ここはすごいですね。
良辨生誕地があるのにも驚きました。
ここからは関係ない話で恐縮ですが。
読んでいる伝承本の中に彗星の話があり、なぜか杉田玄白が出てくるので理解に苦しんだことがあります。
いろいろたどって、彼が小浜藩の人であることと関係あるのでは?という仮説にたどり着きました。
我ながら無理矢理な理屈だと思っていましたが、今、物部氏が入っていた事を知り、いろいろ腑に落ちています。
ありがとうございます。
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良辨和尚をご存知とはさすがです。
僕は当地を訪ねるまで知りませんでした。
仮説が立証されると、嬉しいものですよね。
舞鶴を挟んで西側に、元伊勢の三社があり、ここも物部氏が入った場所ではないかと疑っています。
https://omouhana.com/2017/08/18/元伊勢外宮豊受大神社/
https://omouhana.com/2017/08/18/元伊勢内宮皇大神社/
https://omouhana.com/2017/08/18/元伊勢天岩戸神社/
いずれもちょっと辺鄙な場所ですが、あまり人に知られていない素敵な場所です。
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ありがとうございます。
紹介していただいた記事も拝見しました。
栲幡千千姫と日室岳の遥拝所にびっくりでした。
小浜も福知山も古い古い土地柄なのですね。
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