出雲まで迎えに来た大和直の祖、「市磯長尾市」とともに、野見大田彦は、旧東出雲王国の軍勢を率いて出陣した。
野見軍は奈良盆地に西北から侵入し、当麻に割拠する田道間守軍の兵士を探し出し、河内国に追い出した。
さらに西に進んだ野見軍は、田道間守を淡路島に追い負かすに至る。
その勢いたるや、まさしく電光石火の如しであった。
大田彦の活躍により、イクメ王の支配は安定した。
イクメ大王は喜び、野見大田彦に物部の重鎮に与えられる称号「宿禰」を与えた。
以後彼は、「野見宿禰」と呼ばれる。
「大田彦様、あそこに村が見えます。そこの日下部は登美家の分家ですので、一晩宿を借りましょう。」
野見宿禰の一行は田道間守討伐を成功させた後、しばらく大和に留まり、やがて故郷の出雲へ帰ることにした。
その道すがら、日も暮れてきたので、播磨の日下部氏が治める村の、豪族の家に泊まることにした。
「これはこれは、野見様、このような侘しいところへようこそお越しくださいました。大したもてなしもできませぬが、ゆっくりおくつろぎください。」
屋敷の主はそう言ったが、大田彦らの前には、ずらりと御馳走が並べられていた。
「屋根を借りたばかりか、これほどのもてなしをいただき、誠ににありがたい。出雲に帰ったら、必ずや恩をお返しいたします。」
そう言って大田彦は、まず酒を一杯口にした。
兵士らも倣って酒を呑む。
戦と旅の疲れもあった。
登美家と出雲は親戚である、その安心感もあった。
故に大田彦に油断があった。
大田彦は全く疑うことなく、目の前に出された酒と食事を口にした。
「龍野神社」(たつのじんじゃ)は、兵庫県たつの市の鶏籠山南西麓に鎮座する神社です。
長い石段を上ると、社殿が見えてきます。
主祭神は龍野藩脇坂家初代の「脇坂安治」(わきざかやすはる)を祀っています。
安治は賤ヶ嶽(しずがたけ)七本槍の一人に数えられ、社宝の貂(てん)の皮製槍ざやは、甚内が丹波の鬼といわれる赤井氏を攻めたときの功によってゆずられたものだそうです。
10代安董は外様大名でただ一人老中となり、11代安宅も寺社奉公となり、龍野の繁栄を築いてきました。
現在の当社は新宮さんと親しまれ、「野見宿禰神社」「玉島嶋稲荷神社」などを合祀、「宇迦之御魂命」「誉田別命」「天御中主命」「迦具都知命」そして、「野見宿禰命」を併せて祀っています。
龍野神社の横に「野見宿禰神社」へ続く階段の道があります。
そこは「出雲墓屋」伝承地と云われ、野見宿禰の塚が建っていると云います。
野見大田彦は野見宿禰と呼ばれ、なぜか「相撲の祖」とされています。
この野見宿禰神社には、名だたる名力士の参拝も絶えないということです。
大田彦は田道間守の軍勢を退け、田道間守が住んでいた当麻村方面の領地をイクメ大王に捧げました。
そこは大王家の領地(宮家領)となったので、今では「三宅」の地名になりました。
野見大田彦は、田道間守討伐の功をイクメ大王に認められ、物部族の重鎮の称号「宿禰」をもらい受け、「野見宿禰」と呼ばれるようになります。
田道間守の勢力が住んでいた大和の添下郡(奈良市菅原町、秋篠町方面)は、大田彦に与えられ、彼の次男や三男が住むことになりました。
大和に出兵した出雲兵は、何人かはそのまま大和などに住み着きましたが、大部分は郷里に帰ることになりました。
領地の管理を息子たちに任せた野見宿祢は、兵士を連れて帰途の旅に出たのです。
参道の途中に「力水」と呼ばれる湧水がありました。
そこには力士の像が立っています。
そこから更に、丘に登る階段が続きます。
野見宿祢の一行は、出雲への帰途に播磨を通り、日下部の野に泊りました。
日下部の野には、日下部一族が住んでいましたが、日下部氏は大和登美家の分家であり、野見宿祢とも血縁があったと云います。
しかしこのことが油断の原因でありました。
野見宿祢は、播磨国の豪族の家に招かれて宿を借り、食事のもてなしを受けました。
ところが、その食事に毒が盛られていたのです。
野見大田彦は、その毒により命を失ってしまうのです。
やっとの思いで丘を登りきったと思ったら、そこから先に、見上げんばかりの階段が更に続いています。
『播磨国風土記』揖保郡・立野の記事に、次のように記されています。
「立野と名づけたわけは、むかし土師である弩美ノ宿祢が、出雲の国から行き来していて、日下部の野で宿った。
そこで病気になって死んだ。
そのとき、出雲の国の人々がやってきて、立って連なり、川の小石を手から手へと移し運び、高地へ上げて墓の山を作った。
だから立野と名づけたのである。
その墓屋を名づけて出雲の墓屋と呼んでいる。」
播磨の豪族は親族であると思い、気を許していた大田彦でしたが、そこの家族に天日矛(アメノヒボコ)の子孫の血縁者がいたことが後で知らされました。
つまり、田道間守の復讐を受けたのです。
古代の出雲では、自宅で死亡した場合は、朱を使って遺体の防腐を行うのが慣例でしたが、旅先ではそれができず、「たつの」の丘に埋葬されたと云います。
野見大田彦の死去の知らせを受けた多くの出雲人が現地におもむき、そこに古墳を築いたのが当地となります。
この野見宿禰の墓を建てるために出雲の人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」(たつの)の地名の由来とされています。
階段を登りつめたところにある玉垣は、明治大正時代の力士84名および行司が寄進した「力士の玉垣」と呼ばれています。
丘の上には鳥居状の石の扉があり、その奥に小さな石の祠があります。
石の扉には、出雲王家の紋が彫られていますが、なんとそれは王家とは全く関係のない、穂日家の子孫の紋であると記されています。
第2次物部東征が終わり、イクメ大王は、出雲占領軍の司令官だった「物部十千根」を出雲国造に任命しました。
すると穂日家の「ウカツクヌ」が怒って、家族を連れて大和に押し掛け、自らの功績が物部十千根より勝ると大王に主張したと云います。
なんとウカツクヌは、田道間守討伐の功績者「野見宿祢」は穂日家の出身者だと主張したのです。
ウカツクヌの激しい主張に、結局イクメ大王は根負けして、十千根に与えた国造の地位を、穂日家に変更したのだと云うことです。
穂日家は富家の称号である「出雲臣」を名乗り、大田彦の功績を我が物にし、むりやり国造の地位を得て、出雲国の総本家たろうとしたのです。
そんな穂日家の行いを知ってか知らずか、野見宿禰塚から眺める播磨の景色は美しく、我々人間の浅ましい思惑など、ちっぽけなものだと思い知らされます。
野見大田彦の遺体の一部は酒壺に入れられて、愛しい故郷に運ばれたと云うことです。