神話によれば、猿田彦は天孫ニニギの天降りに出向き、一行を無事に葦原中国に送り届けると、猿田彦はアメノウズメに自分を送り届けるように頼んだ。
猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰り、鎮まった。
伊勢神宮・内宮の近く、おはらい町の入り口に「猿田彦神社」があります。
目立つ看板もあり、内宮に参拝するときに、否が応でもその存在に気がつきます。
境内はさほど広くありませんが、様々な特徴をもった神社です。
そのひとつに欄干や鳥居には、八角形の柱が使用されています。
「八」というのは出雲王国の聖数でした。
ニニギの天降りでは、天の八衢(アマノヤチマタ)の分かれ道で迷っているところに、猿田彦がやってきて道案内をします。
八衢神というのは、古代出雲で進行されていた幸神(サイノカミ)の后神、「幸姫」(サイヒメ)の別名であり、またサルタ彦の母とされる「枳佐加比売」(キサカヒメ)を指します。
本殿の手前、境内の真ん中あたりに「方位石」と云う八角形の石があります。
この石に文字が刻まれていますが、自分の干支と、運気をあげたい方位の文字に触れてお祈りするとご利益があると云われています。
この「方位石」も八角形ですが、これも八衢に因んでいるのでしょう。
本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造なのだそうです。
日本神話によれば、ニニギの天降りの先導を終えた後、猿田彦は伊勢の五十鈴川の川上に鎮まったとされます。
『倭姫命世記』には、その子孫の大田命は天照大神を祀る地として、大和姫にに五十鈴川川上の地を献上しています。
大田命の子孫は「宇治土公」(うじのつちぎみ)とされていて、さらにその祖神が「サルタ彦」であると云うことです。
宇治土公は神宮に玉串大内人として代々奉職していました。
しかし明治時代に入り、神官の世襲が廃止されたので、屋敷神として祀っていた猿田彦を、神社として改めて祀ったものが、今の猿田彦神社だと云います。
ところが、ここにちょっとした論争が沸き起こります。
全国約2千社はあるという、猿田彦大神を祀る神社の総本宮はどこなのか。
鈴鹿市の「椿大神社」が「地祗猿田彦大本宮」と謳い、総本宮であると主張しています。
しかし椿大神社の宮司は「山本」という姓で、猿田彦神社の宮司は「宇治土公」(うじとこ)という姓なのだそうです。
また、猿田彦神社が神宮内宮の近くにあることや、猿田彦大神を祀る各地の神社で椿大神社とつながりのある神社は少数しか存在しないことから猿田彦神社が猿田彦神を祀る神社の総本宮と考える人は多いのだそうです。
これは少々、椿大神社の分が悪いように思われます。
しかし富家の伝承では、アメノウズメとされる豊姫が、丹波(丹後)から逃げ頼ったのは、椿大神社の「宇治土公」だったと記していました。
つまり椿大神社の宮司「山本」氏も祖は宇治土公であり、猿田彦神社はその分家であるのだろうと推察します。
兄弟で家業を引き継いだが、意見の不一致で暖簾を分けて、互いに「元祖」だ「本家」だと言い争う、よくある話のやつなのではないでしょうか。
ところで「さざれ石」は多くの神社で見かけるものの、「たから石」ってのはちょっと面白かったです。
確かに上に「蛇」が乗っかっていますね。
これを待ち受けにすると、良いことがあるのだそうです。
また、猿田彦神社の本殿に向かい合うように「佐瑠女神社」(さるめじんじゃ)が建っています。
祭神はもちろん「天宇受売命」です。
芸能の神として、芸能人の参拝も多いと云うことです。