
「のう、姫よ、儂はどうにも其方を好いてしもうたようじゃ。朝から晩まで、姫のことばかり考えておる。
出雲は少しばかりここより遠いが、どうじゃ、儂の元に嫁いでくれんか。」
その遠いという距離を、この男は足繁く通ってくる。
勾玉の原料となる、我が国の翡翠を買い付けに来るというこの男は、その度に必ず私に逢いに来た。
私に会うと、彼はいつも「翡翠のように麗しい姫」と褒めそやす。
その男は「八重波津身」といった。
近々、彼の国『出雲』で副王に就任するのだという。
そこで妃をもうけよ、との話が持ち上がったらしい。
彼は、一も二もなく、私を選んでくれたということ。
「うれしい」
私はそう答えた。
翡翠が混じる、この玉砂利の海岸で、夕日に照らされた彼の顔は、今までにないくらい笑っていた。
...
「母上、母上、しっかりなさいませ母上」
目をうっすら開けてみると、そこに愛しい人の顔があった。
いや、ちがう、これは息子のタケミナカタ。
そう、すっかり父親似の、素敵な男に育ったこと。
私は故郷の古志の国、糸魚川へ帰ってきた。
翡翠の砂利浜のように、幸せな日々が延々と続くと思っていたが、ある日突然、あの人は帰らざる人となった。
それが耐えられなくなり、私は故郷へ帰ってきたのだった。
夫は私の他に二人の姫を娶ったが、皆に優しく、子にも良くしてくれた。
私には故郷に続く海のそばに、屋敷を設けてくれた。
なんの不満もなく、変わらず愛しい人だった。
「母上、私が分かりますか、母上」
分かっておる、最愛の人の面影をもつ、息子を見間違えるはずもない。
心配せずとも、私は少しばかり、最も幸せだった時の夢を見ていたに過ぎないのじゃ。
最も幸せだった時の夢、ああ、そうか。
私の寿命も、もう尽きかけておるのじゃな。
優しい息子、ミナカタ、お前は出雲の王になることもできたのに、私に付き添って古志まで来てくれた。
それがどんなに心強かったか。
聞けば、あの人は、異国から来た民に殺されたのだという。
強くなりなさい、息子よ。
あなたには出雲の民と、古志の民が力となってくれよう。
偉大な王と副王を失って、この先、国も荒れるはず。
しかしお前には、あの人の血が濃く流れておる、心配ない。
出雲の新たな未来を背負う、立派な王となりなさい…
...
ああ、ここはまた、私のお気に入りの、あの砂利浜じゃな。
あの人が私のようだと言った、翡翠の石が、足裏に優しい感触を伝えて来る。
たたずむ私の手を、大きく肉厚な手が掴む。
その手は、優しく、しっかりとした力で、浜の先へと誘いていく。
私は顔をあげ、眩しい夕陽に照らされた、その手の先にある顔を見つめた。
そこには、私の大好きな、あの屈託のない笑顔があったのだった。


新潟の糸魚川市にある「天津神社」(あまつじんじゃ)へやって来ました。
天津神社は12代景行天皇の御代の創設とされる古社で、糸魚川市の一の宮となっています。

市民会館の駐車場に車を停めさせていただき、参道を歩いていると、古びた社がありました。

どなたが祀られているのかも不明で、天津神社の境内図からも外れています。
ちょっと不気味だったので、深入りは避けました。

石橋を渡ると気持ちの良い小道が続いています。

横には、池の中に小さな弁天社が祀られています。

池の亀も、のんびり日向ぼっこ。

手水で手口を清め、

先へ進みます。

参道を折れ曲がった先に、広い境内がありました。

その中心に威風堂々鎮座する拝殿。

茅葺の重厚な屋根は、見るものを圧倒させます。

天津神社の祭神は「天津彦々火瓊々杵尊」(アマツヒコヒコホニニギノミコト)、「天児屋根命」(アメノコヤネノミコト)、「太玉命」(フトダマノミコト)。

しかし僕の当社参拝の目的は、その本社ではなく、境内社の「奴奈川神社」(ぬなかわじんじゃ)の方でした。

奴奈川神社は「奴奈川姫命」を主祭神とし、後に八千矛命(大国主)を合祀しています。

記紀は出雲の国譲り神話において、事代主と建御名方を大国主の息子という設定にしましたので、建御名方の母である「沼川姫」は大国主の妻ということになりました。
しかし、沼川姫は、実際は事代主・八重波津身の妻であり、建御名方の父親も事代主だったのです。

越後国糸魚川の支流・姫川流域で産するヒスイの原石は、良質な勾玉の原料として重宝されました。
出雲王国の時代には、玉の首飾りを付けないと豪族とは認められなかったので、各地から求められました。

当時、玉造りが最も盛んだったのが出雲です。
勾玉は、生まれる前の胎児の形で、子孫繁栄を願うサイノカミ信仰で特に縁起のよいものだと考えられていたということです。

出雲の玉作湯神社の祭神は「櫛明理命」で、玉造りの祖とされています。
櫛明玉命は東出雲王家の「向家」(富家)の分家であり、紀元前から三世紀までは、玉造りの中心は出雲王向家であったと、富王家伝承は伝えています。

拝殿の裏に回ると、二つの本殿があります。

拝殿の真後ろにあるのが、天津社の本殿。

ごつい狛犬が社を守っています。

しかし何処と無く、意地悪げな表情。

左に鎮座するのが奴奈川社の本殿です。

この本殿内には、木造りの奴奈川姫神像が安置されているそうです。
非常に古いものらしいですが、それは出雲時代からはるか後の藤原時代のもののようです。

沼川姫は、古志国の沼川郷豪族「ヘツクシヰ」(辺突辰為)の娘でした。
三種の神器の一つに、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)がありますが、この「瓊」の字は「宝石」を意味し、その宝石が採れる川を「瓊の川」と呼んでいたそうです。
やがて、その瓊川が沼川と字を変えたとのこと。

「渟名川の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも」
万葉集3247番のこの歌は、「玉のように大切な君が、老いて通って来なくなった」と嘆く、女性の歌だそうです。
美しい宝石の「瓊」に通じる名をつけられた沼川姫は、その名の通り、美しい姫だったことでしょう。

しかし社名にもある「奴奈川」の字は、残念なことに婢字に当たります。
ここは沼川、もしくは瓊奈川と名を改めて欲しいところです。

奴奈川社の横には、大きな御神木が立っていて、姫を見守るように、大きく枝を伸ばしていました。



さて、もう一つの奴奈川神社に向かう途中、少し寄り道しました。
ヒスイ海岸です。

糸魚川上流の岩盤では、良質な翡翠の原石が、豊富に採れたということです。
糸魚川産翡翠は硬玉(本翡翠)と呼ばれ、微細な結晶が絡み合っているため非常に壊れにくく堅牢な石で、大変加工がしにくいのが特長です。
昭和32年に国の天然記念物に指定され、今では採掘は禁止とされています。

しかし岩盤からの採掘はダメでも、勝手に流れて来る翡翠の小石を拾うことは問題ありません。たぶん。
そう、ここは糸魚川の翡翠の原石が打ち上げられることで有名な海岸なのです。
って言っても、そんなに簡単に、翡翠を拾うなんてこと、できるわけないじゃないですか。

いやいや、海岸に降り立って数分、すぐにこんなに、それっぽい石を見つけましたよ。
でも、油断してはなりません。
これは罠なのです。
翡翠に見える石でも、大半は「ヒスイもどき」なる石なのだそうです。

僕は以前、奈良の箸墓古墳そばにある、某喫茶店で、糸魚川産翡翠の勾玉を作成、購入させていただきました。

当喫茶店のオーナーは採掘禁止になる以前にこの石を譲り受けていたそうで、それを安価に提供されているのだそうです。
この時、糸魚川産翡翠の原石を見せていただいていたのが幸いでした。

翡翠の原石を見つけるコツは、
・白っぽい石であること
・角ばった石であること
・他の石よりも重たいものであること
・表面にキラッと光る結晶が見えること
などだそうです。
糸魚川産の本翡翠は硬玉なのでとても硬く、水や砂で削られても丸くならないのだとか。
碁石のように丸くなってしまったものはヒスイもどきだということです。

僕が拾ったものは、やはり、丸くなったものばかりでした。
その中でも欲張らず、一つだけ持ち帰ることにしました。
ずっしりと重い、そしてちょっと角ばった小石です。
そして手にした感触、あの奈良で磨いた勾玉にそっくりです。
これは間違いありません。
糸魚川の贈り物、そのはずです。たぶん。きっと。
僕の中の沼川姫も、そうだと囁いています。
太陽の下ではよくわかりませんでしたが、ホテルで軽く洗って見て見たら、表面にキラキラ光る結晶も見えました。
写真ではわかりにくいのですが、石の中央あたりに、ほらね、光っているのが見えるでしょ、たぶん。
どことなく勾玉のような形をしているのも、お気に入りです。



糸魚川市田伏にある「奴奈川神社」にやってきました。

延喜式の奴奈川社比定候補の一社です。

当社も広めの境内に、風格ある社殿が建っています。

沼川姫は向家の事代主、八重波津身に迎えられ、妃となりました。
そして出雲国美保の郷にお住みになったと云います。

姫はその地で、御子の建御名方や姫の美保須須美(ミホススミ)を儲けます。
姫の住まう屋敷がある港には、翡翠の玉造り工人や商人たちが住みました。
事代主がおられた頃には、国内はもとより、韓国からも玉類を買い求める者が訪れ、賑わったと云います。

しかしそんな折、出雲を震撼させる大事件が起こります。
8代目主王「大国主・八千戈」と副王「事代主・八重波津身」の失踪です。

二人は数年前に渡来した「穂日」とその息子「夷鳥」によって、数人に取り囲まれ、拉致され、それぞれ別の孤島の洞窟に幽閉され、そして枯死させられました。

主王・副王のご遺体は、腐食し無残な有様だったことでしょう。
夫を失った沼川姫は淋しさがつのり、古里の姫川や黒姫山の景色ばかりが想い出されたようです。

そして姫は、出雲を離れ、越後国糸魚川の実家に帰ることを決意しました。
この時、娘の美保須須美は、出雲の美保関に残り父の霊を祀りなぐさめる道を選びました。
息子、建御名方は、母に付き従い、ともに越後国に移っていきます。

そして沼川姫は、糸魚川の故郷の地で亡くなり、葬られたと云うことです。

夕暮れ押し迫る中、拝殿に電気がついているので上がらせてもらいました。
すると、幸運なことに、神主さんがいらっしゃったので、御朱印をお願いし、少しお話を聞かせていただきました。

御祭神は、「奴奈川比賣命」と、「大日孁命」「 八千矛命」の三柱だそうです。
創建は成務天皇の代に、越後国の国造が奴奈川姫命の末裔である長比売命を娶り、当社を建てたと伝わりますが、実際は不明であると云うことです。

拝所はとても荘厳で、当地の人たちに、姫が慕われてきたことを窺わせるものでした。
今日はたまたま来ていたという神主さんは、正式な神職の方ではなく、頼まれて少し遠いところからやって来ているという方でした。
出雲人を彷彿とさせる、とても人の良さげな方です。
沼川姫についても、「建御名方の母君で、出雲から里帰りして来たということ以外はよく知らないんです」と申し訳なさそうにお断りされていました。

しかし御朱印にある9枚の葉がデザインされた社紋は「榊九葉」といい、朱印を復刻させる上で、随分とデザインに苦心したと誇らしげに語っておられました。

本殿横の境内は緩やかな丘になっています。

本殿のすぐ横にある丘には結界が張られ、

好き放題伸びた草むらの先に鳥居があります。

よく見ると小さな石祠がいくつかあり、

石碑に十二社と掘ってありますので、12の石祠が鎮座しているのだと思います。

延喜式に記載される式内社、奴奈川社は、天津神社であるとする向きが主流のようです。

しかし姫の古墳があるとするならば、この杜ではないだろうか、そんな気配を感じさせられていました。



https://novel.daysneo.com/sp/works/episode/5a67ecf2af3fad54a336e581e17ce245.html
上記の「ヒスイのものづくり史」は、ものづくりの視点から古代史を考察されていて目からウロコでした。
敏達天皇(継体天皇=オホドの曾祖父)にも渟名がつくのですね。渟名がつく第2代天皇。このサイトで紹介されてるようにデッカイ翡翠をつけてたのでしょうか。
私がこのサイトに辿り着いたのは、記紀の冒頭シーンから天真名井が天渟名井、天沼名井なのではないかと思ったからです。国生みの水、翡翠をつける神聖な水。これを天渟名井と呼ぶ。そう言えば、私が出雲口伝に辿り着いた原点は、命主社の裏の真名井遺跡に行って突然警報級の土砂降りの中、そこに立って鳥肌(雨だったし笑)ゾクゾク、なんか「ごめんなさい」と感じたことからだということを思い出し、あそこの磐座から3種の神器の2つかもという、糸魚川産の最高級翡翠と銅戈が出土された。その近くに天真名井があったことからです。
天真名井といえばどちらかというと、高照姫や渟名河姫よりも、豊受大神。そこからおのずと籠神社からの真名井神社。丹後丹波に神聖な水生みの女神。翡翠という豊物を受ける女神がいて、翡翠を司る渟名河姫が翡翠をその神聖なる渟名井の水に浸ける。。という妄想絵図が浮かんだのです。そして上記の「ヒスイのものづくり史」に辿り着きました。
三島、河内圏のものづくりネットワークもあってこれまた目からウロコ
翡翠は出雲文化圏において、東日本まで広い交易ネットワークがあり、それは何のためかと言うと、翡翠は祭祀に書かせないものだから、言い換えれば祭祀ネットワーク。ところが、河内から物部氏が後に、稲作工具に必要な鉄を確保するために、伽耶の鉄資源とこの翡翠を交換し、鉄交易ネットワークに組み込んでいった。。これにはストン、トきました。台湾で見た翡翠の白菜ちゃんが、実は。。巡り巡って糸魚川産なんて可能性もあるかもかも、と、このサイトを見てから思うようになりました。
豊受大神、渟名河姫(後の渟名つながり)、高照姫。丹後丹波と高志、諏訪は、3つの黒姫山と同じように、トライアングルゾーン。古代祭祀に不可欠だった天渟名井水と翡翠の姫巫女で繋がっているのかな。宇佐、宗像、出雲と先住の民族。考えうることは一本の線で繋がってないかな。
シンプルに考えて、やはり
高照姫は渟名河姫と同一か、そうでなくてもかなり近い2神。。と思います。
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ものづくりには、時代の特徴、クセがありますから、正しい歴史考証法のひとつですね😊
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沼河姫は八千矛神との悲愛ストーリーが高志の国に伝承として残ってますが、一部の地域では八千矛神=素戔嗚とする由緒もあったりすると知り、神話的には実はそうだったのではないかと思うようになりました。つまりこの伝承は、沼河姫は火明命とも後に婚姻関係を結んだという暗喩なのではないかと感じるのです。そして沼河姫はいろんな口伝にある系図よりもその存在はもっと古く、確かに原始の姫巫女ではないかと思えます。
高照姫も火明命と婚姻関係にあり、天香語山命を生み初代神武こと天叢雲の祖母。この血筋はハイブリッドすぎる故、高照姫は天照高丹治女神とも呼ばれる。これだとまるで火明命が天照大神のよう。
高照姫は天香語山命を生む、これはイザナミがカグヅチを生みイザナギと別れる、冨家口伝のツートップの悲惨な事件後に高照姫と火明命が離縁するストーリーにも重ねるられる気がしています。カグを生む、カグがついて似てるというだけで思いついたのですけど(^_^;)冨家口伝のように、イザナミが幸姫モデルだとすると高照姫も実際はかなり古い時代の姫巫女だったのではないかなあなんて思ったりして。
沼河姫と高照姫はなんとなく類似性があり、私の私見では此の頃は同一視できてしまいます。丹波と高志の違いはあれど、重要度も同じくらいな感じがする。丹波……蘇我氏……古忘、この線もなんだか一本の線で繋がりそうな。
三島家からの血筋で蹈鞴五十鈴姫とクシヒカタから沼河耳や渟名底姫と、ヌナがついたり、大彦の息子にも沼河姫から別けられた血筋のような名前である意味は、あらゆる角度から考えられるのかもしれないと再考しています。
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narisawa110
勾玉と言うものは不思議で、出雲口伝では説明しきれない部分があります。
実は、我が国の勾玉の歴史は関東から端を発し(縄文時代前期)、関東を覆うように東北中部へ、そして中期(山内丸山遺跡の全盛期)には東日本全般と九州の一部でも確認されるようになります。縄文後期には北海道が多くなるそうです。
我々が思う勾玉は弥生時代中期にその形状が確立され、徐福時代より前に存在していたことになります。つまり、土偶の地域と重なるわけです。環状集落としてはデーノタメ遺跡などが代表的です。
話は逸れますが、縄文信仰と神道は別の考え方であるという事ですね。その領域に橋渡しをしたのが、大彦系による出雲系のアラハバキ信仰であったと私は思います。
宮城県石巻市と、大彦の痕跡の濃い長野県中野市には、日高見神社があります。
大祓の祝詞の中の、日高見国と、大倭日高見国は厳密には別で、大彦が入っていった後の日高見国を大倭日高見国と言うんじゃないかと推測します。
故に、縄文系の独自の文化の続いたアイヌの国、北海道は「日高」と呼ばれたのだと思います。日高見とは、本来は青森辺りの事を指すのではないかと思いまます(丸山遺跡等)
ここから先は、出雲口伝にリンクしてきますが、当時の日本列島の人口は東日本に集中しており、出雲などの西日本は本当に人口が少なかった様です。
西日本の人口が東日本を抜くのは弥生時代(前10世紀~の時代)に入ってからで、とりわけ九州南部は、その中でも縄文時代を通じて人口が変わらなかったと特徴が出ているそうです→縄文早期の鬼界カルデラ噴火→名草一族の和歌山定住。そして土偶が九州においては縄文後期まで姿を消す事になることからも、土偶の起源はやはり東日本かと思われます。
前10世紀には、九州において現在確認することのできる最古の水稲遺跡がありますね(菜畑遺跡)
100M㎡あたりの人口(東北)(関東)(出雲)(四国)(九州)
縄文時代前期・・(29)(130)(4)(2)(14)
縄文時代中期・・(71)(300)(4)(1)(13)最盛期26万人
縄文時代後期・・(66)(160)(8)(14)(24)寒冷化による人口減7万人:丸山遺跡放棄
↓
弥生時代(前10世紀~紀元後200年)→東日本と西日本で人口バランス逆転。8倍の60万人に増加
しかし、出雲と四国は九州や、中部の半分以下で、どう考えても島根定住後の出雲族ですらそうでないのに、四国から何かが始まったと言うのは人文学的にも無理があるとしか思えません。人口や土偶などの文化から見たら阿波単独説は無理があります。
此処で注目なのが出雲口伝の確度の高さで、丹後からヤマトへの入植が続いた動機は稲作に適した場所の早期の確保ともいえます。出雲族入植の一世紀前から近畿で豪族化していた越智族(三島家)と婚姻関係を結び、水田開拓といった土地改良のノウハウを得ることが出来ました。
三島家は開拓の能率の上がる鉄素材を持った一族とその後も婚姻関係を結び、女系の家として出雲に次ぐ権威を持ち、各家で尊重される事となったと思われます。
この頃、九州に端を発した稲作一族である四国の越智族の一部は四国「御島」において細々と陸稲から水稲を始めたのではないでしょうか?
弥生時期の人口爆発ですが、平地が極端に少なかった出雲や四国は途中までは未だ大勢では住みにくい地形で、当初は顧みられなかった土地であったとしか思えません。
つまり、出雲や四国は、九州古来の民族の移住先にはならなかった事情が伺えます。(半農半漁の生活をしていた人から見て稲作に適した平地が極端に少なかったか、火山灰の影響が大きかったか)
弥生時代中期→現在の我々がイメージする形の勾玉が作られるようになる。九州全域にも広がるのがこの頃。米と翡翠を交換したのか?日本海側の貿易ルートの確立?
7000年前からの縄文時代のヒスイ製品は、ヒスイ大珠であり、長野県「伊那市」を区切りとし、そこより以北でなければ基本出土しません。(例外は北九州の3か所のみ)
つまり、ヒスイ製品は北九州からの噴火での人口の移動のあとに、糸魚川から東日本に、西日本よりも先に広がっている訳です。
これは、それ以前から東日本の領域には現在記紀で言われている倭国以外の大きな勢力が習合相手として存在していた事を示してると思われます。言い換えると、大彦やミナカタの糸魚川ルートは国譲り事件以前から存在していたと考えられます。
そして、出雲族は伝承の通り、人口が少なかった日本海側を通り、殆ど人のすまなかった出雲に安住の地を確保します。恐らくは四国も同じ事情で当初は出雲系の領域になったと考えられます。
製鉄の技術を持っていたことが幸いし、食料生産の多い国と関係を結ぶことが出来る下地が既にありました。国家観や宗教を持っていたことも緩やかな支配形成には画期的な物を出雲族は持っており、同じ女系一族であるという事で親和性は非常に高かったと考えられます。
縄文系のDNAは沖縄と北海道に多く、本州では唯一島根の一部にその痕跡が見られ、出雲族定住当初は平和的だったことが伺えます。
前6世紀には出雲系の版図は北九州から瀬戸内海、四国、越前となりますが、そこから先には伸びていません。つまり、そこから東側の東北と関東は別の勢力が既に形成されていたとしか思えません。
古墳時代(勾玉最盛期) 翡翠の勾玉が最も多く作られるようになる。制作場所は、関東、近畿、中国地方
古墳時代後期→瑪瑙や水晶の勾玉が多く出るようになる(島根花仙山の赤瑪瑙)
飛鳥時代~奈良時代にかけて勾玉が衰亡、近畿をはじめとして制作されなくなる。実は、最後まで作っていたのは出雲地方の7世紀。
646年、古墳造営、副葬品禁止
最後の勾玉は東北地方における蝦夷の領域にされた地域での末期古墳7~8世紀にかけてで、その後は完全に痕跡が失せる事となります。
図らずも末期古墳は勾玉の文化の主体が本来は大和政権とは無関係であった事を示していると考えられます。
また、蘇我系が圧迫されたことにより、白村江の戦いの後の40年後の700年代には、政府は海運などの助力が豪族から受けれなくなり、大陸への渡航は命がけのものになります。
つまり、三国国国造系など、一定の勢力が攻撃されたことにより、勾玉も出されなくなったという側面も重なったのではないかと考えています。(確か称徳天皇の次は再び天智系の天皇になったと記憶しています)
以上の事から、人口が増えた時代からの中興期には、出雲の領域に、勾玉産出国との何らかの関係が深まり、需要増に対応するため、産地が原石での出荷に応じる事となったと考えられ、それゆえに各地に加工場が作られたと思われます。
加工場としての立地は、地政学的に見ても、出雲から四国に加工が広がったとしか思えません。
原初の卑弥呼は、関東、東北地域や、それらの地域と経済的な繋がりのあった地域に居た事になると考えられ、奴奈川姫はまさしく原初の卑弥呼であったと思われます。
1665年に島根県の眞名井遺跡において大社造営時に埋められたとされる出雲大社の勾玉は、「大石の下に銅矛と共に隠されていた」ヒスイ製の勾玉であったそうです。
806年古語拾遺の頃には末期古墳も既になく、勾玉は一切作られなくなっており、伝説となっていた状態で書かれている事になります。
我が国の歴史は、誰が言い出しっぺであるかというスタートの認識の違いでしかなく、極端な話、起源説を言うのであれば、男系クナト、女系アイヌの歴史が全ての起源であると言い換えることも場合によっては可能な状態になっています。
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なるほど、確かに古代の人口動態は無視できない数字ですね。
当初は僕も、出雲からさらに南下したクナト族が阿波・越智族になったのだろうと考えていました。
しかし黒曜石を探ると、どうしても阿波に行き着いてしまい、それが僕に、阿波に裏王朝があったと思わせる根拠となっています。
黒曜石が重宝されたのは、日本に鉄が持ち込まれる以前のことでしょうから。
この辺はまだまだ考証が必要です。僕も阿波起源説や九州王朝説を支持するわけではありませんが、ただ確かにそう思わせるだけの、何かがあったのだろうということは感じています。
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narisawa110
記紀の目的は、東日本、恐らく関東にあった巨大な国家を隠蔽し、徐福系の王朝を正当とする目的で、西日本の豪族の思惑が一致したとも言えるような気がいたしますね。
東日本の王族が一人も出てきませんしね。故に、富士山が出てこないのかもしれない。
継体帝時代には、東日本(恐らく大彦)と越前(恐らく蘇我)で巨大な経済圏が作られたとも考えられており、その根拠が水晶の勾玉だったとう番組を見た事があります。
しかし、その前からそこに住んでる人たちがいて、同じ母系の文化で卑弥呼が居たんじゃないかと。故に信濃に道祖神(伎の神)が居るんじゃないかと。
クナト王国は元々関東にあったんじゃないかと考えています
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