諏訪大社 上社前宮:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 22

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さて、東出雲王家・富家の伝承から古代の日本を紐解く『雲ニ散ル花』シリーズですが、「愛瀰詩ノ王篇」シリーズでは東方のエミシ族を率いた王として大彦を中心に執筆してきました。
しかしもう一人このシリーズに欠かせない王がいます。
東出雲の八代目少名彦・事代主の息子の一人、「建御名方」です。
記紀神話では国譲りで敗れ、諏訪に逃げ込んだように悪意のある話に書き換えられていますが、彼こそは諏訪に第二の出雲王国を築いた英雄でした。
彼の築いた諏訪王国は、日本アルプスに囲まれた諏訪盆地のように懐の深い王国でした。
彼の王国があったからこそ、大彦も信濃で王家を建て直すことができたのです。
建御名方を祀る神社の筆頭が、この諏訪大社です。
富家伝承は建御名方のことについて、多くは語っていませんでした。
そこで当地に至れば、彼の足跡を辿れるのだと思い、僕は足を伸ばしたのです。
しかし、いざ諏訪に至ってみれば、思いのほか建御名方の存在感は希薄で、代わりにもうひとつの、諏訪の主の存在が浮かび上がってきました。
「ミシャクジ神」、そう呼ばれる神です。
当シリーズの後半は少しだけ、このミシャクジについて旅してみます。
しかしそれはおそらく、深い深淵の一端に過ぎないのです。
深い深い謎が、この諏訪の地には横たわっていました。

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諏訪大社上社の摂社の1つ「葛井神社」を訪ねました。

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境内に、ちょっと不思議な御神木があります。

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「千年欅」と呼ばれるそうですが、落雷や失火により、危険な部分を切り落とし、保存するに今の形となったようです。

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当社の祭神は「槻井泉神」(つきいずみのかみ)。
祭神の名にあるように、この神社の信仰の対象は、本殿に隣接する池となっています。

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この池は諏訪七不思議の1つ「葛井の清池」と呼ばれます。

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上社に、一年の最後に行われる「葛井の御手幣送り」(くずいのみてぐらおくり)という神事があります。

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大晦日に上社で使われた幣帛や榊などを、寅の刻に前宮御室の御燈を合図に池に投げ入れるというものです。
すると翌元日の卯の刻に遠江国の佐奈岐池(さなぎいけ)に、投げ込んだそれらが浮き上がってくると云われています。
この佐奈岐の池が、具体的にどこの池を指すかは分かっておりませんが、静岡県御前崎市佐倉の桜ヶ池を比定する説があります。
桜ヶ池に赤飯を詰めた櫃を沈めると、その櫃が諏訪湖に浮かび上がったと伝えられているとの話です。

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また葛井の清池は底なしとも伝えられ、池の主である片目の魚を捕ると祟りで死ぬとも云われています。

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さて、諏訪大社・上社前宮へやってきました。

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諏訪大社上社は、本宮と前宮に分かれます。

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前宮はさらに、二つの杜からなっています。

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参道に入ってすぐ右手に「溝上社」(みぞがみしゃ)という小さな祠がありました。
みそぎの池にあり、御射山へ向かい前に必ず参詣された社だと云います。

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その先は小高い丘になっています。

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この辺り一帯は「神原」(ごうばら)と呼ばれ、「神殿」(ごうどの)という大祝が住居した建物があったと伝わります。

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ニノ鳥居が見えてきました。

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御朱印と書かれた方向に社務所があります。
向かって左側の建物が現在も御頭祭が行われる「十間廊」です。

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往古は、前宮の地で全ての祭祀が執り行われていました。

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様々に執り行われた祭りの中でも、「御頭祭」(おんとうさい)は壮絶だったそうです。

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4月15日に行われる祭で、別名「酉の祭り」「大御立座神事」(おおみたてまししんじ)「大立増之御頭」などとも呼ばれるそうです。

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今は鹿や猪の頭の剥製が祭祀に使われているそうですが、江戸時代までは猪鹿の生首や、白い兎を松の棒に串刺しにしたもの、鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さったものなどが捧げられていました。

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更に、「禽獣の高盛」と呼ばれた、鹿の脳和え・生鹿・生兎・切兎・兎煎る・鹿の五臓などが供されたと云います。
また諏訪大社七不思議の1つとして生贄の鹿の中で、必ず耳が大きく裂けた鹿がいるという「耳裂鹿」というものが言い伝えられています。

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この「御頭祭」や「御射山祭」(みさやまさい)に見られる上社の狩猟神事は、南北朝時代の『神道集』「諏訪大明神秋山祭のこと」に記された、諏訪明神の「我は狩猟を好む」の言葉に端を発しています。

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つまり、ここでいう諏訪明神とは、タケミナカタのことではなく、狩猟民族の神「ミシャグチ」を示していることになります。

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神殿(ごうどの)の杜を抜けて、しばらく登り道を進むと、「前宮」が見えてきました。

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杜を囲むように、4本の御柱が立っています。

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前宮はかつて、上社本宮の摂社という位置付けでした。
しかし社・民挙げての声に、明治29年、諏訪の祭祀の発祥地としてその特殊性が認められ、諏訪神社上社の「本宮に対する前宮」と格付けされることになります。

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本宮の主祭神は「建御名方神」(たけみなかたのかみ)で、前宮はその妻「八坂刀売神」(やさかとめのかみ)となっています。

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しかしここで、ミシャグチ系の祭祀が行われていたことから、当地は元来、洩矢の祖神を祀った聖地だったのだと思われます。

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タケミナカタをはじめとする出雲人の祖先は、インドのドラビダ人でした。
インダス文明を築いた民族ドラビダ人は、母系家族制の農耕民族です。
母系家族制の特徴として、妻問婚制があり、おおらかな人種でした。
そこへ西北から戦闘的な牧畜民アーリア人が侵入してきて、多くのドラビダ人を奴隷化していきます。
この時、多くのドラビダ人は南方へ逃げましたが、クナ地方を支配していたクナト王は民を連れて北へと向かいました。
クナト王は他民族との衝突を避け、ゴビ砂漠、バイカル湖を通り、樺太から北海道、津軽へと上陸します。

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やがて彼らは出雲に辿り着き、そこに定住しました。
なぜならそこは、彼らの得意とする製鉄に向いた、良質な砂鉄が採れたからです。

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タケミナカタの父、事代主は、出雲王国の8代目副王であり、軍事も司っていました。
なので、息子も多少は気が荒かったかもしれません。
しかし元来彼らは、おおらかで争いを好まない民族性を持ち合わせていたのです。

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タケミナカタを見る上で、このおおらかさ、農耕民族、製鉄民族であったというところがポイントです。
諏訪大社上社の神宝に「佐奈伎鈴」(さなぎすず)と呼ばれる鉄鐸があります。

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鉄鐸とは字の通り、鉄で出来た銅鐸のようなものです。
御頭祭のなかで、大祝の代理となる神使(おこう)が巡行して、人々を集めて鉄鐸を鳴らし神事を行ったそうです。
銅鐸も出雲王国圏での重要な祭祀具であり、木に吊るして音を鳴らし、神事を行ったと伝えられています。
出雲人は幼虫から蝶へと変化する過程に神秘を感じ、サナギに似た神器を造り、木に吊るした銅鐸の姿から、それを「佐奈伎」(さなぎ)と呼びました。

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鉄鐸は間違いなく、タケミナカタらによって持ち込まれたものと思われます。

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当初の洩矢族は農耕を知らない、狩猟民族であったと推察できます。
タケミナカタらが諏訪に至った時、先住の洩矢族と争いになったと伝えられますが、タケミナカタ軍が勝利し、破れた洩矢族を迎え入れ、共に諏訪の開拓に勤しんだと伝えられていました。

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この時、タケミナカタは古来から続く洩矢の祭祀を保護したのではないでしょうか。

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今なお狩の祭事が続けられている諏訪大社・上社前宮こそ、古代から続く洩矢族の聖地であり、上社の根幹を成す場所であったのではないか。
それに対し、本宮は諏訪大社としての体裁を成すために、建前の上でタケミナカタを祀った、部外者向けの聖地であるように感じました。

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前宮の玉垣内に石垣で囲われた「八坂刀売命」(やさかとめのみこと)の墓と伝わる神跡があります。
この伝承が正しいとするなら、タケミナカタは洩矢の姫を娶ったのかもしれません。
しかし僕はこの時はまだ、洩矢族、ミシャクジ信仰の本質を十分に知らないでいたのです。
2年後、再び僕は、諏訪大社上社前宮を訪ねることになるのでした。

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8件のコメント 追加

  1. 宮比たいこ より:

    この銅鐸の鳴り方って、今も世界各地で演奏されているパーカッション楽器のカウベルみたいな感じですね!

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    1. CHIRICO より:

      宮比様、コメントありがとうございます♪
      なるほど、確かに音も形状もカウベルに似ていますね。
      ただ古代の銅鐸の音色は、もう少し違うものだったのではないかとも思っています。
      ロマンですね。

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      1. 宮比たいこ より:

        あ。「鉄鐸」でしたね😅 諏訪は鉄鐸がどんぴしゃり、問答無用にマッチする気がします。

        諏訪大社は下社だけ、行けました。下社春宮ではちょうどおつとめの時間で、境内に立っている参拝者を修祓してくださいました。下社秋宮の社務所にいらしたモリヤさんという方が御朱印を書いてくださり、御朱印帳の上では、続きが丹生川上神社下社になりました。

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  2. さいとう よしみ より:

    たびたび失礼申します。
    動画でお教えいただきありがとうございます。
    僕は、デジタルに弱い中年男性でありまして、動画の存在を知りませんでした。(ちょっと、かなり恥ずかしいです)
    銅鐸ランプや遮光土器(アラハバキ像?)ランプのような物を、趣味で作っており、鉄鐸、でありましょうか?ついつい、また投稿してしまいました。
    また美保神社様へ行かれるとのこと。最近まで美保神社さん拝殿の切り絵も、憧れて作ってましたもので、ちょっと羨ましい次第です。道中、お気をつけて行かれて下さい。

    もろもろありがとうございました。記して感謝申します。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      自作のランプ、すごいですね、見てみたいです♪
      美保神社の拝殿は、とても開放的で、港町らしい潮の香りを含んだ風が吹き抜けて僕も大好きです。
      今回は美保町に宿をとりましたので、のんびり過ごしたいと楽しみにしております。
      そのあとは年末から成人式にかけて、馬車馬のように働く日々が待っておりますが。。

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  3. さいとう よしみ より:

    たびたび失礼申します。

    思わぬところのブログの回で、出雲歴史の学びの復習を出来ました。また冒頭のやりとり会話(?)に、毎回、ほっとしながら読み進めさせていただいている次第です。

    銅鐸の音色、どんな音だったのだろう?。東北の南部鉄風鈴のような澄み切った音色に癒されたのだろうか?
    そんな空想はやみません。

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    1. CHIRICO より:

      こんにちは、さいとう様。
      つたない動画ですが、荒神谷遺跡の資料館にあった、レプリカの音色は聞けます。

      しかし当時の風景の中で流れる銅鐸の音色は、また違って聞こえたのではないかと、思いを馳せてしまいます。
      来週は島根半島の先端にある、出雲の美保神社で行われる諸手船神事を見に行く予定です!

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      1. 宮比たいこ より:

        初めて鳥取と島根に行ったのは冬で、雪の降り方や風に舞う様子にとても優しい情緒が感じられて、こんな日本があったんだ!と感動しました。

        きっと、当時の風景の中での銅鐸の音色は、沁み入るように拡がっていったにちがいありません😐🙂

        いいね: 1人

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