玉陵

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世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつ、「玉陵」(たまうどぅん)へ行ってきました。

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玉陵は「玉御殿」または「霊御殿」とも呼ばれる、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓です。
首里城のすぐ隣にあるのですが、こちらまで足を伸ばす人は、わりと少なめ。

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入口には玉陵への入場料を支払うための玉陵管理事務所がありますが、その奥は玉陵の資料館となっています。

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そこには納骨の壺などもあり、より深く玉陵を知ることができます。

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管理事務所から少し歩くと玉陵が見えてきます。

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玉陵外郭です。

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玉陵は第二次世界大戦で大きな被害をうけましたが、1974年から3年以上の歳月をかけ修復がなされ、往時の姿をとりもどしています。

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外郭内部に足を踏み入れると、広い空間があります。
その左手に小さな石碑。

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石碑には、玉陵内に被葬できる者としての資格が記されているそうです。
それによると有資格者とは

尚真王
おぎやか(尚円王の妃、尚真王の母)
聞得大君・音智殿茂金(尚真王の妹)
佐司笠按司・真鍋樽(尚真王の長女)
尚清王(尚真王の五男・世子)
尚韶威・今帰仁王子朝典(尚真王の三男)
尚龍徳・越来王子朝福(尚真王の四男)
尚享仁・金武王子(尚真王の六男)
尚源道・豊見城王子(尚真王の七男)

の子孫だとされていますが、そこに尚真王の長男と次男の名はありません。

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これは王室内部の根深い対立があったことを窺わせますが、実際は尚真王死後、石碑の内容は守られなかったようです。

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では最後の石門をくぐり、

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玉陵内郭へ入ります。

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そこは、白い珊瑚の砂が敷き詰められた、威風さえ感じさせる、石造りの陵墓が建っていました。

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陵墓は向かって左から東室、中室、西室のに分かれた構造になっています。

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王家の葬儀の後、遺骸はまず中室に運ばれます。
そこで遺骸は骨になるまで放置され、数年後に骨を取り出して洗骨し、後に骨壺に収められたそうです。

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壺に収められた遺骨は、王及びその妃のものは東室に納められ、

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他の王族は西室に納められました。
玉陵最後の被葬者は1931年尚家29代目「尚典」の妻「野嵩按司加那志」妃となっています。

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よく見ると、とても緻密な彫り物やシーサーがあちこちに見受けられます。

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琉球王家の葬儀が風葬であったとは驚きでした。
その方法は、どことなく出雲王家の葬儀と重なります。

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実は中城城跡内に「シライ富の御イベ」という拝所があったり、八重瀬町には「富盛の石彫大獅子」という最古のシーサーがあったり、「富」というキーワードが出てきて焦っています。

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よもや出雲の富家が沖縄まで進出していた、ということはないのでしょうが。

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玉陵外郭の石門から出たところに「東の御番所」(あがりのうばんじゅ)という建物があります。

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法事などの際、国王などの控室として利用されていた建物だそうですが、古い写真などが展示されていました。

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4件のコメント 追加

  1. 風葬…初めて聞きました。
    ということは、出雲王家とつながり??

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      そうなんですよね。
      シャーマンが王よりも地位が高いところとか、何気に共通点があるんです。
      誰か富氏に尋ねてくれないですかね!?

      いいね: 1人

  2. 創生塾 より:

    偲フ花様
    「琉球王家の葬儀が風葬であったとは驚きでした。」… 私もです。
    そしてまた、出雲王家の葬儀も火葬ではなかったとは… 。
    私は、日本では、明治六年に起きた廃仏毀釈の短期間を除き火葬が文例であると思っていました。
    今回も良い記事、良い写真をありがとうございました。

    いいね

    1. CHIRICO より:

      出雲族は風葬でした。
      彼らにとって魂の抜けた遺骸は穢れでしたので、王家の者は決して触れることはなかったと言います。
      やがて渡来した秦族は蓬莱信仰があり、死した肉体に再び魂が宿るという考えがありましたので、甕棺に遺骸を丁重に入れ、土葬しました。
      その後、古墳時代が来るのですが、出雲族は穂日族(現出雲臣家)に古墳を作ることを許さず、彼らは水葬としたそうです。
      なので出雲に穂日家の古墳は一基も存在しないということです。

      いいね

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