熊野速玉大社:八雲ニ散ル花 木ノ国篇 07

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和歌山県新宮市にある熊野三山の一つ、「熊野速玉大社」(くまのはやたまたいしゃ)へやってきました。

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紀ノ川河口の上陸作戦が失敗に終わった物部軍は、再び船に乗り紀伊半島を周回して熊野灘に至ります。
そして再上陸を果たしたのが当地であると、古代出雲王家「富家」に伝わる伝承に記されていました。

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熊野速玉大社の鎮座地を見ると、往古には熊野川の河口付近だったことが推察できます。
このまま熊野川を遡ると、「熊野本宮大社」と「大斎原」へ行き着きます。

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参道に足を運ぶと、熊野速玉大社の境内は心地よい杜の空気が満たされていました。

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境内に入ってすぐ右手に、摂社の「手力男神社」(たじからおじんじゃ)と「八咫烏神社」(やたがらすじんじゃ)が鎮座しています。

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紀ノ川でおびただしい数の磯城・大和王国の軍勢と対峙した物部軍は、船に退避し、体勢を立て直すべく紀伊半島を回って当地に上陸しました。
しかし、まだ大和王国に勝てる見込みはないと考えたウマシマジらは、三輪山に使者を送り、登美家に助力を願い出ます。
この時の登美家当主が後に「八咫烏」と呼ばれるようになりました。

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境内に大きな御神木の「梛」(ナギ)の木があります。
高さ20m、幹周り6m、推定樹齢1,000年といわれており、梛としては国内最大であるとされています。

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梛は凪に通じること、またその葉が横に切れないことなどから護符としての意味を持ち、全国の熊野系神社の神紋などにも使用されています。

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神門の手前まで来ました。

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立派な手水舎の奥に、

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稲荷社が鎮座しています。
稲荷信仰も物部氏らが広めたと云います。

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心静かに、神門を潜ります。

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広がる神域。

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鈴門と呼ばれる拝門と玉垣の奥には、5つの社殿が立ち並びます。

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社殿は右から「八社殿」「上三殿」「奧御前三神殿」、それと本殿「速玉宮」「結宮」が連なりますが、先の三社には物部系の神々と「高倉下命」が祀られています。
高倉下は記紀神話において、神武天皇の危機に夢で見た神託により、霊剣布都御魂をもたらした人物であるとされています。
しかし高倉下のいた時代と物部東征は時代が合わず、しかも高倉下の子孫が射た毒矢で、物部のリーダー「五瀬」は死亡したというのが事実のようです。

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玉垣が続く左手に拝殿があり、その奥にある二つの社殿が、当社の主祭神を祀る本殿となります。

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二つの社殿、第一本社は「結宮」(むすびのみや)といい、「熊野結(夫須美)大神」(クマノムスビノオオカミ)を、第二本社は「速玉宮」(はやたまぐう)といい、「熊野速玉大神」(クマノハヤタマノオオカミ)を祀っています。

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当社が伝えるところによると、熊野速玉大神は「伊邪那岐神」とされ、この神の名から社名がつけられたとしています。
また熊野夫須美大神は「伊邪那美神」とされ、つまり当社は国生みの夫婦神を祀る神社であると位置付けてあります。
この二神は、もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったと云われています。
神倉山にあった元宮に対して、現在の社殿を「新宮」とも呼ぶのは、これが由来となっています。

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同じ熊野三山のひとつ「熊野本宮大社」では、同じ神名の熊野速玉大神が祀られていますが、こちらは日本書紀に登場する「速玉之男」(はやたまのを)のことであるとしています。
富王家に伝わる話では、この「速玉之男」とは物部の大祖「饒速日」(ニギハヤヒ=徐福)の変名であり、「速」の字が両者共通になっていると云います。

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後世に、物部勢は熊野を中心に定住するようになり、紀伊国や、志摩国方面にもその勢力を広げました。
そのことが認められて、後に物部氏が熊野国造に任命されています。
当社では「穂積忍麻呂」が初めて禰宜に任じられてからは、「穂積氏」(藤白鈴木氏)が代々神職を務めてきました。
彼らの系譜を見ると、穂積氏は物部の末裔であることが伺えます。

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神域に祀られる摂社のひとつに「恵比寿社」があります。
祭神は事代主。
主祭神のもう一柱「夫須美大神」は富氏曰く、出雲の「サイノカミの女神」のことであり、「伏す身」が別の字になり、子宝の神とされていたと云います。

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当地は本来、出雲族が定住していた地域であり、元宮とされる「神倉神社」では彼らの祭祀の痕跡を確認しました。
つまりここに熊野速玉大社を建てた人物は、物部の祖神と出雲の祖神を合わせ祀ったということです。
熊野速玉大神を伊邪那岐神としたのは、出雲族に敬意を払って、ということなのかもしれません。

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ウマシマジ率いる物部軍は、熊野川沿岸に上陸しました。
その後の物部軍の道程は、決して安泰ではありませんでした。
彼らは敵から、夜討ち朝攻めのゲリラ攻撃を受けたと云います。

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一方、フトニ大王の欲深さから生まれた大和政権分裂に困惑していた登美家当主は、この混乱を収め得る方法を模索していました。
そこに届いた物部の使者、彼は次に大和を統一できるのは彼らであると考えました。
そこで登美家は物部勢を奈良地方に導き入れて共同の政権を作ることを使者を通じて約束させ、登美家当主の一行は熊野へ向かう準備を始めるのでした。

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