大いなる大地、「阿蘇谷」。
そこに線路を引き、農耕を行い暮らす人々の苦労と努力が偲ばれます。
阿蘇谷のふもとにある「灰塚」は、かつて健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇の外輪山を蹴破った時、湖水が流れ出るのを邪魔したという大ナマズを倒して焼いた場所と云います。
灰塚を始めとするこの辺りの丘陵は、沼だったところが噴火で隆起したものだそうです。
同じく阿蘇谷の麓に「的石」という神跡があります。
健磐龍命が矢を放ち、的にしているうちにひっくり返ったと云われています。
健磐龍は毎日、往生岳に腰掛け、7キロ離れたこの的石まで矢を放ち、弓の稽古をしていたそうです。
そのお供を命じられたのが「鬼八」(きはち)という従者(法師)でした。
鬼八は足が早く「走健」(はしりたける)と呼ばれていました。
健磐龍は、鬼八に矢を拾ってくる仕事を言いつけます。
鬼八は自慢の足で阿蘇谷をひとまたぎ、的石めがけて矢のように走り、また命の元へ戻ってきます。
命は続けざまに99本、矢を放ち、そのたびに、鬼八は走ってその矢を拾い帰りました。
くたびれ果てた鬼八は、100本目の矢が放たれた時、これを足の指に挟んで投げ返します。
すると運の悪いことに、矢は、命の太股に突き刺さってしまったのです。
この不届きに腹を立てた健磐龍は、鬼八を成敗するべく追いかけます。
鬼八は、阿蘇谷中を逃げ回りますが、とうとう捕まり首を落とされました。
しかし鬼八の首は元通りにくっついてしまい、腕を切っても足を切っても、再びくっついて蘇ります。
困った命は、鬼八の亡骸をばらばらに分けて埋めました。
鬼八は「阿蘇谷に霜を降らし、この怨みを晴らしてやる」と言い残し、それ以来蘇ることはなかったと云います。
阿蘇の中頃、役犬原(やくいんばる)というところに「霜宮神社」(しもみやじんじゃ / 霜神社)があります。
のどかな田園の中に、すっと伸びる参道が印象的です。
さて、呪いを残した鬼八の遺体は、寒さが迫ってくと傷が痛み、霜を降らすようになりました。
阿蘇谷の稲の穂が実る頃に霜がおそってくるようになり、作物は枯れ果てます。
そこで鬼八の御神体を暖めるために、霜の宮で火を炊き続け、鬼八の霊を慰めるようになりました。
高千穂の鬼八伝説でも、三毛入野が鬼八の体を切り分けて別々に埋めたと云います。
その場所は高千穂内の「首塚」「胴塚」「手足塚」の3ヶ所であると今も言い伝えられていますが、別の伝承では、
「一所は肥後国にあり、半身が埋められた所(霜の宮)で霜の祭を行っている。
13以下の娘が竈を取り、8月から9月に及ぶまで毎夜塚に火を焚く。
この祭りに仕える女児に村民が霜が遅い時には稲数束、霜が早く降りる時には藁数束を与える。」
とあり、この霜宮神社で行われる「火焚き神事」を伝えています。
これは高千穂と阿蘇に伝わる鬼八の伝承が、元は一つの事象であったことを表しています。
当社の祭神は「天津神」(あまつかみ)とありますが、一説には「北斗信仰の神」であるとも云われています。
同時に、この本殿の中には、鬼八の御神体も眠っています。
秦氏の星神と土着の鬼八が、一緒に祀られているのです。
火焚き神事が始まるころ、鬼八の御神体はこの神輿に乗り、「火焚殿」へと遷座します。
火焚殿は霜宮神社の境内を一旦出て、少し歩いたところにありました。
「火焚き神事」は竹原、上役犬原、下役犬原の三つの集落から選ばれた幼い火焚き乙女が火焚殿に籠って、約60日間火を焚き続け霜除けの祈願をするという神事です。
その間、火焚き乙女は一歩も外には出ていけないという決まりがあり、昔は学校にも行かず、先生が出張して授業をしていたと云います。
食事の世話などは付き添いのお婆さんが行います。
さすがに現代では火焚き乙女が籠りっきりということはないようで、要所で祭祀に関わり、他の日は村の人が交代で火の番をするようです。
火焚殿の前にある「御手洗水神」です。
この前に流れ出る御神水で目を洗うと、眼病に効くと言い伝えられています。
祠の中には、いくつかの人形が祀られていました。
火焚き神事に備えてのことでしょうか、ここは水気が多いように感じます。
いざ火事になっても、対処しやすい場所にありました。
真新しい火焚殿。
実は平成21年に火焚殿で火事があり、全焼してしまったとのことです。
となりには「神楽殿」。
中ではしめ縄が用意されています。
今はひと気がありませんが、神事が始まると、にぎやかになるのでしょう。
水神前の木の根元に蛟が絡むように根が絡まっていたのが、気になりました。
高千穂の鬼八伝説では、三毛入野が荒ぶり悪行を重ねる鬼八を成敗し、救い出した鵜目姫と結婚したと伝えます。
ところが実は、高千穂の「興梠」という姓の一族に次のような話が伝わっていました。
鬼八は山野を自在に馳け回って狩りをする異族の首魁で、「走健」(はしりたける)と呼ばれていました。
鬼八は、妻と子供と共に海の向こうからやってきて、高千穂の地に住み着きます。
鬼八たちは野山の草花から薬を作ることが出来たので、村の者から頼られ、慕われるようになり、やがて、鬼八は村の長になりました。
鬼八の妻は「阿佐羅姫」、またの名を「鵜目姫」といい、目の大きな美人でした。
ある日、高千穂に大和の皇子を名乗る男たちがやってきました。
鬼八の妻に心を奪われた皇子は、鵜目姫を自分のものにしようと考えます。
そこで皇子は、親睦のためと鬼八を騙し、酒に酔わせて殺してしまいます。
そして略奪が始まり、鬼八の妻は断崖の洞窟に身を潜めるも、捕まって慰みものになるのを恥じて自害しました。
鬼八の子らは何度も抵抗し争い続けますが、やがて恭順させられていったと云います。
以後、鬼八の祟りを鎮めるため、高千穂では乙女を捧げ、阿蘇では乙女が鎮魂の儀式を紡いできました。
山都の幣立神社は高千穂にほど近いところにあり、また阿蘇に向かって異様な沼地跡の前面に結界として建てられていることから、
今のような「竹内文書」の偽伝承を基にした偽の祭祀ではなく、本来は何某かの鎮魂のための祭祀が執り行われていたはずです。
幣立神社奥の陵墓は非業の死を遂げたまつろわぬ民達の陵墓かもしれません。
太古の真実を知ることは難しいことですが、これほど根深い鎮魂の儀式が伝わってきた背景には、相応の哀しい歴史があったということでしょう。
ここにも滅びゆく者達を見届ける伝承が残されていました。