武内大田根は足元に転がる蝉の死骸を眺めていた。
蝉は一生のうち、最後の数日にありったけの生を放ち、そして死んでいくのだという。
「私は蝉だ」
彼はこれまでの人生を振り返り、僅かに掴んだ栄華の果てに、終焉を迎えつつあるのだと感じていた。
大田根は紀伊国の祖・高倉下の血を引いていた。それはつまり、出雲王家と海部家の正当なる血筋であることを示していた。
野心家である彼は、次は日向の豊玉女帝の時代であると考え、彼女に奉仕し、片腕と呼ばれるほどまでになった。
その豊玉姫こそ親魏和王の女王・卑弥呼であった。
しかし大田根は女帝に裏切られた。豊玉姫は自分の息子であるイクメ皇子や豊彦より才に長ける大田根を認めるわけにはいかなかった。
大田根が魏国へ使者として渡った時、彼は期待していた率善中郎将の位も銀印も貰えなかった。
彼より位が低い田道間守や物部十千根がそれぞれ率善中郎将、率善校尉の位を得ているにもかかわらずだ。
これは豊玉姫がイクメと謀り、詔書に武内大田根に位と印を与える旨を書かなかったからであった。
大田根は豊王家を見限り、大和に移って魏国で入手した銅鏡と工人を使って、大和オリジナルの銅鏡の製作を行った。
彼が作り上げた銅鏡こそ、卑弥呼の鏡と誤って考えられている三角縁神獣鏡である。
大田根の銅鏡制作が軌道に乗り、これからひと財産築こうとしたその時、イクメらが大和を攻めてきた。
この大戦に敗れた大和の大君・彦道主は稲葉へ逃れ、彦多都彦と名を変え稲葉国造になった。大田根は彦多都彦に従って稲葉国に行き、稲葉山の麓の宇倍山に住んでいた。
宇倍山の郷は素朴で長閑な場所であった。
賑わいはなく、最初こそ都を追われた虚しさが大田根を襲ったが、里人のあたたかさに救われて彼はひとときの安らぎを得ていた。
その矢先、大田根の元に一人の使者がやってきた。
使者は彦多都彦の娘でイクメの后となったヒバス姫からであった。
彼女の文には、イクメ大君が武内大田根を暗殺するための刺客を差し向けたとあった。
「私もお前のように、散々鳴いた後には死するのみか」
蝉の死骸を前に佇む大田根に、傍から家臣が声をかけた。
「大田根様、まだ諦めてはなりませぬ。東出雲の旧王家・富家が匿うとおっしゃっておられます。大和はまだまだ動乱が続きましょう。あなた様のお力が、この先も必要なのです」
大田根は家臣を見た。十分な禄も与えられず身なりは見窄らしいものであったが、その瞳は力強い光を湛えている。
この男の心は宇倍山の大樹のように、真っ直ぐに天に聳えているようではないか。それに比べ自分の何と弱気なことか。
いや、我こそは武内大田根、日向と大和、それに魏国にまで股にかけた男ではないか、
「うむ、其方の言う通りじゃ。お主とともにもうひと花咲かせずして何とする。まずは生き抜くことが先決じゃ」
「はっ、すぐに出立できるよう、準備を整えております」
「わかった、私も身一つ、もはや他に何もいるまい。このまま出雲へ向かおうぞ」
われ死に場はここにあらず。武内大田根は沓も脱ぎ捨て、家臣の用意した草鞋に履き替え、宇倍山に深く頭を垂れた。
「お世話になりました」
そして踏み出した彼の背後では再び、蝉が一斉に声を響き渡らせるのであった。
鳥取市国府町、鳥取の中心地の南東に位置する因幡国一宮「宇倍神社」(うべじんじゃ)を訪ねました。
かねてより一度参拝したいと思っていた場所です。
当地は地名にもあるように、因幡国の国府があったところ。
山陰の辺境ではありますが、往古からそれなりに栄えていたものと思われます。
境内の入り口に「亀金池」なるものがありました。
祭神の武内宿禰命(たけしうちすくね/たけうちすくね)は360余歳の長寿であったとされ、亀のように長寿であったこと、また日本の紙幣の図案となったことから金運・財宝の神とされることなどが由来の池でしょう。
小さな池ですが、風流です。
参道を左に折れると、二ノ鳥居がありました。
その先の杜の清々しいこと。
立派な神社ですが衰退著しい時期もあり、天正9年(1581年)の羽柴秀吉の鳥取城攻めでは社殿全てが灰燼となり、神職も離散したのだと云います。
その後、江戸時代初期の寛永10年(1633年)、鳥取藩主池田光仲の社領25石の寄進を受けて社殿も復興し、歴代藩主の崇敬を受けて今に至ります。
創建は大化4年(648年)と伝えられ、祖神を祀った伊福部氏の居住した場所に社を建てたとしています。
この伊福部氏の祖神が武内宿禰なのかというと微妙なところで、『因幡国伊福部臣古志』によると、氏は大己貴命の神裔を称し、第8世を櫛玉神饒速日命とするなどの混乱が見受けられます。
『神祇志料』は祭神を「彦多都彦命」(ひこたつひこのみこと)としますが、彦多都彦とは磯城・大和王朝の最後の大君「彦道主」のことで、彼は因幡に逃れて因幡国造の地位に就きました。
伊福部氏の祖神とは彦道主帝であり、後に当地に居住した武内大田根を祀ったというのが真相でしょう。
武内宿禰といわれる人物は360年生きたとされますが、そのような人間がいるわけもなく、これは単に数代の武内氏を充てているに過ぎません。
武内宿禰として有名なのは、神功皇后のパートナーであった武内襲津彦(たけしうちそつひこ)ですが、当社の祭神にあたるのは彼の3代前の武内大田根(たけしうちおおたね)になります。
ちなみに宿禰(すくね)とは物部王朝の臣下に与えられる称号であり、臣(おみ)は出雲王家の親族に与えられる称号でした。
当初は宿禰を冠した大田根ですが、後に出雲に逃れ、富家の姫を娶ってからは武内臣を冠します。
宇倍神社の社殿は創建以降たびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建によるものです。
またFacebookで知り合った”こなだ”さんの話では、「ゴジラ」の作曲家として知られる伊福部昭氏はオオクニヌシのご子孫で、先祖の地で眠りたいとの希望で宇倍神社の裏山に眠っておられるとのこと。
本殿の左手に、亀金山に登る階段があります。
山といってもそこは社殿裏の岡のようなもので、そこに「双履石」(そうりせき)という磐座があります。
伝承によれば、仁徳天皇55年、360余歳の武内宿禰がここに双履を残して行方知れずになったと云うことです。
その武内宿禰が残した双履が岩になったものであると伝えられる磐座ですが、実際は直径14mの円墳の石室の一部であり、1942年(昭和17年)の土砂崩れで墳丘の一部が損壊するとともに竪穴式石室が露出して副葬品が出土しました。
副葬品としては銅鏡・鉄剣・玉類・鉄鏃等の鉄製品が検出されており、築造時期は古墳時代中期の5世紀前半頃と推定されています。
宇倍山を抜け出した武内大田根は、向家(富家)を頼って東出雲へ向かいました。
向家は領地の松江市八幡町に家を建てて、武内をかくまいました。
武内大田根の住居跡には、今は武内神社が建てられています。
大田根はそこで向家の姫を後妻に迎えました。
その後、武内臣大田根は八幡町で亡くなり、弟の甘美内臣が加茂の神原に出雲式の方墳を築き彼を埋葬しました。
古墳の上には武内神社が建てられましたが、後に神原神社と名が変わっています。
宇倍神社本殿の左奥に国府神社があります。
祭神は建御雷神・日本武尊・速佐須良比咩神・武内宿禰命・伊弉諾尊・菊理姫命・土御祖神・奧津彦命・奧津姫命・宇迦之御魂命の10柱。
本来は宮下神社といい建御雷神と宇迦之御魂命を祀っていたが、大正7年に付近の6社を合祀し現社名に改称したと伝えられます。
この国分神社をぜひ訪ねるようにと勧めてくださったのは、Facebookで知り合った”わたなべ”さんでした。
両脇に掛けられた、黒地に白い菊の紋の入ったぼんぼりに何か意味があるのか、と疑問を投げかけられていました。
意図して黒く塗られたぼんぼり、異様です。
しかしネット上で見かけた古い国分神社の写真ではぼんぼりは普通に白いもので、近年黒く塗られた可能性があります。
僕は宇倍神社を訪れて、本社よりも双履石よりも、この国府神社の存在が最も気になりました。
当初の祭神とされる建御雷神は藤原氏の神で、宇迦之御魂命は秦氏系の神です。
これらの神々も、後に上書きされた神であり、当地に祀られていたのは本来別の神だったのではないでしょうか。
古代の因幡は出雲領でした。
因幡に赴いた武内大田根はこの国府神社の場所に住み、出雲の神を祭祀したのではなかったか。
国府神社の本殿の下には、それを思わせるものがそっと置かれていたのでした。
武内大田根が暗殺を逃れ、富家の姫が彼の子を産み育てたことは日本史に大きな意味を残しました。
彼の子孫、武内襲津彦は大水軍の総指揮者となり、神功皇后を助け、二韓征服を達成しました。
平群都久は、平群王朝の創始者となりました。
越前国三国(福井県)に移住した蘇我石河は三国国造家の当主になって勢力を強めていき、やがて偉大な大君を輩出するのです。
以後蘇我家は、先祖の武内大田根を富家が助けたことに感謝して、その後も富家を大事に扱ってくれたと伝えられていました。
お邪魔しまーす。
万葉集では〝宇倍〟表記を現代語の〝上〟の意味で使っているものがあります。(写本によっては表記が違うかもしれません。)
例『万葉集』3609
〔原文〕武庫能宇美能 尓波余久安良之 伊射里須流 安麻能都里船 奈美能宇倍由見由
〔読み〕むこのうみの にはよくあらし いざりする あまのつりぶね なみのうへゆみゆ
〔訳文〕武庫の海の 庭よくあらし 漁りする 海人の釣舟 浪の上ゆ見ゆ
よって〝宇倍〟神社は〝上〟神社と見ることも出来るかと思います。
ここからは音韻の話になりますが、奈良時代以前から江戸時代までに、ハ行子音は語中では[p→φ→w]と変化していると言うのが通説です。(ハ行転呼)
〝宇倍〟〝上〟は「ウペ→ウフェ→ウヱ」と読みが変化したことになります。
〝上〟を「ウエ」と読むのはこれ。
一方言語学の方で、無声閉鎖音[p]は 無声摩擦音[ f ]から 有声摩擦音[ ß]を経て有声閉鎖音[b]に変化する、というのがあります。(グリムの法則とヴェルネルの法則の接続)
これで行くと、〝宇倍〟〝上〟は「ウペ→ウフェ→ウべ」と読みが変化したことになります。
〝宇倍〟を「うべ」と読むのはこれではないかと思います。
明治になって標準語が作られる前は、その土地その土地の発音があり、ハ行転呼の原則に則らない言葉があったのかも?なんて。
上代の〝へ〟はハ行転呼以外にも考えなければならないことがありますので、全く見当違いかもしれません。
詳しくは〝上代特殊仮名遣い〟あたりで検索していただくといろいろ出てくると思います。
失礼しました。
いいねいいね: 1人
いや、ありがとうございます!
ウィキ先生がおっしゃる「古代に清音で「うへ」神社と呼ばれたが、語義は不明。境内社の国府神社に合祀された「上神社」に由来するとする説もある。」の真実性が増しましたね♪
国府神社に合祀された神社に上神社があり、祭神はタケミカヅチのようです。
タケミカヅチは登美家の当主の一人ですが、ここでは藤原氏の祭神の方の意味合いが強いと思います。
つまり古事記以降、藤原による何らかの圧力がかかったか、または藤原氏に社家が忖度したか、そんな感じではないでしょうか。
宇部神社は上神社であるとして、その前の別の真の社名があったのかもしれません。
近くには曳田一族の勢力地があり、因幡の素兎で有名な大国主の妃・八上姫の出生地になります。
つまり因幡の中でも出雲族と強いつながりがある土地なので、本来は出雲神を祀っていたのではないでしょうか。
いいねいいね: 1人
いつも興味深い記事をありがとうございます。音からの連想。宇部というと山口の工業地帯の宇部興産を先に思い浮かべました、山口の方はムベという植物に由来するらしいです。宇倍神社とはたぶん別物ですよね?大化の改新前から千葉では部民があちこちで開発して居ました。千葉には部のつく変わった地名がたくさん残っています。ナニナニ部と聞くとそっちも想像したりしました。また、海部うんべも想像したり。先生教えてくださーい。
いいねいいね: 1人
僕も宇部といえば山口の宇部を連想していました。
何故宇倍なのか、気になりますね。
宇倍山に建てたから宇倍神社なのか、宇倍神社を建てたから宇倍山なのか。
「古代に清音で「うへ」神社と呼ばれたが、語義は不明。境内社の国府神社に合祀された「上神社」に由来するとする説もある。」とウィキペディア先生はおっしゃってます。
合祀された上神社の祭神はタケミカヅチだったそうです。古事記編纂の時代、藤原氏に忖度して上神社と名乗ったのか。
海部=うんべ説も面白いですね、案外それが真相かもしれません。
いいねいいね: 1人
私の変な質問にご返答誠にありがとうございます。私も記紀より前のことが知りたいです。また面白い記事を期待しています。
いいねいいね: 1人
いえいえ、僕もなんで宇倍なんだと気になっていました。地名などは古を知る重要な手がかりですから。
まだストックネタはかなりありますが、いい加減旅にでたいですー。
いいねいいね: 1人