「神原神社」(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社で、元は武内大田根の古墳の上にあったと云います。
昭和47年、赤川の堤防修繕のために神原神社を調査すると、竪穴式石室をもつ4世紀中頃の1辺約30mの方墳が見つかりました。
現在の社殿は昭和47年(1972年)に遷移されたものです。
祭神は「大国主神」「磐筒男命」「磐筒女命」。
イクメ王に追われた武内大田根、いわゆる武内宿禰を出雲の富家は匿いました。
そして大田根は富家の娘を嫁に貰い受けたので、出雲王家と血縁ができます。
以後大田根は出雲王家の血筋のみが名乗る「臣」の称号を得て、武内臣大田根と呼ばれます。
武内大田根の弟「甘美内宿祢」(ウマシウチ)は、母の実家である尾張連に縁がある宇治を地盤にしていました。
かれは都万から帰った後も近江国額田にも勢力を広め、額田宿祢と名前を変えて、物部王朝の重臣になっていました。
兄の武内臣大田根が、出雲に隠れ住んでいるのを知り、額田宿祢は息子の一人を出雲に送りだしました。
彼は富家の領地である大原郡の加茂町の土地を貰って住んだので、その宇治から来た人々が住んだ村は、宇治という地名となり、近くの川は宇治川と呼ばれるようになりました。
額田宿祢の息子は富家から姫を貰ったので、大田根と同じく額田臣を名乗るようになります。
彼の子孫は、大原郡に住み続け、額田部臣を名乗ったと云います。
武内臣大田根は、八幡町の家で没しました。
額田部臣は、加茂の神原に武内臣大田根を埋葬して出雲式の方墳を築きました。
その場所が当地、神原神社であったと云うことです。
元は武内神社と呼ばれていましたが、今は神原神社境内に小さな祠としてあり、摂社となっています。
神原神社の横の小高い場所に、武内臣大田根のものという古墳がありました。
そこには石室が再現されています。
石室内から景初3年銘の三角縁神獣鏡1面、鉄製品(素環頭太刀1、木装太刀1、剣1、槍1、鉄鏃36、鍬1、鎌1、斧1、など)が出土しました。
また、墓壙内の埋納壙に赤色顔料の付着した壺(広口壺2、中形壺2、小形壺1)が置かれていたそうです。
この古墳は武内大田根の弟の息子が造らせたということですが、その際に、大田根が大切に所持していた「三角縁神獣鏡」を埋葬したようです。
ところが、この鏡には「景初三年」の銘文が彫られていたので、大きな騒動となりました。
景初三年とは魏国の年号であり、『魏書』に卑弥呼が魏王から100枚の鏡を貰い受けたと書かれた年代だったのです。
つまりこの三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であると学会で発表されたのです。
ですが三角縁神獣鏡は、実際には日本製であり、埋葬されていたそれは武内大田根が作らせ、自分が魏国に行った記念に、その年号を彫らせたというのが真実のようです。
三角縁は少ない銅で丈夫な鏡を作る、日本人の知恵が生み出したもので、中国には存在しないそうです。
しかも全国に三角縁神獣鏡は100枚以上、かなりの枚数見つかっているのです。
武内大田根のお茶目心が、現代にとんでもない騒動を巻き起こしたわけですが、魏国で苦い思いをした大田根は、あの世からその騒動をほくそ笑みながら眺めていたのかも知れません。
我々の地元、淡路島の洲本市には物部郷と加茂郷が接してあり、
加茂地区には上加茂神社、と加茂神社(下加茂神社)が一キロほど隔てて上下の加茂社が並立する希有な場所。
(元は上加茂神社(延喜式内社)だけだったところ、江戸時代に水利争いがあり地区が上下に分離、神社も下加茂に創建させたらしい。)
下加茂神社の後背の高台、山地は、下加茂古墳群があり、また、巨大な磐坐が複数鎮座しています。
その古墳群の一つから三角縁神獣鏡が出ましたです。
下加茂神社(鴨御祖神社と八幡宮が並立。)は高台の磐坐の遥拝、拝礼所が元義だとは管掌なさる八幡宮の宮司さまのお話です。
神社の場所は弥生時代の住居跡が複数発見されました。
また、島内で最大級の古墳(私学敷地内)も、
いいねいいね: 1人
たぬきさんは、淡路島のご出身でしたか。
あ、なるほど、だから「たぬき」なのですか?
芝右衛門狸でしたっけ。
四国・淡路に伝わるたぬきの伝承って、古代の王家や豪族のことだったりするのかもしれませんね。
淡路島といえば「おのころ島」の伝承と、伊弉諾神宮が気になり、いつか訪ねようと思いつつ、まだ足を運べていない場所です。
ぜひ、僕の旅の行程に、両加茂社を加えたいと思います。
それにしても物部郷もあるとは。
Googleマップで見てみると、大歳神社が数多く鎮座しているのも面白いですね。
思い切って今年中に訪ねてみましょうか、すごく行ってみたくなりました。
いいねいいね