武内神社:八雲ニ散ル花 59

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武内大田根はツイてなかった。
元は物部・豊連合王国の重鎮だったが、魏国で望んだ位を得られず、そしてそれが豊玉姫とイクメ王の嫉妬によるものと知ってしまった。
それで大田根は鞍替えし、大和の彦道主大王に加勢することにした。

当初は優勢で、勝機も見えていたが、やがてやって来た豊王国軍により、彼らは追われるところとなった。

彦道主王は因幡国で「彦多都彦」と名を変え、因幡国造となった。
大田根は彦多都彦を守るために従って因幡国に行き、宇倍山に住んでいた。
そこにイクメ大王が武内大田根に暗殺者を差し向けたとの知らせが、ヒバス姫からあった。
大田根は、取るものも取りあえず、西に逃げた。

武内大田根が頼ったのは、東出雲の旧王家「富家」だった。
富家は領地である松江市八幡町に屋敷を建てて、大田根を匿った。

「大田根殿、気分はいかがか。」

富家の当主が屋敷にやって来て話しかけた。

「はい、お陰様で平穏な日々を送っております。」

そう答えた大田根であったが、笑顔もなく、どこか焦燥していた。
全くツイてない。
一時期は三角縁神獣鏡も大量に製作し、それを配ることで大和での地位と豪華な暮らしも得ていた。
才覚に自信はあったが、今の自分は哀れなものだった。

「大田根殿、嫁をもらうつもりはないだろうか。」

当主はそんな大田彦の顔を伺い、そう言ってきた。

「儂の娘を嫁にもらってくれんかの。我が富家は今は一豪族に過ぎんが、それでもかつての出雲王家としての資産もある。お主と富家の血が交われば、この国に大きな力を産み出すことができるような気がしての。」

大田根は少し考え込んだ。
考え込んではみてみたが、彼にはもう、失うものなどないことに気がついた。

「ぜひ、その申し出を受けさせていただきたい。」

頭を下げた大田根の体に、爽やかな出雲の風が吹き抜けていた。

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武内宿祢・大田根の出雲の住居跡には、今は「武内神社」が建てられています。
それは松江市の「平濱八幡宮」の境内にありました。

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八幡宮といえば、祭神は応神天皇などになるのですが、神功皇后ファミリーと武内宿禰は深い関係なので、同じ境内に祀ってあるのでしょう。
しかし神功皇后に関わった武内宿禰とは「武内襲津彦」のことであり、当社に祀られる「武内大田根」とは数代違っていて時代が合わないのです。

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宿禰とは物部家の重鎮に与えられる称号で、個人名ではないのです。
和国が魏の属国だったことを隠したい、魏書に書かれたヒミコを神功皇后だと思わせたい、そんな思惑があった記紀の編纂者は、3世紀から5世紀までの武内宿禰と呼ばれる人を一人の人に仕立て上げ、150年近くも生き、5人の大王に仕えた伝説の人にしたのです。

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さて、磯城王朝最後の大王「彦道主」を守るため、武内大田根は因幡国に付いて行きました。
しかしそんな折、大和のヒバス姫から、イクメ大王が武内宿祢暗殺の計画を立てている、という知らせを受け取ったのです。
これに驚いた武内大田根は、取る物も取りあえず、西に逃げました。

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武内が住んだ跡に出来た宇部神社には、この時の様子から、武内の服や沓等が置き忘れられていた、との伝承が残っています。

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武内大田根がその先で頼ったのが、東出雲の向家、旧東出雲王家の富家でした。
富家は領地に家を建てて、武内を匿うことにしました。

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その匿った屋敷跡にできたのが、この武内神社です。
思いっきり改修中でした。。

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と言っても改修していたのは、隣の八幡宮の方です。

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武内神社の方は、まあなんとか、その姿を見せていました。

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出雲に居住することになった大田根は、富家の姫を后に迎えました。
武内大田根は、出雲王家と血縁ができたので、出雲王族を意味する「臣」を名乗るようになりました。

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つまり彼は武内宿禰から、武内臣大田根となったのです。

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武内臣大田根が暗殺を逃れ、富家の姫が彼の子を産み育てたことは、実は日本史に大きな意味をもたらします。

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彼の子孫「武内襲津彦」は大水軍の総指揮者となり、神功皇后を助け、三韓征服を達成するという大偉業を成し遂げます。
同じく子孫の「平群都久」は、平群王朝の創始者となりました。
さらに武内大田根の息子「蘇我宿祢石河」と富家の付き合いが始まりました。
蘇我家は越前国三国(福井県)に移住して、勢力を強めていき、やがて偉大な大王を輩出するのです。

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蘇我家は先祖の武内大田根を、富家が助けたことに感謝して、その後も富家を大事に扱ってくれたと云います。

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境内に幸神の石碑がありました。
その上には、竜鱗囲いに「武」の字の神紋が見えます。

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本殿裏手に「神秘の森」と書かれた標識がありました。

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上って見ると、出雲の荒神が祀られています。

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石像と藁を組み合わせた荒神は、他では見たことがありません。

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石像の形も様々。

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その奥に小さな祠がありますが、ここがひょっとしたら元宮なのかもしれません。

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そこでは鳥のさえずりだけが聴こえていました。

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