さいたま市大宮に鎮座する「氷川神社」(ひかわじんじゃ)、武蔵国一宮と称される当社は、宮中の四方拝で遥拝される一社でもあります。
駐車場からはすぐに三の鳥居に出ましたが、参道入口の一の鳥居からは長い長い参道が続いています。
武蔵国一宮ゆえでしょうか、戦艦武蔵の碑がありました。
この武蔵国一宮の認定については諸説あるようで、東京都多摩市の「小野神社」が一宮で氷川神社は三宮であるとも云われています。
しかしながら当社は東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の総本社であり、明治元年(1868年)10月17日に明治天皇が当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めたことからも、一宮としての風格は十分に備えているものと認識します。
氷川神社といえば、祭神は「須佐之男命」(スサノオノミコト)。
祇園社に並ぶ、スサノオを祀る有名な神社群となります。
では当地は秦氏が祀った神社なのでしょうか。
社伝によれば、5代「孝昭天皇」3年4月の創建と記されています。
また『国造本紀』によると、初代无邪志(むざし)国造の「兄多毛比命」が13代「成務天皇」の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って当社を奉崇したと記します。
この一帯は出雲族が開拓した地であり、无邪志国造は出雲国造と同族とされ、「氷川」は出雲の「簸川」(ひかわ)に由来するという説もあるのだとか。
境内社に「天津神社」がありますが、祭神は「少彦名命」となっています。
通常スクナヒコは国津神として祀られることが多いのですが、ここでは天津神とされているのでしょうか。
工事のため水が抜かれた神池に浮かぶのは「宗像神社」(むなかたじんじゃ)。
「多起理比売命」「市寸島比売命」「田寸津比売命」の宗像三女神を祀っています。
参道を進み、雅な赤い橋を渡ると楼門が見えてきます。
当社を「大いなる宮居」と称えたことが「大宮」の地名の由来と云います。
まこと名に恥じぬ風格。
明治天皇は明治3年(1870年)にも再度親拝され、昭和天皇も皇太子時代の大正6年(1917年)と、天皇に即位した昭和9年(1934年)に親拝、昭和42年(1967年)にはご夫妻で参拝されています。
今上皇天皇も皇太子時代の昭和38年(1963年)に参拝され、昭和62年(1987年)と天皇に即位した平成5年(1993年)にご夫妻で親拝されています。
祭神は「須佐之男命」のほか、 「稲田姫命」(イナダヒメノミコト)、「大己貴命」(オオナムチノミコト)。
つまり夫婦と子の三柱を祀っているということなのでしょうが、もちろんそれは記紀での設定。
実際はスサノオと稲田姫は夫婦でもありませんし、スサノオとオオナムチは親子ではありません。
ところで初代无邪志(むざし)国造と云われる「兄多毛比命」、彼は物部家である可能性が高いと思われます。
13代「成務天皇」とは物部・大和王朝の3代目にあたります。
すでに出雲王国は終わりを迎え、出雲族は物部王朝に属している時代です。
『国造本紀』が記す通り、兄多毛比命が当地にやってきて、物部の祖神スサノオをここに祀ってもおかしい話ではありません。
しかし境内社の「門客人神社」(もんきゃくじんじゃ)、今は稲田姫の両親「足摩乳命」「手摩乳命」が祀られていますが、この社は元々「荒脛巾神社」(あらはばきじんじゃ)と呼ばれていたという面白い情報を得ました。
アラハバキは氷川神社の地主神であると伝えられ、当地先住の神がアラハバキとみられていると云うのです。
アラハバキは謎の神とされ、エミシ族の土地神ではないかというのが一般的な解釈ですが、古代出雲王国「富王家」の話ではアラハバキは大彦らが東北方面に敗走した際、出雲の幸神(サイノカミ)を祀ったものであると伝えています。
であれば、社伝の孝昭帝の時代は早すぎますが、その後の御代に、東方へ逃れた大彦・ヌナカワワケらの一行が幸神を祀ったのが、当社の創建になるのではないでしょうか。
他にも、日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教え通りに当社へ詣でると立てるようになったのが「足立」の由来であるとか、平貞盛が平将門の乱において戦勝を祈願し見事乱を平定したとか、源頼朝が社殿を再建させ、社領3000貫と神馬神剣を寄進したなど、様々な話が伝えられています。
本殿の裏手に、「蛇の池」なる聖地があるというので行ってみました。
「蛇の池」は氷川神社の起源と伝えられており、数年前までは禁足地だったそうです。
しばらく歩くと見えてきました。
綺麗に整備された湧き水の池です。
今でも地中から水が湧き出ているそうで、この神秘的な水があったからこそ当社が鎮座したと伝えられています。
龍蛇神信仰も出雲族の特徴の一つ。
アラハバキは大彦が、出雲(伯耆)の神木に巻きつける藁の龍蛇神を東国に持ち込んだのが始まりです。
出雲の血を引いたヌナカワワケらがここで、幸神を祀った当社始まりの地となるのでしょう。
蛇の池そばには、ご丁寧に「御神水」に触れられる別スペースも設けられていました。
最後に長い参道を逆行し、二の鳥居まで向かいます。
そこに飛び地境内として「菅原道真」公が祀られていました。
道真公も出雲の血を引く人物と伝わっています。
あとは参道沿いにあった「氷川だんご」が気になったので食べてみました。
甘くないタイプのしょうゆみたらしで、ぺろりいただきました。
氷川神社の見立ては、たぬきさんの考察もありだと思います。
斐伊川から転じたとされる氷川。
色々な考えはロマン(笑)
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たぬきさんの話も富家の伝承と多くの部分で一致しています。
いつも非常に興味深いコメントを残してくださります。
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キキ神話等によれば(一般的には)
出雲から招聘された野見宿禰(元出雲王国旧王家富家当主の富彦)は当麻蹴速(但馬の田嶋守)との死闘を制して、垂仁天皇に召し抱えられて
後に土師氏を賜り、
その土師氏らが関東に移り住み開発したと言われていて、
進出開発した所々に氷川神社を建てたことにより関東平野は氷川神社の異常な密集地域(200社以上)となった云々。
これが、出雲王家の伝承では、出雲王国を滅亡させ、ヤマトを平定間近となった物部イクメ王(垂仁)は、
先に勝手にヤマト入りして占領、ヤマトの大王と振る舞っている但馬の田嶋守や、
連合王国を構成した豊国勢(異母弟妹ら)も制止を聞かずにヤマトの磯城方面に侵攻して一帯を占領。三輪山の出雲祭祀を停止させる代わりに檜原神社を建てて豊国宇佐族が信奉する月神(御蔭神)信仰を始める始末に
イクメ王は頭を抱えて苦慮。
出雲を滅亡させた後に進駐、戦後統治に当たっていた物部十千根将軍に泣き付き?出兵を要請するも
その余力はなく、十千根将軍は何と自分たちが滅ぼした出雲王国の元王家の富家に泣き付きました?
富家としては心中穏やかではなく忸怩たるものがありましたが、
今更是非も泣く泣く、、、、
元王家がまさかの物部勢に荷担するとは言えないので
富家当主富彦は名を野見彦と騙り、
滅ぼした但馬勢(出雲国内を一番荒らし回った。特に田和山の神殿を木っ端微塵に破壊した憎い仇)や豊国宇佐勢に意趣返しする等として
義勇軍を募集~編成してヤマトに進軍。
その際、ヤマトを逐われていた親戚の登美家(カモ族)らと語らい連合してヤマト入り。
先ず、田嶋守の但馬勢に襲い掛かり、
ヤマトから排除に成功。更に追撃して大阪湾岸に追い詰めます。
田嶋守らは堪らず、(先祖の天日戈同様)淡路島に逃げ込んで(敗走)、
こちらは一件落着。
休む間もなく矛先を豊国勢に向けました。
この少し前、垂仁天皇は豊国宇佐勢にヤマトの磯城王朝の残存勢力の追討を命じていて、豊国勢はせっせと元ヤマト王朝勢力の追撃に精を出していました。
そこに背後からなにやら新手の軍が、、、
おお!イクメ王が援軍を送ってくれたか?(喜)
と油断していた所に、件の新手の軍がまさかの攻撃を開始。
豊国勢は事態が呑み込めず大混乱~やむなく退却して一旦、丹波(丹後)に逃避して暫く安生(、、、天照大神が丹後に四年鎮座に相当か?)。
一旦攻撃を止めた新ヤマト軍(出雲義勇軍)はヤマトに凱旋して旧ヤマト王朝の旧領や登美家の旧領を(一部)回復。
三輪の出雲祭祀も再開。しかし、この時より以前の巫女から男の祭主に転換(太田直子)したと言う。
後、再度の豊国勢の追撃を再開。豊国勢は伊勢に更に東海地域(豊が付く地名がその名残)へと退却して、
関東にいたりやっと安住を得て子孫は国造等豪族となった。
追撃して行った出雲義勇軍らも関東平野に至り一帯を開発。
中には故郷の出雲に帰郷した者たちもあまたありましたが、既に自分たちの土地も居場所もなくなっていて
やむを得ず再度全国に散会して行った。
これが後に出雲の散家と言われる秘密情報結社機関として機能。
全国の事件、時事ネタを逐一元王家の富家へ伝達。富家はそれを余さずに保存蓄積。真実の歴史が伝わる元となったらしい。
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ということは、氷川神社系を祀っていったのは土師氏なのですか?
僕は大彦・ヌナカワワケらの一行だと思っていました。
そうですね、土師氏の存在を忘れていました。
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富家は血まみれ時事ネタ収集諜報組織兼歴史捏造組織だったかも。
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古代史に関しては、正確に伝承することは難しく、あらゆる古史古伝も歪められていないものはないと考えています。つまり正確な古代史はもはやわからないのです。
ただ、その様々な伝承の中でも、富氏が伝えるものは真実であると思えるものがかなり多く残されています。それは僕がこれまで旅をし、ここ偲フ花に書き記してきたことです。
ここに稀にコメントをくださる「たぬき」さんは、その伝承とほぼ同じことを記してくださいます。遠く離れた淡路に同じ伝承が伝わっているということは、とても興味深く貴重なことです。
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富家の真実の残忍残酷物語が正確に述べられているのですか?間違えていたら申し訳ない。
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古代日本で残忍な殺害を行なったのは物部ですね。
他は殺された人もいますが、他国に比べればはるかにほんわかしています。
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祭神がどうこうより神社の名称が最も重要ポイント。
本来の神さま、ご神徳を端的に表している場合がほとんど?
「氷川神社」の氷川。
、、、ヒ=神霊(日、飛、火、美、避、毘、比、、、)。
、、、川が曲者!
川は三本の|||
|は「天に通じる」の意味で転じて神。
それが三本。=三柱の神さま。
三は出雲を表す聖数であり出雲の幸之神3柱神を表す神聖な数字。
要するに、幸之神をお祀りする神社の意味でヒ(神)+三(幸之神3神)。
「三」を縦書きしたのが「川」
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「三」を縦書きしたのが「川」、とはまた目から鱗の発想です。
ヒ=神霊というのは、他の社名でも時折聞く話ですね。
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スサノオさま。は、TPOによりある意味カメレオン的に都合よく変化する神さま。
というより、カモフラージュに利用された神さまかもしれません。
ご祭神に、スサノオ。櫛稲田媛命。大国主命/大己貴命。
とある場合、お后神の櫛稲田媛命が重要ポイントではないか?
この場合のスサノオさま。は、稲田媛のお婿さんですから、
出雲王国の系図に照らして、それは初代出雲王(オオナモチ)の菅之八耳命。さま、と観念して良いのでは?
先日、讃岐の金比羅本宮に登拝の折に
本宮の下、参道脇に「真須賀神社」があり、ご祭神はご他聞に違わずに
建速須佐之男命。后神、櫛稲田媛命。
以前より何かしらご縁を感じていて本宮(大物主=八重波津身命)にご挨拶もですが、こちら様に強く引かれるところがあります。
今回は、出雲伝承に基づいて、
ご祭神名を奏上(簡便な祝詞)に際しては、
、、、此の真菅之神社(カムヤシロ)を鎮宮の常宮と鎮座坐す
元津統大神、神名(ミナ)を建速須佐之男命と称え辞竟奉る
言巻くも綾に尊き出雲王国初代オオナモチ菅之八耳命、
后神、櫛稲田媛命の広前に、、、、
途端、柔らかい風が吹きました(感涙、落涙)
また、大国主命も様々に都合よく使われる神名で、
歴代の出雲王やその何方かを 意味したり、また、特定の出雲王を指していたり、
例えば八代オオナモチの八千戈命だったり、
挙げ句の果てにはクナト大神の事だったり、、、
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おひさしぶりです、たぬき様。
なるほど、スサノオ=徐福という固定観念にとらわれすぎるのも問題かもしれませんね。
イザナギ・イザナミ神も、時に応じて、様々な神の代用として語られますので、十分あり得る話です。
とするなら、当社はやはり出雲系の聖地である可能性が濃厚ですね。
納得です。
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