戸田の海岸:語家~katariga~ 結

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ここに天武天皇が詔りされた
「私が聞くところによると、諸家に伝えられている帝記及び旧辞は正実に違い、多く虚偽が加えられたものが多いという。今このあやまりを改めなければ、時を経ずしてその旨は失われることであろう。これは我が国の成り立ちと、君主国の基に関わる問題である。故に帝記と旧辞の偽りを削ってまことを定め、後の世に伝えたいと欲す」

時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年はこれ二十八。人となりは聡明にして、目にした文章は全て口に出して読むことができ、耳にしたものは全て心に記憶した。
天皇は阿礼に勅語して、天皇の日継及び先代の旧辞を読み習わせた。然れども時は移り天皇の御世は替わり、未だその事は完成に至らず。

元明天皇は旧辞の誤りを惜しみ、帝紀の誤りを正そうとして、和銅四年九月十八日をもって、太臣安万侶に詔りされた。

稗田阿礼が詠む所の勅語の旧辞を記し定めて獻上するよう命じられましたので、謹んで詔旨のままに私安万侶が、子細に編纂いたします。

-『古事記』序文

『荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 吾ここにありと 誰れか告げなむ』
「荒波で寄せられた美しい小石を枕に、私は横たわっているのだと、だれか妻に告げてくれるだろうか」

-『万葉集』226 丹比真人(三宅麻呂)

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さらさらと風が吹く
一面の浜に風が吹く
空に泡立つ白い雲、寄せては湧き立つ潮の波

古里の近く、持石の浜へ私は帰って来た。
この砂浜は東西に三里ほど続いている。上総の九十九里の海岸に比べれば可愛いものだが、それでも両端の先は霞んで見えない。
海岸の西端にまで来れば、戸田の実家は目の前だ。
そこに海に浮かぶ小島がある。潮が引けば浜がつながり、歩いて渡ることができる。
子供の頃は絶好の遊び場だったその島は、美しく、神の宮島と呼ばれていた。

太陽の光が波に反射し、視界が霞む。
岩陰にミヤコグサの黄色い花が咲いている。小鳥のコゲラが空で歌声を奏でていた。
弓なりの砂の上、穏やかな光の中に彼女は立っていた。

『物思はず 道行く行くも青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝れをぞも われに寄すといふ われをもぞ 汝れに寄すといふ』
「ぼんやりと道を歩き青山を振り返りみると、つつじの花が咲いている。それは匂わんばかりの少女のようだ。桜の花は咲き乱れて盛りを迎えた乙女のよう。そうした花々のように君は私が好きで、私も君が好きだと人は噂する」

ああ、そう君は、春を呼ぶ人だった。
花のように儚げで、空のように爽やかな、もみじ葉のように色づいて、雪のように柔らかい。
しっかりと抱きしめて、
幾重にも雲垣を折り重ね、この手を二度と離すまい。
かくも愛しき、土形の吾が妻よ。

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2021年4月、僕は『人麿古事記と安万侶書紀』のエンディングを求め、再び戸田を訪ねていました。

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戸田から東に5km、益田市高津町に「持石海岸」があります。

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どこまでも続く海岸は、高津川河口から西へ三里(約13km)も続くことから、「三里ケ浜」とも呼ばれています。

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沖に観音岩という岩があり、この観音岩を持つので持石と呼ばれるようになったと云われていました。

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鴨山に葬られた柿本人麿の魂は何処へ向かったのか。

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僕はその答えが、彼の故郷の海岸にあるように思えたのです。

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三里ケ浜の西端が戸田の海岸です。

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母・綾娘子(あやのおとめ)の愛情を受け育った人麿は、幼少の頃はこの海に度々足を運んだはず。

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美しい砂浜でありながら、奇岩のいくつかもあり、子供たちは魚を採ったりして遊んだことでしょう。

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その西の先に山陰のモンサンミシェル「宮ヶ島」がありました。

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モン・サン=ミシェルは干潮時しか渡ることができない島ですが、宮ヶ島は地形的には陸繋島で、通常の満潮時なら歩いて渡ることができます。
しかし大潮や波が荒い際には、島に渡ることができません。

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小島の側面には螺旋の参道が設けられており、急坂ではありますが、島の頂部に登ることができます。

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島の頂に鎮座しているのは「衣毘須神社」(えびすじんじゃ)です。

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宝永6年(1710年)、美保神社の分霊を勧請して海龍山に創建した社で、主祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)になります。

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当時、小浜村は非常に貧しく、離村して平戸に移住する者もいたほどだったと伝えられます。
そこで村民たちは苦労の末、日の出網と名付けた鰯網の漁法を使って漁業に活路を見出し、その年に漁業の守護神として出雲の美保神社から事代主命を勧請したのだそうです。

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境内から先ほどあった奇岩を見ると、その姿はまるでスフィンクスのようであり、さながら衣毘須神社を守る狛犬のようです。
猫が背を丸めている様から「猫島」と呼ばれています。

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それにしてもこの島の上の境内の、なんと素晴らしいことか。
まるで龍宮に足を踏み入れたかのようです。

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ああ、人麿の魂は、ここに来ていたのだな。
この龍宮に立った時、僕はそう直感しました。

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小浜衣毘須神社が鎮座したのは柿本人麿の時代の後のことですが、この島が宮ヶ島と呼ばれ、古くから何某かの神が祀られていたことは想像に難くありません。
人麿は古事記の中で、豊玉姫の住まう所を龍宮としましたが、それはこの宮ヶ島を思い浮かべて書いたものではないでしょうか。

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『時つ風 吹かまく知らず 阿胡の海の 朝明(あさけ)の潮に 玉藻刈りてな』(1157)
「潮が満ちてくると風が吹くだろうから、阿胡の海の明け方に、潮が干ひいたら藻を刈ろう」

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島の頂部から眺める三里の浜の、これまた美しいこと。
潮騒を響かせながら白い波が絶え間なく押し寄せる弓なりの浜に、僕は優しく抱き合う、人麿と土形娘子の幻を見たのでした。

- 完 -

五条桐彦

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