
吉備津から美作地方へ向かう途中、岡山県赤磐市の山中にある備前国一宮「石上布都魂神社」(いそのかみふつみたまじんじゃ)を訪ねました。

一ノ鳥居までもずいぶん山道を走ってきましたが、案内板によるとこの先に本社があり、さらに奥に本宮が鎮座しているとあります。山頂付近には磐座の姿も。

そのまま車で登っていると、道脇に小さめの鳥居がありました。
手前は木の根道になっており、車道ができる前は徒歩で、参拝者はこちらを登り進んでいたことでしょう。

駐車スペースに車を止めると、そこから先は蛇の通り道のような細い参道を登ります。

しばらく行くと

境内が見えてきました。

さほど広くはない敷地に建つ社殿。

当社祭神は「素盞嗚尊」(すさのおのみこと)一柱です。

創建は不詳ですが、スサノオがヤマタノオロチを倒した剣「布都御魂」(ふつのみたま)を磐座に奉納したのが起源とされています。

さて、磐座までどのくらい登るのか不安でしたが、10分程度とはありがたい。

スサノオさんちょろいな、などと油断していると、

「意志の坂道」なるものが突然出現。
僕は潔癖も潔癖、不浄のかけらも持ち合わせていない、ということにしているので大丈夫です。たぶん。
満93歳のご婦人も制覇とは私も行かねばなるまい。
ところで必要な強いものって何?何なの?

あああああああああ…

もはや道とも呼べぬ。
ご婦人スゲえ。

日本書紀の一書に「其の蛇を断ちし剣をば、なづけて蛇之麁(おろちのあらまさ)と日ふ。此は今石上に在す」と記され、また一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断(あめのはばきり)の剣を以て、其の大蛇を斬りたまふ」と記されています。

明治時代まで当地では、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣を布都御魂と伝えられていましたが、明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣(とつかのつるぎ)と書かれました。

この十握剣を祀ったのが当社の創始と伝えられており、剣は仁徳天皇の時代に大和国の石上神宮へ遷されたと云われ、そのことは石上神宮の社伝にも記されていると云います。

故に石上布都魂神社は奈良の石上神宮の元社であると言われていますが、石上神宮側ではこれを否定しているとも聞きます。
果たして真実はいかに。

スサノオがヤマタノオロチを斬った剣については、石上神宮では「布都斯魂剣」(ふつしみたまのつるぎ)とされ、この剣が「天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)であるという設定になっています。つまり、布都御魂剣と布都斯魂剣は別々の剣として扱われているのです。

布都御魂剣の「フツ」は剣で物を切断する時の「フツ」という音から来ていると一般的には考えられていますが、フツとは徐福の別の呼び名「徐市」(じよふつ)から来ています。
つまり「フツの御魂」とは「徐福の御霊」なのです。

僕の口からひぃひぃと喘ぎ声が聞こえ始めるころ、鳥居が見えてきました。

あとひと階段登れば本宮です。

この階段は「迫龍の段段」と呼ばれています。
なぜ迫龍なのでしょうか。迫龍とは「白龍」もしくは「伯龍」なのではないでしょうか。

なんとか階段を登りきって振り返ると、

確かに蛟のような白い龍の姿がそこにありました。

そしてようやく磐座とご対面です。

山頂に覆い被さるように鎮座する磐座、

それを背にするように小さな社が建っています。

かつては布都御魂剣が祀られ、今はスサノオを祭神とする石上布都魂神社本宮。
しかしスサノオは徐福のことですし、布都御魂も徐福の御霊であるので、祭神は基本的に変わっていないことになります。

赤い鉄線が張り巡らされ、禁足地となっている磐座、

そのこんもりとした岩の上に、ぼつぼつとイボのような石がちらほら置かれています。

磐座は半面が絶壁のため周回できなくなっており、全貌を知ることは難しいです。

それでも可能な範囲で見てみると、

一部出っ張った部分があります。

こじつけかもしれませんが、僕はこれは亀の頭のように思えました。

そう思ってみれば、磐座全体が亀の甲羅のように、見えなくもなくもなくもない、ような気がします、たぶん。

さて、伝承によればヤマタノオロチを退治したスサノオは、その剣を石の上に置いた、だから「石上」であるとします。
石上神宮は徐福の血を引き、大和に東征してきた九州物部族が和邇王家の土地を奪い、拠点とした聖地の一つです。
ではここ石上布都魂神社も物部の拠点だったのでしょうか。

いや、当地は同じ徐福の血を引いてはいても海部系フトニ大君の息子、吉備津彦兄弟が拠点とした場所の一つではないでしょうか。
吉備族らは鉄を求めて、美作方面まで制圧したと伝えられます。

そしてここで切られたオロチとは出雲族の事でしょう。
この磐座を祀っていた一族とは本来、出雲族であった可能性が高いと思われます。

がしかし、この磐座が亀の磐座であるのなら、少し面白い可能性を妄想するのです。



本宮から下山途中、出雲人らしき石像があり、

そこに「天女の腰掛」という案内板を発見しました。

が、どこを指しているのかよく分かりません。

これかえ?

本社に降りてきて、御朱印をもらえないものかと彷徨いていると、なに、自動授与機?

まさかの御朱印自動販売機がありました。ハイテクぅ。

僕は御朱印と一緒に十握剣のお守りを購入しました。

石上布都魂神社は明治43年の火災によっ て貴重な棟礼等ことごとく消失したのだそうです。

現宮司は江戸時代に古代氏族物部姓を授かった物部宮司とのこと。
本社には石上布都魂神社復興350年記念の集合写真が掲げられていました。

そこに写っている方は、とても上品で人の良さそうな、優しいお顔の方でした。
僕は、ヤマタノオロチ神話が伝わる当地は、本来は出雲系一族の土地だったと考えます。
そこへ鉄を求めた吉備族がやってきて制圧したというのが真実でしょう。
吉備族はスサノオの血を引く民族でした。

では宮司家の物部氏は吉備津彦のご子孫なのか、はたまた大和から送り込まれてきた物部本家のご末裔なのか、ひょっとすると出雲族の生き残りなのではないだろうか、そこのところは推してはかるべきということなのでしょう。


確か、対馬の一宮は、基本無人で、賽銭箱に金を入れて、御朱印をいただくことになってるが、
こちらに最初に訪れた時に、無人販売機スタイルに、動揺が隠せいないですが、
ーー宗像大社は、今はキャッシュレス対応で、もはや青天霹靂ーー
石上の旧社格は郷社で、『延喜式神名帳』では小社。何度も再建されたようで、今のは平成5年の模様。
吉備王朝の謎が多く、解明されてないものも多いが、
備前と備中の一宮と違って、こちらは山奥にあるのは、やはり砂鉄関連かと邪推していますが、まだ関連の調査や考察が進めてない。笑
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吉備地方はもともと出雲王家の管轄地だったのですが、大和のフトニ王が鉄欲しさに侵攻したようです。
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吉備に石上って確かに考えさせられますね。
フトニと大彦が同じ時代とされ、基本的には物部と妥協しなかったのが吉備と考えられます。
石上は、五瀬家とは違い分家筋の家です。それがここにあるということは、一度目の東征で、西都原に戻る途中の物部氏か、2回目の東征後の、景行時期の徴税戦争(笑)の時のものなのか
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第2次東征のとき、吉備で物部はずいぶん足止めを食らっているらしいので、その時のことかもしれません。
そのまま居着いた人がいるのでしょうかね。
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暑中御見舞い申し上げます。
・・・埼玉はヤバイっす(笑)
おひさです。8まんです。鬼の話・・・来ました(笑)
ウラ。若しくはオンラ。ウィキでも朝鮮由来を暗示する書き方してます。
石上布都魂。ここは令和初日に訪問できて御朱印を直書きして頂いたのですが、自販機は笑えましたよね。
神職さん達曰く、普段、常駐している事が少なく、それでも参拝者さんも御朱印を望むことが多いとのことで自販機を導入したのだとか。
時代によって手水も変化したり、神社でレジからレシートとか。神社も人の都合でスタイルが変わるものだ(笑)
そうそう、亀さん気にしてらっしゃいましたんで、出雲の神紋の外枠の六角形は確か、亀の甲羅に由来してた気がしました。・・・うろ覚えですが。
書き込みは間に合ってませんが、ブログは目を通してます。コロナがひどくなって来てますが息災でありますよう。ではでは。
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8まんさん、こんばんは。息災でいらっしゃいますでしょうか。
そう、豪雨気になっておりました。コロナも、ですかね。
電子マネー賽銭もあるわけですから、なんでもありですね。オンライン供養・オンライン参拝などは少々行き過ぎと感じますが。
六角枠は富氏曰く、龍鱗枠だそうです。しかしそうであるなら蛇と同じく亀も、龍神信仰の御神体とされたのではないかと僕は思うのですが。
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😨申し訳ない。何か汚っ…いえ、崩壊寸前の倒壊家屋風の趣きのある場所と社と祠ですね🐥マニア垂涎の荒々しい何か🦑
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何か汚っと思うか、侘び寂びと捉えるか。
人が無価値とするものの中に宝石を見つけるのが、マニアと呼ばれる人たちです😁
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ごもっとも🐥
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https://www.youtube.com/watch?v=W5cKmPGsR5I
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😅
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