愛媛県今治市の朝倉地方に鎮座の「矢矧神社」(やはぎじんじゃ)を訪ねます。
社伝によると、越智氏の祖、小千の「天狭貫王」(あまさぬきのおう)の廟として祀られ、往古には朝倉宋廟本社と号していたと記されています。
当社で毎年5月3日に上演される場華芝居は「朝倉にわか芝居」と呼ばれ、獅子舞と一体になって行われ、その形態が国内唯一のもとして県無形文化財に指定されています。
37代斉明女帝の当地御幸の時に参拝があったと言い伝えられおり、その時に朝倉の宮と改められました。
弘仁11年(820年)に八幡宮を勧請し、その後、56代清和天皇の御代に朝倉宋廟八幡宮と改められました。
朝倉と聞いて思い浮かべるのは、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい/はくそんこうのたたかい)前夜に斉明女帝が遷した都。
そこが朝倉であるといいます。
その朝倉とは、九州福岡の朝倉の地であると云われますが、当地もその朝倉であると主張しているのでしょうか。
以前は八幡ヶ窪に鎮座し、社地八丁四方を有して高縄山城主「河野」公の祈願所となり祭礼も盛大に行われていたと伝えられます。
天正10年(1582年)の戦乱の被害により古文書等損失、社殿も荒廃して維持が困難になりました。
天正10年は本能寺の変があった年で、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)による阿波平定がなされた動乱の年でした。
慶長18年(1613年)に現在地に遷され、延宝5年(1677年)に矢矧神社と改め、今治城主松平公の祈願所となりました。
矢矧神社の主祭神は「天峡貫王」に八幡宮を勧請していますので、「誉田別命」(ほむだわけのみこと)「武内宿禰」「日本武尊」「仲哀天皇」「神功皇后」と八幡系が続きます。
矢矧八幡は、「大浜八幡神社」「鴨部八幡神社」とともに高縄山城主河野氏の祈願とされており、往時は祭礼も盛大に行われていたとのこと。
主祭神の天峡貫王は「大濱八幡大神社神裔氏族誌」によれば越智氏族の祖「乎致命」(おちのみこと)の息子となっています。
天峡貫王の「峡貫」とは「讃岐」の地名になるのでしょうか。
当地も物部族の影を感じないわけにはいかないところですが、朝の字がつく地名は朝日信仰のあった出雲族にゆかりがある可能性もあります。
境内社には日吉神社(大山咋命)、杵築神社(大穴牟遅命)、山神社(大山積命)、平林山神社(大山積命)などが鎮座しており、出雲系の雰囲気が感じられました。
矢矧神社のそばに「荒氣神社・和霊神社」がありました。
和霊とは”にぎみたま”でしょうから、荒氣は”あらみたま”を意味するのでしょうか。
荒氣神社祭神は橘参河守であるとネットで見かけましたが、橘参河守とは誰ぞや。
個人的には荒氣の文字が「アラハバキ」に似ているような気がしました。