人穴

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建仁3年(1203年)5月26日、源頼家は伊豆国で巻狩りを催すため、鎌倉を出発した。
6月1日には伊豆国の狩場に到着し、6月3日には駿河国に場所を移すことになった。

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建仁3年6月3日己亥。今日の天気は晴れ。
将軍頼家様は、駿河国富士のすそ野の狩場へ移られました。その山麓に大谷と言って、人穴と呼ばれる洞穴がありました。
そこを確かめようと、新田四郎忠常と、家来合わせて六人に穴に入るよう命じました。
新田四郎忠常は、将軍に剣を与えられて、人穴に入って行きました。彼は今日中に帰ってくることはなく、日が暮れてしまいました。

建仁3年6月4日庚子。今日は曇りです。
巳の刻(午前10時頃)に、新田四郎忠常が人穴から出て戻ってきました。彼は洞穴内を往復するのに一昼夜掛かったのです。
疲弊した様子で新田四郎忠常は、将軍に報告します。
「この穴は、一人がやっと通れるほど狭く、 あともどりすることができません。私たちは仕方なく前へ進んでいきました。又、真っ暗なので不安でなりません。そこで各々、松明に明かりをつけ進んで参りました。道の途中は、ずうっと水が流れていて足が濡れっぱなしでした。数え切れぬほどの蝙蝠が顔の前を飛び交い、行手を阻みます。途中に大きな川がすごい勢いで流れていて、渡りたくても手段がなく途方にくれました。その時、川から突然光が放たれて私たちの方へ射してきました。この怪奇現象のあと、家来四人がたちまち死んでしまいました。しかし、私は、霊から教えを受け、頼家様から頂いた剣を川へ投げ入れたので、命を失わずに帰ることが出来ました」

これを聞いた村の古老は、
「人穴は、浅間大菩薩のおられる場所なのです。昔から、あえてそこを見に行く者はおりませんでした。此度の出来事は、とても神の御威光に対し、畏れ多いことでございます」
云々。

『吾妻鏡』

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静岡県富士宮市にある、富士山の噴火でできた溶岩洞穴のひとつに、「人穴」(ひとあな)があります。
僕が訪ねた時、県道沿いに建つ鳥居は、逆光を受けて不吉な黒い色に見えていました。

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ところで人穴ってなに~っ、、、ちょー怖いんですけど。。

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人穴は富士山の中心から西に約12kmの位置にあり、富士山の一部である犬涼山の端にあります。
主洞は高さ1.5m、幅3m、奥行き約90m。人穴と呼ばれる由来は、溶岩が作った洞穴の壁に肋骨や乳房のような岩の突起があるためだとか、人が住居として利用していたことからこの名が付いたなど、諸説あるそうです。
あの船津の胎内洞穴も、人の体の中のような造形をしていました。

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当地は、江戸時代には富士信仰の修行の場ともなっていた聖地で、富士講の開祖である角行は人穴を浄土と呼び、内部で修行をしたと伝わります。
また富士講信者は、富士参詣(登山)を済ませると、聖地である人穴へ参詣にやって来て、宿泊したのだそうです。

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角行(かくぎょう)は天文10年1月15日(1541年2月10日)、長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれ、さらには大職冠藤原鎌足の子孫だと云われています。
当初修験道の行者であった角行は、常陸国での修行を終えて陸奥国達谷窟に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴にやって来ました。
そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられたと伝えられます。

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鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、人穴について「将軍家渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〔号之人穴〕為令究見其所。被入新田四郎忠常主従六人」と記してあります。

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それによると、鎌倉幕府第二代将軍の源頼家は建仁3年(1203年)6月、富士の狩倉で巻狩を催し、人穴を新田忠常(仁田忠常)に調査させたとしています。
彼が怪異に出遭い、無事穴の外に戻ると、地元の古老は「是浅間大菩薩御在所」(人穴は浅間大菩薩の御在所である)と将軍を諌める言葉で締めくくられ、また、『吾妻鏡』に影響を受けた御伽草子『富士人穴草子』には「富士のせんげんとはわが事なり」と記されています。

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これらの話を聞いた角行は、その信仰的要素から、人穴で修行したと云われています。

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さて、人穴に着きました。

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人の胎内の形をした洞穴、これが浅間神の正体なのでしょうか。

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ぽっかりと、黄泉へ誘うような、不気味な穴がそこにありました。

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人穴は現在、崩落の危険があり立入禁止となっていました。まあ、立ち入れたとしても入りませんがね、久米島仙人がいないと僕は。
洞穴は中央部でくの字型に曲がっており、最奥部までは約80m。入口から30mの屈曲部手前中央には直径約5mの溶岩柱があり、他、洞穴内には、祠と碑塔3基と石仏4基が建立されているそうです。

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人穴の横には、「人穴浅間神社」が鎮座しており、コノハナノサクヤビメの他、角行、徳川家康を祀っています。
神仏混合時代には、洞穴の横に大日堂が建ち、札・御朱印の授与などを行なっていました。

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人穴と富士山の位置関係ですが、富士山頂を中心とすると、東に約12kmの位置には東口本宮冨士浅間神社があり、西にほぼ同じ距離で人穴があることになります。
人穴、富士山、東口本宮は一つの線で結ばれ、それらがほぼ同緯度であることが分かります。

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すると、人穴とは、西から富士山に昇る朝日を見る形になり、「人穴は浅間大菩薩の御在所である」「富士のせんげんとはわが事なり」言うのであれば、富士山(浅間)は、朝山であると一応こじ付けることはできるのです。

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この人穴を、一層不気味に演出するものがあります。

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墓~っ、ではなく、233基の碑塔群です。
富士講・先達の供養・顕彰塔や講員の登拝記念碑などで構成され、建立年代のわかる碑塔は89基あるそうです。
その中で一番古い年代に作成されたとされる碑塔は、洞穴内に位置する1664年(寛文4年)建立のもので、富士構成立以前のものだといいます。

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まあしかし、なんとも異様な雰囲気のする人穴の景色。
碑塔群の中には、実際に人が埋葬されている墓碑もあるのだとか、どうとか。
『吾妻鏡』には6人の探検武将のうち、4人が死亡したとありますが、彼らはなぜ死んだのか。洞穴内に有毒なガスが充満していたのか、あるいは松明の火で酸欠となったか。
県道側にある、あの鳥居は、車で潜ると事故に遭うとか、行きは潜らず帰りは潜らなければ不幸があるなどと、まことしやかに噂されています。
そういえば先日行った「博多おばんざい 小さな小さな玄界灘 スシ男」、そこで注文した200円の茶碗蒸しにギンナンが入っていなかったのは、きっと人穴の祟りかもしれない。 恐ろしや、恐ろしや。。

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