奈良県高市郡明日香村にある「於美阿志神社」(おみあしじんじゃ)を訪ねました。
於美阿志神社は、キトラ古墳の近く、国営飛鳥歴史公園内にあります。
当社は、第15代応神大君の代に渡来した「阿智使主」(あちのおみ)の居住地跡で、東漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺とされる檜隈寺(ひのくまでら)の跡地に建っています。
祭神は、東漢氏の氏神として阿智使主神夫妻二柱を祀り、江戸時代には「御霊明神」とも呼ばれていました。
江戸時代までは道を隔てた西側に鎮座しており、明治40年(1907年)に檜隈寺金堂跡に遷座したとのことです。
当地は、28代宣化大君が即位した「檜隈廬入野宮」(ひのくまのいおりののみや)があった場所とされています。
27代の安閑大君と宣化大君は、出雲の富彦太が、越の蘇我臣振姫(蘇我刀自姫)の元へ婿入りし、儲けた皇子です。
富彦太は26代オホド大君(継体大君)に就任し、それまでのオオサザキ王朝に終止符を打った人です。
宣化大君は536年、この地で69歳という高齢で即位し、4年後に崩御しました。
わずかの間ですが、ここに大和の中心があったのです。
境内には柵で覆われていますが、重要文化財に指定されている十三重石塔が立っています。
上部の一部が欠けていますが、その優美な姿を今に伝えていました。
当社は阿智使主を祀っているというので、越智族の関連を疑い訪ねたのですが、どうやら関係はなさそうです。
しかし東漢氏といえば柿本人麿と深い関係があります。
柿本人麿は島根県の西部、石見国戸田に生まれましたが、人麿の家は本来の姓を綾部と言いました。
綾部家は元は、漢部と言い、彼らは大和・明日香の桧前(桧隈)に勢力を強めていた東漢氏の部民であり、当時は綾織を生業としていたといいます。
一方、大和の有力氏族である柿本家は櫟本(天理市)に多く住んでいましたが、一部に初瀬(桜井市)に住むもの達がおり、その初瀬の柿本家に縁があって、漢部家は仕えていました。
後に天武大君となる大海人皇子は、幼少の頃、漢皇子と呼ばれましたが、それは皇子の乳母を漢部家の婦人が務めたためでした。
その乳母に美しい娘・綾娘子がおり、漢皇子と綾娘子は恋仲になります。その二人の間に生まれた子が人麿でした。
綾娘子の恋は、子を得ましたが成就することはなく、乳母の仕事を外された綾娘子の母親は収入がなくなり、暮らしに困ることになりました。
そこで柿本家から紹介され、石見国の戸田の里へ移住することになり、名を綾部家と変え、田畑を借りて農業を始めることにしました。
この頃、人麿が生まれますが、やがてその子は神童だと言われるほどの秀才ぶりを発揮し、それを見込まれ、都に呼ばれることになります。
当時は豪族出身でないと、役人になるのは困難でした。そこで人麿は柿本家の養子になり、柿本人麿と呼ばれるようになりました。
彼は大海人皇子の住む三諸の離宮に、下級官吏である舎人として仕えました。
こうして柿本人麿の宮廷歌人としての、波乱の人生が幕を開けたのでした。
続きが楽しみです。
人麿好きとしては続きがすごーく気になりますががが。
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KYOさんありがとうございます😊
実は富家伝承と万葉集を紐解いて、柿本人麿の恋と数奇な運命を書いた本が、僕の著書『人麿古事記と安万侶書紀』になります。
この本は処女作であるが故に書ききれなかったストーリーなどもあり、それを補完するものとして、当ブログの語家シリーズがあります。
白姫シリーズは越智族と、次作の『由比正雪と薄明の月』関連記事になりますが、出版はまだ先になる予定です。
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そうですね。ご著書は興味深く拝読させて頂きました。
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ありがとうございます😭
そしてケーキが美味しそう😋
次作は更に良い話となりました。自信作です。校正も念入りに行っているところです☺️
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梅原猛さんが水死説を唱えていますが、冨家伝承ではどうなんでしょう?
ちょっと気になります。
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人麿の死についてでしょうか。
太安万侶が赤人と名を変え、真実を富家に伝えにきたという事です。その話を元に、万葉集を紐解いて古事記と柿本人麿人麿の真実を書いたのが、私の一作目となる『人麿古事記と安万侶書紀』になります😊
梅原猛さんの見解と同じく、彼は罪を着せられて流罪となりますが、孤島ではなく、最終的には千葉で亡くなりました。
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