白峰宮:崇徳伝

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元永2年(1119年)5月28日、鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのたまこ)との間に皇子が生まれた。
皇子は6月19日に親王宣下を受け、保安4年(1123年)1月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により2月19日、数え5歳(満3歳7か月)で即位した。
この幼き帝が崇徳天皇である。

崇徳天皇の出生には、とある噂があった。
母・藤原璋子は、白河法皇の養子として育てられ、しかもその美貌から、法皇とは愛人関係にあったと言われていた。
つまり、白河法皇は、自分の孫に当たる鳥羽天皇に自分の愛人を嫁がせた、ということになる。
そのため、真偽の程は定かではないが、崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく、実は藤原璋子と白河法皇の子ではないかと噂された。

譲位した鳥羽上皇は、自分の院政を期待したが、実際は白河法皇がその後も権力を握り続け、崇徳天皇を後見し、院政を行った。
「法皇が院政にこだわるのは権力欲しさばかりでなく、噂通り崇徳天皇が法皇の子種だからではないのか」
上皇は屈辱の思いに苛まされ、やがてその恨みは我が子、崇徳天皇に向けられることになる。

大治4年(1129年)、白河法皇崩御。鳥羽上皇の院政が始まった。
鳥羽上皇は忌まわしき藤原璋子を退け、藤原得子(ふじわらのなりこ/美福門院)を寵愛し、保延5年(1139年)躰仁親王(なりひとしんのう)を儲けた。
上皇は生まれて間もない躰仁親王を、崇徳天皇の養子にし、譲位するよう提案した。
崇徳天皇はこの鳥羽上皇の案を受け入れ、永治2年(1142年)、躰仁親王へ譲位した。
しかしこの時の譲位の宣命には、躰仁親王を「皇太弟」と記していた。新天皇が弟では、崇徳天皇が院政を敷くことは不可能である。つまりまんまと鳥羽上皇の謀略にはまってしまったのだった。

崇徳院(上皇)は在位中から頻繁に歌会を催していたが、政(まつりごと)から外れた後は、和歌の世界に没頭した。
院は『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開した。
この件に関しては、鳥羽法皇も崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王を后・藤原得子の養子に迎えさせた。これにより現天皇(近衛天皇)が継嗣のないまま崩御した場合には、崇徳院の息子・重仁親王への皇位継承も可能となった。

久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれた。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が29歳で後白河天皇として即位することになった。後白河天皇は崇徳院の弟にあたり、この決定は鳥羽法皇の意向によってなされた。

保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御した。
崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。
法皇の崩御に慌てたのは、後ろ盾を失った後白河天皇であった。崇徳院がこれを機に勢いを増すことを恐れたのだ。
7月5日、突如として次のような噂が巷に流れ出た。
「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」(崇徳上皇と藤原頼長が軍を率いて反乱を起こそうとしている)
これを受けて後白河天皇は藤原通憲に命じて、藤原頼長の邸宅に軍を送り込み、その邸宅を奪わせた。
追い詰められた崇徳院と頼長はついに挙兵、朝廷の面々も巻き込み、皇族や貴族、公家、源氏や平家、親族などが後白河天皇側と崇徳院側にわかれ、両陣営で争うことになった。
これは「保元の乱」と呼ばれる。
しかし保元の乱は、わずか1日で終結した。
翌日未明、後白河天皇方の平清盛、源義朝ら600余騎が出兵し、崇徳院勢を攻めたのだった。
一時は崇徳院勢も抵抗をみせるが、火攻めによって総崩れとなり、崇徳院や藤原頼長は敗走した。

崇徳院が出頭すると、それにともなって院方についていた貴族や武士も投降した。
武士らに対する処罰は厳しく、多くが斬首となった。崇徳院は命は長らえたものの、讃岐へ配流が言い渡された。
天皇・上皇の流罪は淳仁天皇以来400年ぶりのことであり、崇徳院にとって屈辱的な処分であった。院に同行したのは、寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだったという。

讃岐に流刑となった崇徳院の心の支えとなったのは、和歌ともうひとつ、仏教であった。
崇徳院は『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』の写本を書き、戦死者の供養と反省の証に、京の寺にこれを収めてほしいと朝廷に差し出した。
しかし後白河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。
崇徳院は最後の純粋な思いまでも弟に踏み躙られ、大激怒した。院は自ら舌を噛み切り、写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と、その血で書き込んだ。
そして崩御するまで爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような姿になり、後には天狗になったと云う。

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雨降る中、香川県坂出市の「青海神社」(おおみじんじゃ)を訪ねました。

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空を覆う大樹。

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当社は「煙ノ宮」(けむりのみや)とも呼ばれます。

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青海神社境内には、崇徳上皇の白峯稜への参拝道のひとつ、西行法師の道があります。

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保元の乱によって讃岐国へ配流された崇徳上皇は、その後二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御しました。
一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたとも云われています。

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まさに青い海といった感じの、水の気配が濃い神社。

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煙の宮とは、崇神上皇のご遺体が9月18日に白峯山上で荼毘に付され、そのときの煙が当地に紫煙棚引き留まるも消え失せた跡に一霊が残った、との言い伝えによります。

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春日神社神官の福家安明が宮殿を造営して上皇の霊を奉斎したのが創建の由来です。

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神社拝詞
「掛けまくも畏き青神神社の大前を拝み奉りて恐み恐みも曰さく大神等の廣き厚き御恵を辱み奉り高き尊き神教のまにまに天皇を仰ぎ奉り直き正しき真心もちて誠の道に違ふことなく負ひ持つ業に励ましめ給ひ家門高く身健かに世のため人のために尽くさしめ給へと恐み恐みも曰す」

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摂社は白木神社、傳徳神社、八幡神社、築留神社、伊勢神社などがありました。

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香川県坂出市高屋町の狭い路地の先に「高家神社」がありました。

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雨が少し強くなってきました。

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当社は、別に「血ノ宮」とも呼ばれています。

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八十場から崇神上皇の亡骸を葬送していると、突如として空を雲が覆い、風雨雷鳴に遭いました。

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そこで、しばらく棺を当地に安置してると、棺から血が溢れ、台石に血が流れたことから血ノ宮と呼ばれるようになったと伝えられます。

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本殿の右横、

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そこに、崇徳上皇の血が滴ったという台石が奉られています。

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崇徳上皇の葬儀は国司によって行われましたが、この時、朝廷は何もせず、後白河法皇は兄の死さえも徹底的に無視しました。
生前も権力・思惑に翻弄された崇徳上皇でしたが、御魂さえも顧みられることはなかったのです。

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それからしばらく、京は平穏を取り戻していました。ところが安元2年(1176年)、建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去するという出来事が起きました。
後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、これは崇徳上皇や頼長の怨霊の仕業ではないかと噂されるようになります。

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そして翌年の安元3年(1177年)、「延暦寺の強訴」「安元の大火」「鹿ケ谷の陰謀」(ししがたにのいんぼう)といった事件が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ、長く続く動乱の始まりとなりました。
精神的に追い詰められた後白河法皇は、ここに至って兄の御魂を鎮めようと「保元の宣命」を破却し、配流によって「讃岐院」と呼ばれていた崇徳上皇の院号を「崇徳院」に改め、頼長には正一位太政大臣が追贈されました。

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寿永3年(1184年)、「保元の乱」の戦場だった春日河原に「崇徳院廟」(粟田宮)が建てられます。
こうして崇徳上皇の怨霊としてのイメージが定着し、「菅原道真」「平将門」と並ぶ日本三大怨霊として今に語られるようになりました。

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香川県坂出市に鎮座の「白峰宮」(しろみねぐう)を参拝します。

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当社は明治維新以前は「崇徳天皇社」と呼ばれており、また、「明ノ宮」(あかりのみや)とも呼ばれていました。

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訪れてみると、赤い三つ鳥居があり、軽い驚きを感じます。

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讃岐国へ配流された崇徳上皇は、最初の約3年間を林田の雲井御所で過ごした後、長寛2年(1164年)旧暦8月26日に崩御するまでの約6年間は鼓岳の御堂に幽閉されていたと云われます。
その鼓岳と比定される場所の一つが当地です。

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後白河法皇の第一皇子・二条天皇の宣旨を受け、崩御したその年のうちに御所の跡に上皇の鎮魂のため崇徳天皇社が造営されました。それが当社創建の由来となります。
その後、寛元2年(1244年)後嵯峨天皇により再建、荘園が施入され、その際、摩尼珠院を別当寺としました。

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時代は下り、幕末の動乱を憂いた孝明天皇は、崇徳上皇の御霊を京都に戻し鎮魂することを提案しましたが、慶応2年(1866年)旧暦12月25日に実現しないまま崩御しました。
明治天皇は孝明天皇の意志を受け継ぎ、崇神上皇の命日の慶応4年旧暦8月26日、自らの即位の礼を執り行うに際して讃岐に勅使を派遣し、9月6日に上皇の御霊を京都の白峯宮に遷座、翌日その御霊を明治天皇は参拝しました。
当宮から崇徳上皇の御霊が京都へと戻った後、崇徳天皇社は白峰宮として、天照大神とカナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となり、現在に至ります。

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昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせています。

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現代においても、天皇家に特別な存在としてあり続ける三代怨霊の一柱。
日本には、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の御魂を「怨霊」として畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより逆に守ってもらうという「御霊信仰」(ごりょうしんこう)なるものがあります。現に崇徳上皇は、今や四国全体の守り神として祀られています。

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しかし本当に、菅原道真、平将門、そして崇徳上皇の御魂は、怨霊になったのでしょうか。
出雲大社弥彦神社も、そうした御魂を封印しているのだと云う説を聞くことがあります。
確かに出雲の血を引く御魂は、霊的に強いものをもっていることでしょう。
しかし僕には、彼らが死して怨霊となったとは、どうしても思えないのです。

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怨霊とは、罪を犯した側、理不尽に理を曲げた側の、心の負の側面が形作る現象なのではないかと推察します。
負い目があるからこそ、罪の意識があるからこそ、その心象風景が現世に投影されているのではないのでしょうか。

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悪しきことを為した者でも、罪悪感を抱いているという点においては、御霊信仰も日本的であると言うことができます。
空気のように嘘を吐く人、悪しきを行ってもおよそ罪の意識が皆無な人、そのような人々が多く暮らす国においては、御霊信仰が生まれない道理です。

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「思ひやれ 都はるかに 沖つ波 立ちへだてたる 心細さを」
(沖の波よ、都から遥か遠い讃岐の地で生きる心細さを、思い察しておくれ)

「ほととぎす 夜半に鳴くこそ 哀れなれ 闇に惑ふは なれ独りかは」
(夜に鳴くホトトギスの声の哀れなことよ。でも闇に思い迷っているのは、お前一人ではないのだよ)

「憂きこと のどろむ程は 忘られて 覚めれば夢の 心地こそすれ」
(つらいことは、うとうととまどろむ間は忘れられるが、それも眠りから覚めれば、夢のように儚いものよ)

崇徳上皇は流刑の地・讃岐でこれらの歌を詠いました。果たしてこれが、怨霊となる人の歌に思えるでしょうか。

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白峰宮から徒歩5分の場所に、「八十場の霊泉」(やそばのれいせん)と呼ばれる湧水があります。

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伝説によれば、景行帝の時代に瀬戸内で暴れていた「悪魚」と言う怪物がおり、帝は讃留霊皇子(さるれおうじ)にこれの退治を命じたとあります。
皇子は88人の部下を率いて悪魚退治に向かいますが、その毒気に当てられて、全員が昏倒してしまいました。そこへ神童が現れ、この霊泉の水を飲ませると、皆正気に戻ったと言い伝えられます。

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この泉は干魃で涸れることがなく、古来より讃岐の童歌に「やそばの水はドンドン落ちる つるべでくんで ヤッコでかやせ」と唄い継がれてきました。

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崇徳上皇が崩御した際、京からの使者が到着するまでの20数日間、この泉に遺体を浸していたところ全く腐敗しなかった、と言い伝えられます。
またその間、毎夜、上皇の御所があったとされる所から神光が輝いたとも云われています。

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八十場の霊泉では、江戸時代から続くと言う「清水屋」さんで、美味しいところてんをいただくことができます。

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味もさまざまで、甘いと辛いの無限ループに涼を感じました。

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座敷わらしの宿に泊まった時も思いましたが、わらしさんになった人も、神になった人も、ご先祖さまも、大抵は生前苦しい思いをし、天命の長短はあれどそれでも精一杯人生を生きたのだと思います。
なので天寿を完うし、御魂になってまでも僕らの守り神や願いを叶えるために在り続けるのではなく、あなた自身の幸せのために安らかであって欲しいと、僕は願います。
僕らが今、苦しい時を過ごそうと、幸せなひとときを得ようと、それは僕ら自身の生き様の結果であり、僕ら自身がケリをつける事なのです。

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崇徳上皇が過ごした最後の6年間は、粗末な小屋に監視付きの、幽閉同然の暮らしでした。
しかしその前の3年間は、ささやかな平穏がありました。
保元元年(1156年)8月3日、崇徳上皇を乗せた船が讃岐国松山の津に到着すると、讃岐の豪族で国司庁の首席官人「綾高遠」(あやのたかとお)は歓待しました。
綾高遠が崇徳上皇のために用意した館は「雲井御所」と呼ばれます。
高遠は娘の「綾局」(あやのつぼね)を侍女として崇徳院に奉公させ、娘は崇徳上皇との間に、1男1女を儲けたといいます。
その穏やかな幸せを、まどろみの中、覚めぬ夢を見て御休みいただきたいと願うのです。

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2件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター hiroban2 より:

    おっしゃるとおりで、心にやましいものを持つ側が、身の回りにおける不都合の原因を祟りにするのでしょう。
    平等院なんて、政敵を貶めてなりあがった者共が権力に物を言わせ現世に理想郷をでっちあげ来世を夢見るおとぎの国でしょう。
    ただ、でっちあげた祟り神が結界の役割を果たすと考えたらしく、京都はこの手の神社に囲まえれていますね。
    そこの宮司は祟り神の親族が代々務めていることが多いと思います。
    生きのこる為には仕方ないのでしょう。

    滅ぼされ、貶められ、祟り神にされた側は迷惑千万でしょうね。
    その上、鳥居(檻)で閉じ込められ、無辜?の民の哀れみと自分勝手な祈り(現世利益)の処理を押し付けられているように思います。

    私の目の前にも、真名を取り上げられ、でっちあげの戒名(聖徳太子)を押し付けられた存在があります。
    その上、家来の子孫を寺人にして祀られれば逆らえないでしょう。

    崇徳上皇は、我が家では「たかのり君」の愛称で呼んでおりますが、同族に疎まれ恐れられ利用されている存在ですね。
    天皇を祀る神社が少ないのもこのためではないかと邪推しています。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      純粋に自然神に感謝し、先祖神に崇敬を抱くだけではダメなのでしょうかね。
      祈願とか言って、自分たちの利益の為に神を利用するという発想が、僕には人の傲慢に見えてしまいます。

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