
むか~し、むかしのぽんぽこぽん。
平安時代の終わり頃、讃岐の国の瀬戸内に、ぽっかり浮かぶ屋島の洞窟に、1匹のたぬきがすんどった。
たぬきがいつものように、ぶらぶらと散歩しとると、一本の矢がビュンと飛んできて、ぷすりとたぬきに刺さってしもうた。
「いたい、いたい、わっしはもういかんじゃぁ」
あわや命も尽っきょるそのたぬきのところに、一人の男がやってきた。
「おい、どうした。流れ矢受けてしもうたか。よしよし、すぐに助けたろう」
そうして一命取り留めたたぬきに、男は言うた。
「あぶないところやったな。お主、名はなんと言うんじゃ。私は平家の重盛や」
「わっしは太三郎と言います」
「そうか、太三郎。屋島はお主の住まいであろうが、申し訳ない。ここは間も無う合戦の場となるゆえ、安全なところに隠れていなさい」
それからしばらくしたころ、太三郎が屋島で昼寝しとると、下の方が騒がしい。何が起きたか、と見てみたら、重盛の言うた通り平家と源氏の戦が始まっとった。
太三郎は木の上に登って戦を見物することにした。
「平家がんばれ~」
太三郎は当然のことながら、命の恩人である重盛を応援した。
夕刻、海に出た平家方から、女官が乗った小舟が現れた。女は先っちょに扇を取り付けた竿を手にしとった。
すると岸から弓を持った源氏方のひとりが馬ごと海に乗り入れ、ピュンと矢を放ったんやけど、これが見事、扇を射落とした。
「ほおぉ~見事なもんじゃ」
太三郎が目ぇまん丸にして見よると、今度は年五十ほど、黒革おどしの鎧着、白柄の長刀を持った平氏の者が、扇のあった舟の上で舞い始めた。
すると先程の源氏の武士が、これまたピュンと矢放って、踊る武士を射抜いてしもうた。
そなんことがあってからというもの、平家は西に西に逃れ、ついには壇ノ浦で滅亡したのだと、太三郎は風の噂に聞いた。
あるとき、太三郎が昼寝しとると、旅の僧らしき老人が屋島に訪れた。
「じいさん、目が見えんのか」
「おお、おお、どなたかは存じんが、私はこのように盲目の身や。この辺りでどこか身寄せる場所はござらんか」
「この島の山の上にあるわい。わっしが案内しよう」
その旅の僧は鑑真と言い、屋島の山の上に留まって、屋島寺を築いた。
またあるとき、屋島は深い霧につつまれ、太三郎は山中で道に迷う旅の僧に出会うた。
「この辺りに屋島寺があると聞いて伺うたけど、霧のため道に迷ってしまった」
「わっしが案内しよう」
その旅の僧は空海と言うた。
屋島寺で鑑真や空海の最初の弟子となったのが太三郎やった。二人の教えに感銘受けた太三郎は、たぬきの徳を高めるべく、屋島に教育の場を設け、全国から集まった若いたぬきたちに勉学を施すようになった。
また太三郎は、屋島に戦乱や凶事が起きそうなときは、いち早う屋島寺の住職に知らせ、寺を守ってきた。そうした経緯で太三郎は屋島寺の守護神となったのや。
大寒になると300匹のたぬきが屋島に集まり、太三郎狸はかつて自分が見た源平合戦の様子を幻術使うて皆に見した。その化けぶりはがいに見事なもので、次第に四国狸の総大将と言われるようになった。
ほんで屋島寺の住職が代替わりする際にも、寺内の庭園「雪の庭」を舞台とし、合戦の模様を住職の夢枕で再現してきたのやった。
そなん屋島の太三郎も、ある時なんちゃ知らん猟師によって、撃ち殺されてしもうた。
その後、太三郎の霊は阿波に移り棲み、人に憑くようになった。
嘉永年間には阿波郡林村の髪結いの女性に憑き、吉凶予言したり、狸憑き落としとったと記録に残っとるのやった。
ぽんぽこぽんぽこ、ぽんぽこりん。


「屋島」(やしま/屋嶋)は、香川県高松市の北東に位置する、硬質の溶岩に覆われた平坦面が侵食された残丘です。

屋島は江戸時代までは陸から離れた島でしたが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ、今は陸続きとなっています。
その姿が屋根のような形状をしているというのが名の由来で、古来から瀬戸内海の海路の目印となってきました。

屋島は、一ノ谷の戦いに敗れた伊勢平氏が安徳天皇を奉じたまま撤退してきた四国東端の軍事要衝でしたが、源氏の追撃を受け、屋島の戦いの戦場となりました。

この戦いでは、源氏方の那須与一が平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした逸話などが有名です。

屋島を登っていると、上り坂なのに下りのように見える、いわゆる幽霊坂がありました。

僕はさっそく、狸に化かされているのかも知れません。

「屋島寺」(やしまじ)は、屋島の南嶺山上にある真言宗御室派の寺院です。
南面山(なんめんざん)、千光院(せんこういん)と号します。

四国八十八箇所第八十四番札所で、本尊真言は「おん ばさら たらま きりく」。

「梓弓(あずさゆみ)屋島の宮(みや)に詣でつつ 祈りをかけて勇む武夫(もののふ)」
律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったといわれています。

本尊は千手観音菩薩。

さて、本日僕が当地を訪ねた目的は、屋島寺の横に鎮座する小さな社。

「蓑山大明神」です。

参道の入口には、夫婦のたぬきの石像があります。

たぬきは、一夫一婦制の習性があるとされており、蓑山大明神は夫婦円満、家庭円満、縁結びの神とされています。

また商売繁盛、水商売の神でもあり、子宝や福運をもたらすともいわれます。

THE ムスコーs♪

蓑山大明神の名の由来は、霧の深い山中で道に迷った空海を、蓑笠姿の老人に化けた太三郎狸(たさぶろうたぬき)が案内したことに由来されると思われますが、この太三郎狸は、一般に「屋島の禿狸」(やしまのはげだぬき)として知られ、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に、日本三名狸とされています。

実は屋島寺では禿狸の名は使われておらず、禿狸は高松市内にある浄願寺に住む狸のことであるとされています。

浄願寺の「はげさん」は、太三郎狸の弟分で、里は屋島だが、源平合戦のとき物騒だからとすみかを移したとのこと。
借金で正月を迎えられない老夫婦のために、金のやかんに化けて金持ちに売られることで金銭を工面したのだそうです。金持ちは金のやかんを火にかけ、ごしごしこすったので、頭に禿げができてしまったのだとか。
なんとか逃げ出したはげさんは、浄願寺で「白禿大明神」として祀られています。

つまり、屋島の太三郎狸「蓑山大明神」と浄願寺の禿狸「白禿大明神」は別のタヌ物で、タヌ違いなのですが、いつしか混同されて屋島の禿狸と呼ばれるようになったのです。たぬたぬ。

しかし両タヌはいずれも人情味熱いたぬたぬ。今なお讃岐の人々に愛されていることに、違いはありません。

屋島寺本堂の横にたたずむ「蓑山塚」は、塚ということなので、太三郎狸が眠っている場所なのではないかと思われますが、中央に祀られるお狸様はどうみてもメス狸。
太三郎は女の子だったのでしょうか。

この塚には、参拝者がタヌキの置物を残していくのだそうで、タヌまみれになっています。
大元出版・谷戸貞彦著の『幸の神と竜』及び『サルタ彦大神と竜』には、「たぬきの語源」として次のように記されます。

滋賀県の南端に、信楽町がある。そこでは、有名な信楽焼の笠ダヌキが作られている。
下げている徳利はオハセを暗喩する。それは、サルタ彦神が形を変えたものだと言われる。
タヌキは精が強い訳でも、フグリが大きい訳でもない。元気な男の代名詞になったのは、「田貫き」の言葉からだった。
農村では昔、女系家族制だったから、妻の宿に婿が夜呼合いに行く。それを日本文学では「田貫き」に行く、と言う。
田は大地の女神で、貫くとはツルムことを意味する。夜歩いて行く彼らを「タヌキが歩く」と言う。

このタヌキの表現が江戸初期まで使われ、その言葉から陶工が、「笠ダヌキ」を作った。それが刀自に喜ばれ、宿の入口に飾られた。
それが今では、小型のものも作られ、室内に飾られる。
笠は笠神を意味する。笠の外側には、女神の同心円が描かれる。
中心には、和合の印の十字が付けられる。

頬の三点は、幸の神。三神の表章だ。笠の紐の結びは、縁結びの働きを示す。
フグリは大きめに作られ、オハセは上向きが縁起が良いと言われる。
これを家に置くと、子どもが良縁に恵まれ、子孫繁栄になると言われる。

驚いたことに、蓑山大明神の裏に稲荷社がひっそり隠れていました。

逸話では、空海が四国から狐を全て追い出してしまった、だから狸しかいないといわれます。
しかし実際はそんなことはなく、特に阿波の神の本質は大宜津比売、つまり稲荷神であると思われます。

そしてこのひっそりと隠れた稲荷神は、

なんと朝日丸姉さんでした。

屋島寺から数分歩くと、「獅子の霊巌」(ししのれいがん)という展望台があります。

そこは高松市内、五色台、男木、女木の島々など多島海の美しさを満喫でき、夕陽や夜景の人気スポットでもあります。

一夫一婦の契りを守り、縁結びの神となった太三郎狸。
彼は後に猟師に撃たれて命を落としますが、死後の霊は阿波(徳島)に移り棲み、人に憑くようになったといいます。

江戸時代末期に起きたという狸たちの大戦争・阿波狸合戦の際、日開野村(小松島市)の狸が人に憑いて語ったところによれば、合戦で金長狸と六右衛門狸が相討ちとなった後、双方の2代目同士によって弔い合戦が行なわれようとしたところ、太三郎狸の仲裁によって事が収まったのだということです。
人々を愛し、狸を愛したユーモラスな太三郎狸の霊は、今もどこかの木の上で僕らの日常風俗をながめながら、昼のうたた寝をしているのかもしれません。
ぽんぽこぽんぽこ、ぽんぽこりん。


💯🇪🇦👋
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