
仁多郡阿井村には、神代に因む地名が少なからず現存して居る。奥内谷には夫婦掘、伊弉冊と云ふ地名がある。伊弉冊には岩柵があって、其下廣さ十畳敷位あらう。尊が此處に居住せられたと伝えられて居る鯛巣山の五合目には、籠岩(こもりいは)と云ふ大きな岩石がある。俗に蝙蝠岩と云って居る。これは昔伊弉冊命が、七日七夜難産して、籠られたと伝えて居る。猿政山の山麓に、尊原と云ふ所あり。伊弉冊尊を祭って居る。
『島根県口碑伝説集』(島根県教育会 編)


島根県仁多郡の奥出雲町に、「伊弉冊」(いざなみ)という名前の集落があります。
Googleマップで確認できるのは、阿井川の支流である伊弉冊川のみ。
https://goo.gl/maps/N9B83W5z8UeLH7UL9
国道432号線から伊弉冊川方面に右折して進みます。
その道は、ストリートビューでも確認することができました。

側道に入ってすぐに、目に留まる場所があります。

集落の地主神を祀ったものだと思われますが、あまり聞いたことのない荒神が多数祀られており、とても神秘的な雰囲気のところでした。
大切な場所でしょうから、そっと手を合わせて、すぐにその場を立ち去ります。

さて、ストリートビューでご確認いただければ、この側道の道がどんな感じかおわかり頂けると思います。
Uターンする場所も僅かな細道を、勇気を持って進み、運が良ければこの様な建物を見つけることができるでしょう。

少し離れた場所に車を停めて、小屋に近づきます。

それは「伊弉冊神社」とも、神楽殿とも呼ばれている様です。

見た感じ、目的の場所を遥拝する建物のようです。

目的の場所というのは、「伊弉冊の岩柵」と呼ばれる磐座です。
この付近にあると聞いていたのですが、まるで見当たりません。

山中にあるのでしょうか。
少し散策してみましたが、スマホで情報を確認しようにも電波は全く届かず、途方に暮れて引き返すことにしました。


心が折れた理由は他にもありました。
この時僕は、アブとハチの軍団にエンカウントしていたのです。
蛇にも遭遇していました。
怖すぎる。。

すぐそばを流れる伊弉冊川は、とても清らかで美しい川ですが、故に恐ろしげにも感じられます。

一旦、国道のところまで戻ってきましたが、回復した電波を頼りに、情報を再検索するも有力情報を得ることができません。
でもやはり、どうしても諦めきれず、僕はまたあの場所に引き返してしまったのです。

『島根県口碑伝説集』(昭和2年 島根県教育会 編)に、伊弉冊の岩棚をはじめとした、島根県仁多郡阿井村のイザナミの神跡についての話が載っていました。
他に鯛ノ巣山、猿政山中腹にも、イザナミの籠った岩屋(岩窟)があるそうですが、猿政山に関しては遭難者が多発している様で、現在入山禁止となっています。
猿政山は「山に神の御門あり 故、御坂と云う」と風土記にも記載され、イザナミの御陵候補の一つとされています。

しかし僕は、世にも稀な、女神の名で呼ばれるこの土地の神跡がどうしても気になります。
何故に伊弉冊の名が付けられたのか。

再び伊弉冊神社に戻ってきた僕は、防御対策として、たまたま持っていた簡易雨ガッパを羽織り、さらに防虫スプレーをこれでもかってくらい振りかけて、決死の思いで山に入ることにしました。
実は先ほど、かすかに人が歩いた跡の、およそ道とは呼べないそんな痕跡を見つけてはいたのです。
が、すぐにはそこへ踏み込む勇気が持てないでいました。

この道は険しく、滑落の危険が大いにある道です。
本当は、一人で訪ねて良い場所ではありません。

道が合っているのか、不安になっていると、

巨大な磐座に遭遇しました。

今にも噛みつきそうな、獅子顔の磐座。
この前の細道を通り抜けなければなりません。

途中で別れ道のような場所もあり、迷いましたが、とりあえず上を目指すことにしました。

岩の上に根を張る立派な木。

後で気がつきましたが、この巨大な岩も、目的の磐座の一部でした。

この窪みも、なんだか気になります。

時間にすると10分ほどでしょうが、とても長く感じた孤独の中、ようやくそれが姿を現しました。

山の斜面に、ぽっかりと口を開いた岩屋。

張られたしめ縄が、そこが聖域であることを示しています。

岩棚という表現がぴったりな、平たい岩盤。
その岩窟は、獣の顎のように見えました。

当地を伊弉冊と呼ぶのは、女神が降り立った場所と伝えられることが由来の様です。
この岩棚の情報は極めて少ないのですが、地元では伊弉冊命が一夜を過ごした、暫く休まれた、あるいは一説に亡くなられた場所だと云い、「みことさん」と呼び親しんでいるそうです。

なぜ、岩屋に祀られる神がイザナギではなくイザナミなのか。
イザナミは冥界に赴いた女神であるから、黄泉の神の象徴として祀られるのではないでしょうか。
古代の葬儀は風葬が行われており、岩屋はそうした風葬地であった場所も少なくありません。
このあたりは吉備国との境界に位置しており、多くの出雲兵、古代出雲人が亡くなった場所でもあります。

そうした御魂が、数多く鎮められた神跡であり、そこに冥界の女神が祀られてきたのかもしれないと、木々のざわめきを聴きながら、思ったのでした。

narisawa110
仁田郡ですか。二田物部氏が越智とセットで弥彦神社の手前まで来ているわけですから、どうなのかと考え、調べてみました。でも、二田物部氏は金子さんの流れとは違う気がする。三瓶山と仁田郡は離れすぎてますかね。
一応、近くの八代地籍に磐座のみのマニアックな白山神社がある様ですが。
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仁田と新田は関係ありますかね?
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narisawa110
仁井田、新多、新田、仁多、仁田…は他の方も注目されてますね。
ttps://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12419085535.html
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この方は九州王朝説のかたですね☺️
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門外不出だった身内の領域概略図を出してきました😅 今も道は変わってないと言えます。山の裾を縫い川沿いが境界線。 R184に沿っていまして、その横は智伊神社近くに注ぐ神戸川の上流。”神戸”川というのが佐毘売山から遥か遡った奥の飯南町から流れているのが陣地奥深くに「神門郷戸」の名でニヤリとします。 つまり境界は現在の佐田町あたり、須佐神社もスレスレで阿井のほうは別家のエリアと認識いたします。 吉備との戦の頃の記載も伊弉冊に関しての資料もまったく無く… 二田物部氏といえば柏崎訪問していますが、直接の接点は不明なのです。
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二田物部さんは、物部とはまた違う感じがしますね。
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金子先生
Σ( Д )ﻌﻌﻌﻌ⊙ ⊙
な、なるほど、そういう資料が門外不出になったりするわけでありますね。
石見の国や出雲にはどんな物部さんたちが土着したんでしょうね。金子様、秋上氏以外には島根県に他の苗字を変えた男系物部さんはいらっしゃるんでしょうか?
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物部姓を名乗らなく(立場上有利に)なる時期はかなり差があると感じ、秋上家以外はさほど古くないと思われます。金子は公式には平安末期ですがその前に20代以上で6世紀から。土着の姓を名乗った形で、伝承にある他家で物部男系というと、現在の宮司さんの中田家以外明確な男系家系は見当たりません。女系同士の関係のほうが濃密かもしれません。中田家は見事に現・大田市土着で、西出雲と深い関係が出てこないんです。よっぽど純物部の血が濃いかもしれません; 弓削氏は女系で男系弓削は吉備でしょうし…
ヤマトから戻ってる山辺(山部)は6-7世紀に名乗ってそうです。
余談ですがうちの媛様たちの名前、紛らわしく 姉 ・ゆか 妹・ゆうかですが ”か”の部分 姉に夏、妹が花で 二人足すと物部夏花 なのです。 すごい執念笑
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narisawa110
金子先生
夏花さま、確かに確認いたしました。「物部君、物部臣」と言う考え方もあるのですね。お名前の付け方も橋本に通じる言霊的な考え方を感じます。神門臣家は九州征伐に関係してたんでしょうかね。とても勉強になる機会を頂きました。暫く慎重にモグモグ咀嚼したいと考えております。
忘備録(暫定)
ttps://www.shinyash.jp/mononobe.html
ttp://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kenu1g.htm
抜粋「(1) 関東の両毛・常陸及び信濃地方……毛野氏族は当初から二流あって、上野東部から下野に展開した御諸別命の系統と、その弟の夏花命の系統であり、夏花命後裔は上野西部に展開して物部君・朝倉君等の諸氏となったとみられる。」
「頸城郡式内十三社調査概報」(宮栄二/著 『越佐研究』9号 新潟県人文研究会 1955)においては、「中頸城郡菅原村大字南田中」にある新潟のもう一つの物部神社と、二田物部神社との関連を推測する若干の記述があった気がします。
夏花命は中興の祖であったのでしょうか?子孫の方々のお名前は昔の系図から付けられることが多いのですね。これは正に中の方々でなければ分からない事でありますね。
朝倉氏も、トオチネの本当に近い系図の方だったという事なのでしょうね。系図から引っ張ってくると、我々が思う朝倉の系図とずれが生じるので、簡単には理解できない事も分かりました。
整理しようと思っても、本当に大変そう・・
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橋本家を見ても、名前へのこだわりがかなり強いですね。
佐織さんは、名前に口伝を隠したと言いますが、なるほどと思います。
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名前の文字に関しての言霊意識は隠し口伝でもありまして、名の文字は先祖を称えるだけでなく戦った相手への敬意も隠されていると聞きます。 公開されている特定人物の評伝を覆しかねないものもあるゆえ出せないと姉がうるさく言っておりました。物部夏花についても九州北部への斬込みだけではなく、豊家との結びつきにも多く関与するとも(女子のみの口伝もあり私が知らないこと多々です)豊家の媛になぜウチの媛達が異様なほど執着するか😅 佐織様同様天然っぷりで「たまちゃ~ん❤」ですから目も当てられません。 名前ついでに暴露ですが 「智」の字を母と従姉妹が使っておりまして、従姉妹の名は「智衣」と書いて「ちえ」皆からはちぃちゃんです。 神門の念ですね… さらについでは私の本名 「富◯」ですからもう笑うしか😂
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戦った相手への敬意も隠されている、というのは胸アツですね😊
名前は最初の呪であると、たしか安倍晴明の漫画でも言っていました。
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narisawa110
改めて石上の宮司の系図を見ると、(私が神門家が物部化したと考えていた)物部額田さんがおられまして、婚姻関係と、もうひとつ、名前つけ方の言霊説、二面の可能性を踏まえてでこういう系図になったのかと考える必要が出てきたと思います。言霊説の場合はもっと昔に習合していた可能性を検討しなければならんのですね。
あと、密かにもう一つの物部神社の「中頸城郡菅原村大字南田中」の田中地籍。濃い~系の物部氏の田中さん新潟にいらしゃったのでしょうかね。
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「>名前は最初の呪であると」 封印にもなり、また鎮魂でもあり、称えることもあり、名も祭祀である。と常々☺️
石上神宮の額田氏は元は京都の方からであったように記憶しておりますが、もし名を貰ったのだとすると時代が変わる… 謎増えてしまいました💦
新潟の物部神社の字名、田中が入っているのですね。それは初見でした。濃いぃのは石見土着”中田”でして田中をひっくり返したわけではなさそうな地域民で宮司家親族以外におります。福岡の物部田中が新潟まで行っていたのかはハテ…🤔 朝倉も絡んできてややこしや😅
岡山の石上布都御魂のようにシンプルに和邇物部一本だったりすると有り難いのですが😆
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横から質問で失礼します。
“弓削氏は女系で男系弓削は吉備”との所、理解力のなさでよく解からないのですが…
弓削氏は物部氏が母方でつないでいる血統である一方、吉備氏は弓削氏が父方のみで繋いだ血統との理解で大丈夫でしょうか?
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三九郎様 弓削両系説もあり、物部内に傍系として称されているのが女系で、弓削氏の名を強く残しているのが男系と見てもいいのではと思っています。吉備氏攻略について、例えば石上布都魂神社の周辺は物部本家隊が占領した地域ではなく、分家がメインであるからして石上を名乗り、ひょっとしたら(ひょっとしなくても☺️)出雲色があるのかなと思うとしっくり来ます。その北の隣接町が現在の久米南町、元弓削町です。JR津山線に現在も弓削駅があります。久米南町は弓削発祥の大阪八尾を別としたら弓削姓人口比率特異地域です。西都原・都万の宮崎県西都市も同様で、徹底して名を残すところは男系の癖が出ているものと見ています。一昨年現地訪問してきました。これ以上突っ込むと吉備津彦の領域になりそうなので🙇♂️
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金子様 ありがとうございます。返信のツリーを重ねられなかったので、こちらにて。
googleマップで確認したり、ネットで色々な資料みたりで返信に時間がかかってしまいました。
なるほど… 河内に地盤を置いた弓削氏は、主に女系で繋いだ家である一方で、吉備などに移動した一派は、弓削氏の男系相続で繋いでいった家、とのニュアンスで間違いないでしょうか。
地名で自己主張していくという手法は、各・男系の家に見える傾向なんですね。
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🐥伊弉冊(イザナミ)さん専用の逢い引きスポットですかね🐤一夜を過ごすとか🐣
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イザナミさんと一夜の逢引きに訪れたら、合挽きにされそうな場所です。。。
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🐥伊弉諾(イザナギ)さんに合挽きにされるんですな🐣修羅場乙🪭
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