恵曇神社

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島根県松江市鹿島町佐陀本郷にある「恵曇神社」(えともじんじゃ)を訪ねました。

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民家をすり抜けて、なだらかな坂道を登ります。
この神社、どんなとこにあるかというと、

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こんなとこ、島根半島の日本海側に鎮座していました。
(磐座)と付いている方の恵曇神社が、今回訪れた場所です。

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『出雲国風土記』の秋鹿(あいか)郡条に、
「恵曇の郷。郡役所の東北九里四十歩。須作能乎命の子、磐坂日子命が国をめぐりし時に至りて言うには、”ここは国が若々しく美しいところだ。地形はまるで画鞆(えとも)のようだ。私の宮はここに造ることにしよう”だから、恵伴(えとも)という。神亀3年(726)に字を恵曇と改めた」
とあります。

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天平5年(733年)に完成という『出雲国風土記』には、神祇官社として「恵杼毛社」(えとももやしろ)の記載があり、他に「恵曇海辺社」「同海辺社」の2社があるとしています。

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この風土記に記載されている3社のうち、式内社(神祇官社)の「恵曇神社」はどの神社に比定されるのか、ということで二つの地区住民でちょっとした争議がありました。

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それがこの2社の恵曇神社です。
内陸の(磐座)とある方が畑垣の恵曇神社で、海辺の方が曇町江角(えすみ)の恵曇神社となります。
当初は畑垣の方が「恵杼毛社」であり、江角の方は「恵曇海辺社・同海辺社」」と比定されていました。しかし、元禄年間ごろに、江角の恵曇神社側から異議がとなえられます。
明治に入ると、江角の惠曇神社が延喜式所載の恵曇神社であると松江縣に認定され、それまでの郷社・村社の社格が入れ替わることになりました。
すると当然、畑書の惠曇神社側の村民も請願を起こし、その結果、明治11年に両社ともに「惠曇神社」の社号を掲げることが許可されたということです。

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個人的には、海側の江角恵曇神社も重要な聖地であると考えますが、やはり本来の「恵杼毛社」はこちらだったのではないかと僕は思います。

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それは、当社の本殿右上に、巨大な磐座が存在するからです。

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さて、階段をひいこら登りましょう。

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階段はせまく、蜘蛛の巣トラップが至る所に仕掛けられていますが、ご安心ください。すぐに目的のイチモツは現れます。

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はい、ド~ン!
あら素敵♪
天を突き破るほどにそそり立つガンダムです。

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この「座王さん」と呼び親しまれる磐座は、「恵杼毛社」の祭神である「磐坂日子命」(いわさかひこのみこと)が国巡りの際の腰掛けたと伝えられるものですが、どうみても古代人のサイノカミ信仰の磐座であり、これがあるから当地の王がイワサカヒコと呼ばれたのだと想像できます。

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また案内板のもありますが、宍道湖を挟んで対岸にある「女夫岩遺跡」と対になる磐座の可能性も高く、かつて島根半島が離島であった際には、船で逢瀬する祭祀があったのではないかと想像します。

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彼女の相方さんはどちらにいらっしゃるのか、長年の謎でしたが、こんなところにいらっしゃいました。
こちらのカップルは、ひょっとすると、奈良の「益田岩船」と兵庫の「石の宝殿」の原型かもしれません。

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しかし気になるのが、イワサカヒコはスサノオの子だという点です。
これもスサノオ=徐福と考えると、おかしな話となります。
ここでいうスサノオも、スガノヤツミミ王のことではないかと思われます。

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ただ、地名の畑垣が「秦ガキ」だとしたら、やはりスサノオは徐福であり、後に秦氏による祭神の書き換えが行われたか、もともと島根半島は秦氏寄りの一族が支配していた可能性も出て来ます。

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というのも、かつて海が内陸まで至っていた時代、島根半島の中心地は佐太神社の地であったろうと、その防御性の高い地形からも想像できるのですが、外海から佐太神社に至る海路で重要な拠点として、二つの恵曇神社が鎮座しているからです。
古くは、佐陀大社の神在祭に佐陀の浦に集い給う神々は、まず当社で休息すると江角の恵曇神社には伝えられており、そのことを物語っています。
佐太大神は、「加賀の潜戸」で生まれたと伝えられていますが、この神はサルタ彦ではなく、海神、渡海系の神である可能性も高いのです。

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出雲に移り住んで、出雲の聖地を巡礼されている”あんでぃ”さんは、かつて離島であったであろう島根半島側と出雲本土側では、風土や祭祀の痕跡に違いがあると話してくださいました。
半島側は、祭神にサルタ彦を祀るところが多く、本土側には少ないのだとか。
なるほど、確かにその可能性は高く、そうするとなぜ島根半島の東端に、あの聖地があるのかという疑問も湧いてくるのでした。

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1件のコメント 追加

  1. 出芽のSUETSUGU より:

    民家の間から上がって、磐座も拝殿横にある手すりつきの急な狭い階段を上がって、確かに

    ド~ン! でした。

    そびえ立っているので、上向いてボーとしてたら、落っこちそうで
    。。。雰囲気もなんだか怖かったです。でも磐座探し、なんでかやめられません。

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