
徳島県阿南市羽ノ浦町中庄にある「羽浦神社」(はうらじんじゃ)に来ました。かわいい。

田園と集落の中にポツンとある、ローカルな神社です。

祭神は
誉田別命
足仲彦命
気長足姫命
淡夜別命
大穴牟遅神命
国常立命
少彦名命
彌都波能賣命
和奈佐毘古命
和奈佐毘賣命
天兒屋根命
天照皇大神
大己貴命
少彦名命
稲倉魂命
埴安姫命
事代主命
野槌命
菅原道真命
水速女命
大国主命
市杵島比賣命
綿津見命
手力男命
建速須佐之男命
上筒之男命
中筒之男命
底筒之男命
宇麻志麻遅命
大山祇命
須佐之男命
稲倉魂神
天照皇大神
伊邪那岐命・・・って多っ!

それもそのはず、明治43年に中庄村、宮倉村に祀られていた23社を村社「八幡神社」に合祀して、「羽浦神社」と改称し、羽ノ浦の里の総氏神としたのが当社だからです。
ここにも明治の闇がありました。合祀しまくってるよね。

八幡神社の古文書及び社伝によれば、天正年間(1573~1592)阿波の国主「蜂須賀家政」公により、国内平穏や家運長久、御鷹狩祈願のため、当社に参拝し、拳正寺をして八幡宮の別当職たらしめ、当社の社殿を再建するとあります。
その後も蜂須賀家代々の祈願所に指定されてきたようです。

蜂須賀光隆公が祈願した際には、社紋に「鷹羽の打ち違え」を用いるようにとの指示されたとのこと。

そして当社に丸っとまとめられた数々の神社の中で、朝廷から尊崇篤い神社として、延喜式神名帳に記載されていた神社が2社あります。

それが「和耶神社」(わやじんじゃ)と「和奈佐意富曽神社」(わなさおうそじんじゃ)。
ワナサ、ここにもあったーっ!!

和奈佐意富曽神社の祭神は「和奈佐毘古命」と「和奈佐比賣命」。彦と姫がいるということは、和奈佐とは一族名で、ヒメ・ヒコ制であったということでしょうか。
また、和耶神社の祭神は、男神としての「淡夜別命」(あわやわけ)、もしくは女神「伊弉冉命」であったとされています。
淡夜別という神名は聞きなれないですが、「先代旧事本紀」にある尾張氏の系図にその名が見られるようです。
やたら合祀してしまうと、元の鎮座地や由緒伝承が曖昧になってしまう危惧があります。小社の維持は大変ではありますが、やはり可能な限り残し伝えていくべきだと感じます。

天御蔭やアタカタスあたりは、矛盾が多いからですね😌
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narisawa110
私も祭神一覧の石碑の中の、「尾張氏の淡夜別神」は何気に重要な気がしてきました。摂社でありながら式内社。
出雲口伝を無視して海部氏系図と比べると「海部氏系図(十世孫)小縫命の代で 尾張氏系譜(先代旧事本紀)に淡夜別命〈従弟に小縫命〉」となります。
更に海部氏系図(十四世孫)小登與命 〔景行朝〕 で、尾張氏系図乎止與命〔成務朝〕まで尾張氏系図は3~4代ほどの欠損があります。(尾張氏系図では淡夜別のあとにいきなり乎止與が来ます。)
この辺は妄想になりますが、海部氏が尾張氏系図をみて何らかの加筆を行った部分ではないかと、疑うことができるのです。(若しくは全く逆で尾張氏系図の方が欠損がある)
出雲口伝では御蔭は村雲の子供あたりの人物となりますが、実は海部氏系図では(十一世孫)天御蔭命〔開化朝〕となっています。
更にはアタカタスの時代が磯城登美家が出来てからになっていますので、どうも系図の揺らぎは海部、尾張氏にも及んでいる様です。(先代旧事本紀にもナガスネヒコが出てくるので、本紀側も一度復元する何かキーの様なものが無いと、記紀とも対比が難しい事になる)
この辺が解決できれば、海部王朝の間延びが解決できる気がするのですが、どのみち磯城津彦からスキトモに至るまでの数十年は大王に値する人をピックアップ出来てないという出雲伝承の口伝は私は正しい様に思えます。だれだか分からないだけで。
大国主との連動は、正直出雲伝承側にも何かの欠損があって、記紀と連動した復元しか出来なくなっている可能性を想像しています。
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narisawa110
今度ですね、徳島に行かれる場合は、神山町とかお勧めであります。
実は、徳島は1000か所以上のクナトの大神が祀られる地域で、地元では「おふなとさん」と呼ばれています。
その中でも神山町は700基以上のおふなとさんが祀られる地域で、これがまた支石墓の様であったり詰み石塚の様であったり、とても特徴があります。
雨返八幡神社あたりのおフナトさんは積み石と天井石(支石墓)の合わさったような感じでとても風情があります。
場所によってはオソロシどころみたいな雰囲気を味わえるかもしれません。
『日本三代実録』の貞観(じょうがん)14年(872)11月29日に、平安京に怪異(かいい)が発生し、これを静めるために、朝廷が阿波国(あわのくに)所在の「船盡比咩(ふなとひめ)神」の位を正六位上から正五位下に上げたとの記事があります。神山町の東境辺りには、神山町阿野歯ノ辻(あのはつじ)に「船盡神社」(図2)、徳島市入田町(にゅうたちょう)大久(おおひさ)に「船盡比賣神社」(図3)、徳島市一宮町西丁に「船尽比咩神社」(図4)が存在します。近世末以降、『日本三代実録』所載の「船盡比咩神」がどこに当たるのか諸説あったようですが、最近の研究では船尽比咩神社が最有力視されています。ともあれ、現在の神山町域への入口辺りに、平安時代に朝廷から位を授けられた由緒のある「船盡比咩神」が存在していたため、それにあやかって神山町を中心に、おふなとさんが神様として数多くまつられたものと考えられているそうです。
徳島はクナトの大神のメッカの筈なのですが、可哀そうなくらいに光が当てられておりません。
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入田町大久の「船盡比賣神社」と、神山町阿野歯ノ辻の「船盡神社」は行きましたよ。
船盡=フナト・クナトだとは思い至りませんでした。徳島市一宮町西丁にもあったんですね。
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調査した結果、実は2000以上あります。
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なんとそんなに!😳
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narisawa110
なんですとぉ~www
出雲伝承に関しては、昭和末の謎の出雲帝国においては、出雲国の前のクナト王の系譜は一応50代という話は確か書いてあった気がします。
四国や淡路島は旧地名の残存率も高いですし、こういう物は他の地域でも沢山あったんじゃないですかね。
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narisawa110
伊予って暖かそうだからいろんな一族が先に入ってる印象ですね。出雲伝承だと、なぜか八井耳が伊予に行ってるそうで。でも八井耳は皇位を争った印象もあります。
地理的には松山のあたりは大きめな平野がある様で、久留米には及びませんが、農地には適した場所が確保できそうです。
越智さんからみんな、水稲や、灌漑を教わったのでしょうか?とにかく人の役に立つ何かがなければ人が集まらず、国も出来ないはずですから。
その辺、出雲族は鉄を持ってたから辺鄙なところにも住めたし海部との協力で貿易もできたし、航路の点でも九州に次いで有利な場所だったと思います。
今日も富士林本を見てましたが、出雲はとにかく人が住むには厳しいところだったんだすね。同じ様な人口であった四国も昔は雪深く、平地がなく大変だった気がします。
ただ、吉備津彦領域になった頃の越智、忌部氏の事は全くわかりませんね。冨編集長のお話だと、四国という括りで阿波なのか伊予の話なのかは不明ですが、後に海部が入ってきてると買いてあります。吉備津彦を広義の海部と捉えるのかどうか。
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narisawa110
ほいでもって、そうなると阿波津彦って何処かに出てくるんじゃね?とか思ってたらホツマツタエにも出てくるんですね
イヨ津彦とも書かれる様なので、八井耳とすればやっぱり海部の様な気がします
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伊予津彦だとすると、越智かもしれません。
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伝承では伊予の矢倉にいた伊予津姫を大宜都比売とする為に阿波に連れてきたとあります。
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伊予の矢倉とは、矢倉神社ですかね。
越智の媛=大宜都比売=阿波媛ってことになりそうですね😊
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字が違いました矢倉ではなく八倉です。
伊予三嶋です。
阿波姫と八倉姫は伝承が違うので大宜都比売命は複数いたのでしょう。
古事記でもオオゲツヒメは4つの名で書き分けられていますから。
オオゲツヒメの別名は上一宮大粟神社だけでも
天石門別八倉比売 天石門別豊玉比売 大粟姫 天照姫と複数あります。
大粟姫は伊勢の丹生から馬に乗って大粟山(上一宮大粟神社)に来たという伝承。夫神は味耜高彦。
天石門別豊玉比売は倭大国魂神(徳島県美馬市)の后神でその子は御間都比古、またの名を大若子命、大幡主。天石門別豊玉比売の末が椎根津彦。
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