豊川稲荷(妙厳寺)

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唵尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶
オン シラバッタ ニリウン ソワカ

「我はこれ吒枳尼眞天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」

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トヨ・かわ~♪

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豊可愛いナリ~♪

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我が国の稲荷信仰には、大きく分けて二つの系統があります。
一つは京都「伏見稲荷大社」を総本社とする「宇迦之御魂/倉稲魂」(うかのみたま)を祭神とするもの。
もう一つが愛知「豊川稲荷」を総本山とする「荼枳尼天」(だきにてん)を鎮守とするものです。

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一般に僕らが稲荷神とするのは前者で、五穀豊穣を司る神として、作法にのっとって祈願(感謝)をすれば豊穣を与えてくれると、古来より人々の人気を集めました。
しかし同時に、稲荷神は少し怖い、と感じる人も少なくありません。

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それはたぶん、もう一つの稲荷、荼枳尼天の影響があるのかもしれません。

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と、いうことで、行って来ました「豊川稲荷」(とよかわいなり)へ♪

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豊川稲荷は愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗の寺院。
正式には「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)といいます。

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そう、僕も勘違いしていましたが、豊川稲荷は神社ではなく寺院なのです。

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参道は二つあり、鳥居をくぐる道と、今川義元の寄進による山門を通る道がありました。

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いずれかの道を突き進むと、大本殿が見えてきます。

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妙厳寺の本尊は千手観音なのですが、境内の鎮守として祀られる「豊川吒枳尼真天」(とよかわだきにしんてん)の方が有名になりました。

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その姿は稲穂を荷い、白い狐に跨って表されます。
このことからいつしか妙厳寺は「豊川稲荷」の通称で呼ばれるようになり、今では日本三大稲荷の1つとされています。
神系稲荷の総本宮が伏見稲荷大社で、仏系稲荷の総本山が豊川稲荷、ということですね。

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豐川吒枳尼眞天の由来は、13世紀中頃、84代順徳天皇の第三皇子で出家した「寒巌禅師」が、「時世を救う」との大信念を貫いて二度宋国へ渡り、その二度目の帰朝に際しての出来事にありました。
寒巌禅師がいよいよ船に乗って海上に出た時、たちまち霊神が空中に姿を現したといいます。
霊神は見目麗しく、稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れました。

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その霊神こそが吒枳尼眞天だったのです。
その出来事に深く感激した寒巌禅師は、帰国後自らその霊神の形像を刻み、護法の善神として祀りました。

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寒巌禅師六代目の弟子・東海義易禅師が、ここ豊川の地に寒巌禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巌禅師御自作の豐川吒枳尼眞天像を山門の鎮守として祀ったのが豊川稲荷の始まりとなります。
その霊験は顕著で、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、歴代の武将にも崇敬され、広く一般信者の帰依信仰を集めてきたといいます。
俗に荼枳尼天は人を選ばず、誰でも願望を成就させると信じられたため、博徒や遊女、被差別階級等にも広く信仰を集めたとも。

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また、東海義易禅師が当寺開創の時、一人の老翁があらわれて言いました。
「お手伝いをいたします」
その老翁は自ら平八郎と名乗り、禅師の左右に侍してよく働きました。

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平八郎は一つの小さな釜で、ある時は飯を炊き、ある時は菜を煮、又ある時は湯茶を沸かし、しかも幾十人幾百人を展待するのにもこの釜一つで間に合せたといいます。
皆、平八郎の神通に驚き、ある人が「一体どのような術を使っているのか」と尋ねると、平八郎はにっこりと笑って
「私には三百一の眷属がありますので、どんな事でも出来ないということはありません。又どんな願いも叶うのです」
と答えたのでした。
この不思議な老翁は、いつしか忽然と姿を消し、あとには使っていた釜だけが残されていました。この因縁により世に「平八郎稲荷」とも称えられるようになりました。

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さて荼枳尼天は、空海が民衆の願いをかなえる目的で勧請した、インドの女神「ダーキニー」のことだと言われています。
ダーキニーはもともとはジャッカルの精霊と言われ、裸身で虚空を駆け、人間の肝や心臓をむさぼる夜叉でした。
それがシヴァの妻、殺戮の女神「カーリー」の侍女となります。
やがて「マハーカラ」(大黒天:シバ神の夜の姿)に敗れて、生きた人間の心臓を食べることを禁じられたダーキニーは、死者の心臓を食べるようになりました。
そのため、人が死ぬと先んじてその心臓を手に入れられるように、人間の死を6ヶ月前に予知する能力を与えられ、強力な通力を得ることになったということです。

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中世になるとジャッカルは霊孤と同一視されるようになり、荼枳尼天は霊孤にまたがる姿で描かれるようになります。これが日本古来の神、伏見系の宇迦之御魂・稲荷神の使いの狐と結びつけられ、荼枳尼天が稲荷神と習合されます。
この頃から彼女の容姿は「狐に乗ったうら若き天女」となり、「荼吉尼の叩きはご褒美です!?お迎え課はドMばかり!」とばかりに、そのサディスティックエロ可愛いさが貴族らを虜にしたのだとかどうとか。

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ちょっと僕も、お迎え課に就職してきます。

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ただやはり彼女の本質は変わらないので、命を捧げ一生信心すれば、荼吉尼たまは多大な”ご褒美”を与えてくれますが、
途中で信仰をやめたり怠ろうものなら、途端に富も命までも奪われるというエロカワツンデレ教へと相成ってゆきます。
お稲荷さんはコワい、という印象をどことなく感じさせる要因のひとつは、この飴と鞭の荼枳尼天信仰の一面があるからなのだと思われます。

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別の説に、人の魂を食う代わりに欲望を叶えるという話もあり、呪詛にも利用された歴史があるようです。
織田信長や徳川家康も天下統一の為に、荼枳尼天を厚く信仰したとかどうとか。

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また13世紀前半の鎌倉時代、荼枳尼天を性愛を司る神と祀り、髑髏を本尊とする謎の密教集団が現れました。
性的儀式、つまりエッチで超常的な力を得ようとしたのです。

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このエッチな集団の名称は不明で、便宜上「彼の法」集団などと呼ばれています。
「彼の法」集団と敵対し、これを邪教と糾弾したのが真言立川流の「心定」でしたが、恵海の『破邪顕正集』(1281年)や、宥快の『宝鏡鈔』(1375年)などの影響によって、立川流がこのエッチ集団と混同され、割と最近まで「立川流」=邪教H集団と勘違いされてしまいました。
とんだとばっちりです。夢枕獏的な本の中で立川流のH集団が登場していたので、僕もずっと勘違いしていました。

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エッチで神の謎力を得られるというのなら、だらしない”しめ縄”にさえ劣情を抱くことのできる僕は、とっくに三千世界の覇王になっているのではないか、などと思いに耽っていると、木立に佇む、深遠な堂宇がありました。

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この堂宇は豊川稲荷の「奥の院」で、かつての稲荷本殿だった建物です。
明治の神仏分離令の影響で、妙厳寺から分離の危機にありましたが、寺院鎮守として祀ることが認められ、今もその姿を残しています。
ただ、それまで境内の参道に立ち並んでいた鳥居は撤去されてしまいました。

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江戸時代までは、全国の寺社に吒枳尼天を勧請していたのは、「愛染寺」(あいぜんじ/伏見稲荷本願所)でした。
しかし明治の神仏分離令で愛染寺は廃寺となり、以降は豊川稲荷が各寺院への吒枳尼天勧請の中心的な役割を担うようになりました。

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そんなこんなで、”エッチそうでエッチくない少しエロ可愛い荼枳尼たま”の魅力も十分伝わってきた頃と思われ、

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最後に平成にできた豊川稲荷のパワスポを訪ねて参ろうかと思います。

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それは霊孤塚(れいこづか)と呼ばれます。

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かつて、一部の僧侶だけが立ち入りを許される「内殿」敷地内に、祈願成就の白狐像が奉納されていました。
しかしその数が次第に増え、敷地は白狐像で埋め尽くされてしまいます。

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そこで新たに選ばれた保管場所が「霊狐塚」でした。

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しかしその後も奉納される像は増え続け、結果、

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すっご。

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レイコさんの数は「大小1000体」がうたい文句になっています。
正確には800体程度だそうですが。

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荼枳尼お姉さまは、これだけの人の願いを叶えてきたというのでしょうか。
信ずるものは救われる。霊験、というものはあるのかもです。

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しかしこの独特の雰囲気というのも、多くの人に稲荷はコワいと感じさせる要因の一つかと思います。

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僕も正直、以前は稲荷がちょっと苦手でしたが、『由比正雪と薄明の月』で朝近ちゃんタソをお迎えして、稲荷推しになりました。
慣れてくれば、存外可愛いものです。

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それはともかく、エロ怖い荼枳尼お姉さまですが、東京帝大法学部出身で地方政治家引退後に曹洞宗の僧侶になった「坂内龍雄」氏によれば、彼女は元はダーキンという名前の地母神で、ベンガル西南のパラマウ地方においてドラヴィダ族のカールバース人によって信仰されていたということです。
土地を支配し育む神の配偶神であり、豊穣を司る農耕神であったと。

おおっと、意外なところで、出雲キタ。なるほど、お姉さまがサイノカミと同系統であるのなら、エロカワなのも納得です。

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あと、豊川稲荷なので、豊姫ちゃんが関係あるのかなと思いましたが、それはあまりなさそうでした。
近くに豊川という川が流れていたので付けられた名前だということです。
しかし、豊川市はもともと、豊川稲荷の門前町だったとのことで、その信仰の厚さは凄まじい限り。

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けどねえ、伊勢の稲荷も「豊川茜稲荷」だったし、なんか関係ある気もするんですけどねぇ。

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お稲荷さんといえば稲荷寿司!

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豊川稲荷の門前町は、稲荷寿司発祥の地の一つとも言われており、たくさんの稲荷寿司店が並んでいます。

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総門の真ん前にあった「山彦」さんとこの「稲穂寿し」を、閉店間際に駆け込みで買うことができました。

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甘く煮込んだ揚げに、具材たっぷりで、とってもうまいコン🦊
特にわさび味は、ツンとして、お姉さまの味がしたのでした。

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