伊勢神宮の別宮には、2社の”つきよみの宮”があります。
ひとつは内宮の別宮「⽉読宮」で、⽉読尊とその荒御魂の他、両親とされる伊弉諾尊、伊弉冉尊が祀られています。
もうひとつは外宮の別宮「月夜見宮」で、月夜見尊とその荒御魂が祀られるとしています。
「月夜見宮」に祀られている月夜見尊は、元々は外宮に祀られており、外宮に豊受大神を祀ったためこちらに遷し祀られたと伝えられます。
月夜見宮境内摂社として鎮座する「高河原神社」の祭神は、「月夜見尊御魂」(つきよみのみことのみたま)とされますが、この神社が本来、当地に祀られていた神社で、その神は農耕の神だということです。
月の暦は農耕に関与深く、月神は農耕の神の一面を持っていました。
そのため月読神の遷座を、当地に定めたのだと思われます。
ところで今回、別宮・月夜見宮を訪れたのは、こちらの摂社が目的でした。
本殿向かって左奥に鎮座する神、
お稲荷さんです。
お稲荷さんではあるのですが、不思議な石が祀られています。
このジャバ・ザ・ハット感、伊射波神社の「領有神」(うしはくがみ)に近いものを感じます。
それにしてもこの木、雷によって内部が焦げ、立ち枯れています。
それでも朽ちずにずっと残り続けているのは、御神徳のなせる技か。
月夜見宮になぜ稲荷社があるのかは謎ですが、民間信仰の名残であり、古くからここに祀られているのだということです。
月夜見宮の西側、道路を挟んだ対面に「須原大社」(すはらたいしゃ)がありました。
「すはら」の名に興味を覚え、参拝してみることに。
おお、神様デパート。う~む、物部系の神社でしたか、少しイメージが違いました。
創祀年代は不詳。須原地区の産土神として尊崇され、古くは「大社」とのみ称されていたとのこと。
白山系の洲原神社との関連が気になったのですが、どうやら無関係のようです。
本殿の隣には「並社」(なろうやしろ)があり、石神が祀られているらしいです。
石柱に「遥拝所」とあるので、何かを遥拝しているはずですが。
奥には立派な稲荷社があり、元々はこちらが主体だったのではないだろうかと、そんな感じがしたのでした。
さて、「あこねさん」茜社にやって来ました。
伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の宮域内に鎮座し、東・南・西の三方を外宮の勾玉池(まがたまいけ)に囲まれています。
この、「茜社」(あこねやしろ)は、外宮の宮域内に鎮座してはいますが、伊勢神宮の所管する神社ではありません。
祭神は「天牟羅雲命」(あめのむらくものみこと)と「蛭子命」(ひるこのみこと)。
『宇治山田市史』では「不詳一座 或云赤畝氏祖天牟羅雲命」とあり、本来は天牟羅雲命一座を祀っており、蛭子命は後に合祀されたということです。
天牟羅雲、いわゆる天村雲とは、海家(海部家)の五十猛と物部家の穂屋姫との間に生まれた皇子で、大和王朝の初代大君となった人のことです。
外宮の神職であった度会氏の祖も天牟羅雲とされていますので、茜社は度会氏の産土神だったのかもしれません。
そして茜社の境内には、元は山田大路家の鎮守神で、菅原道真を祀る天神社も鎮座していますが、なにより存在感を放つのは、
境内のど真ん中に堂々と鎮座する「豊川茜稲荷神社」です。
創建は不詳とありますが、古くから茜社境内に鎮座していたと伝えられます。
祭神は「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)。『神都名勝誌』によると、漁師の信仰が篤いのだとか。
茜社の創建は、一条天皇の御世以前、すなわち986年より前とされているそうです。
当社は地域住民からは「あこねさん」と呼び親しまれていますが、これは鎮座地周辺の古い地名である「赤畝」(あかうね)に由来します。
古代には外宮摂社として祀られていた茜社ですが、当初は石壇があるのみで社殿はなかったといいます。文化・文政期に小さな祠が建てられ、呼び名が茜社となったのは江戸時代から明治時代と推定されています。
明治5年6月(1872年7月)に、『延喜式神名帳』および『延暦儀式帳』に記載のない神社は一律に神宮の所管から外されたので、その時、茜社も神宮摂社でなくなりました。
その後、神宮側は、茜社と内宮宮域にある大山祇神社を神宮の所管に復帰すべく、神社局と内々に折衝を開始しましたが、茜社の氏子らはこれを望まず、今なお独立した神社となっています。
神宮側が茜社を所管に戻したかった理由の一つに、「紅白の幟や傷んだ鳥居などが林立する光景が神苑の景観を損ねている」というものがありました。神宮125社のいくつかを巡ってみても分かりますが、神宮側は画一的で統制された神社体系を構築しています。
それはまた整然としていて美しいものですが、これに対して茜社氏子らが復帰を望まなかったのは、古来より盛んだった稲荷信仰を守りたかったのだと思われます。
なぜそれほどまでに茜社氏子らは稲荷社に拘ったのか。
それは当社の入口社標と由緒案内にヒントがありました。
豊川茜稲荷神社は、古くは「豊受稲荷大明神」と呼ばれており、現祭神の宇迦之御魂神は亦の名を「豊受毘賣命」だと書いてあります。
そう、外宮の豊受大神は、確かに稲荷神としての側面をもっているのです。
白川家の重要聖地であると思われる、ある神社が稲荷社であり、そこに「伊勢稲荷」の扁額が掛かっていることから、伊勢と稲荷の関係について気になっていました。
僕は白川家は越智家の系統であると考えており、そこに鎮座する伊勢稲荷とは、外宮の豊受大神のことであると聞いたからです。
当地の稲荷神は豊受毘賣であると明文されているのは、嬉しい発見でした。
そしておそらく、茜社が神宮の所管に戻っていたなら、この事実は失われていたかもしれません。
当時複雑な立場にありながら、古来の伝承を守ってこられた、赤畝の氏子さんたちに、感謝申し上げます。
茜社の境内は決して広くはありませんが、そこに目を引く御神木があります。
それは杉と楠の夫婦の御神木ですが、
その間に挟まれるように置かれた石は、
まるでトグロを巻いた白蛇のような形をしています。
稲荷神の神体は白蛇。出雲族の信奉する龍蛇神の神体は、稲佐の浜に打ち上がるセグロウミヘビのミイラ、つまり黒蛇です。
越智族の聖地でたびたび伝えられる、「白」のシンボルカラー。この意味するところは。。
まだ記憶に新しい平成19年(2007年)の神宮式年遷宮では、社殿の材木を運ぶ重要な祭事の1つ「お木曳」において、豊栄会がお木曳車を曳き始める場まで運ぶ「上せ車」は、茜社から出発しました。
また平成24年(2012年)10月より、茜社宮司に就任された鈴木瑞穂さんは、伊勢市神社で初めての女性宮司なのだということです。