伊勢神宮別宮の「月夜見宮」と外宮「豊受大神宮」を結ぶ道を「神路通」(かみじどおり)と言います。
夜になると「月夜見宮」の石垣の一つが白馬に変わり、白馬は「ツクヨミノミコト」を乗せて「神路通」を歩いていくと云います。
通りの中央にある黒い部分、ここはツクヨミノミコトがお通りになる道。
ミコトの妨げにならぬよう、この辺りの人は夜はなるだけこの道を通らず、また通るときは端をそっと歩くのだそうです。
向かう先は「豊受大神」のもと。
そう、二人は恋仲であるという伝説です。
さて、「伊勢神宮」とは、内宮・外宮の「正宮」はもとより、「別宮」「摂社」「末社」「所管社」の125の宮社の総称をいいます。
中でも「別宮」(べつぐう)とは正宮の「わけみや」という意味で、正宮と関わりのある格の高い宮となります。
内宮「皇大神宮」の別宮として「月讀宮」がありますが、
外宮「豊受大神宮」にも同じツクヨミを祀る別宮があります。
それが「月夜見宮」です。
月夜見宮は「外宮」から数分歩いたこんもりとした杜の中にあります。
祭神は当然「月夜見尊」ですが、その「荒御魂」(あらみたま)も一緒に祀られています。
富家の伝承が伝えるところでは、外宮は、もとは「月読みの神」を祀っていたと云います。
やがて度会氏が外宮に宇佐の豊姫を「豊受大神」(トヨウケノオオカミ)として祀ったので、月読みの神は当地に遷座したそうです。
境内に摂社の「高河原神社」(たかがわらじんじゃ)があります。
この「高河原神社」が本来、当地に祀られた神社で、農耕の神だということです。
ツクヨミは月と関わり深く、太陰暦の暦の神とされ、ひいては農耕に関与深く、農耕の神の一面を持っています。
そのため遷座を当地に定めたのでしょう。
月神はもともと宇佐の豊玉姫が祀る神でした。
月には兎がいると信じられていたので、その場所が「宇佐」と呼ばれるようになったのだとか。
当時は太陰暦で、稲作や様々な祭り事が月齢を頼りに決められていました。
つまり月で暦を読むので、「月読みの神」と呼ばれるようになったのだそうです。
豊玉姫の後を継いだ豊姫は、物部イクメ王の東征軍に加わり、大和の三輪山の麓「大和笠縫村」で月読みの神を祀る姫巫女となりました。
そこで民衆の人気を得た豊姫自身を、月読みの神と呼ぶ一部の人もいたと云います。
記紀の日本神話において、豊姫は「豊鍬入姫」(トヨスキイリビメ)と表記され、天照大神の御神体を遷宮した、最初の斎王としていますが、実際は太陽の女神を祭祀することはなかったのです。
本殿のとなりに小さな社のようなものが建っています。
ここは遷宮前の土地であり、あの小さな社は「心の御柱」の上に建てられているそうです。
「月夜見宮」の横奥、焦げた木の根元に稲荷社があります。
人面に見える石と稲荷が祀ってあり、ここだけ異様な雰囲気を感じました。
「雷」とは「神鳴り」、古来より雷に乗って神が降りた場所と言い伝えられています。
祝詞に、「月神之祓」と言うモノがあり、これは古来子宝を祈願する神事の祝詞だとか、
その文言に曰く、
、、、月弓尊は上弦月。月夜見尊は望月(満月)。月読尊は下弦月。
なのだそうです。
新月。はありません。
が、私的には荒魂が新月では無かろうかと思っています。
パワー(潮汐力)、地球に与える影響力は満月と同じか太陽との相乗効果で絶大(事故事件、地震の引き金)ですから
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これまた貴重な情報をありがとうございます。
そうですね、新月に神格がないのはおかしいですね。
古代人なら、新月の重要性を間違いなく感じ取っていたはずですから。
ところで月讀神といえば、元は邪馬台国とされる宇佐神宮の豊玉女王が信奉していた神とのこと。
宇佐公康氏の宇佐家伝承によると、宇佐族は出雲族よりも先に日本に定住していたらしく、インドから出雲族が移ってきたことも知っていたようです。
とするならば、宇佐族はどこからやってきたのか?
それは本書にも記されていないとのこと、気になります。
話は変わりますが、3月に大彦の息子「沼川別」が開拓したという伊豆へ出かける予定です。
何か情報をご存知でしたら、教えていただけると嬉しいです♪
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