龍神さまの磐座の、水面に浮かぶ白い月。
わたしは衣を脱ぎ捨てて、白きお山から注がれた長良の清水に身をひたす。
ゆらゆらとゆれる月影を諸手のひらで掬いとり、冷き甘露をすすり吸う。
ああこれぞ命をくくる源ぞ、月夜見の持てるをち水ぞ。
岐阜県美濃市にある「洲原神社」(すはらじんじゃ)は、全国に四十九社あるという洲原神社(須原神社)の本山です。
豊作、厄除け、夫婦和合、子授けなどにご利益があると云われ、田畑に蒔く御砂や田畑札を受けに遠方より多くの参拝者が訪れるそうです。
洲原神社は木曽川水系の一級河川で、木曽三川、日本三大清流の一つである「長良川」(ながらがわ)の川沿いに鎮座しており、その清流の中には御神体であろう「神岩」がぽっかり浮かんでいます。
神岩の正面に表参道が続き、楼門が建っています。
この立派な楼門は寛永17年(1640年)と寛保元年(1741年)に再建されました。
楼門の中から、日本一の大太鼓が姿を覗かせています。
洲原神社は「お洲原さん」「洲原大神様」として親しまれており、白山登頂に至る美濃馬場ルートの前宮であり、故に「正一位洲原白山」とも呼ばれています。
境内に立ってみると、側を流れる長良川は、霊峰白山からも清水が流れ込んでおり、山の霊気が流れ着く場所がここであると実感します。
本殿は3棟あり、西本殿に「大穴牟遅命」(おおなむちのみこと)、東本殿に「伊邪那美命」(いざなみのみこと)、そして中央本殿「伊邪那岐命」(いざなぎのみこと)を祀ります。
おかしい。。
いや、何がおかしいて、明らかに白山系の神社でありながら、その信仰の中心である「菊理姫」(くくりひめ)の姿が見えません。
洲原神社は今より約1300年前、元正天皇の御代「養老元年」(717年)に、越前国足羽郡麻生津村、神職三神安角の二男「泰澄」が加賀国白山の絶頂で修行を行っていた時に霊夢を感じて其の状をつぶさに天皇へ奏上し、養老5年5月、勅を奉じて泰澄が祭神を祀ったのが創建と伝えられます。
泰澄による白山信仰が確立されて以降、その信仰の中心には菊理姫がいました。
ククリヒメは古事記には記載されず、日本書紀にのみ登場する女神です。
火の神カグツチを産んだことによって命を落としたイザナミ、彼女を追いかけてイザナギは黄泉の国へ向かいます。
イザナギを連れ戻そうとしたイザナギでしたが、黄泉の神に相談する間決して覗かぬようにという彼女の言いつけを守らず、イザナギはイザナミの様子を窺い見てしまいます。そこには腐れ蛆がわく彼女の姿があったのでした。
驚いたイナザギは逃げ出し、辱めを受けたイザナミは怒り彼を追いかけます。
なんとか現世へ逃げ切ったイザナギは、黄泉の入り口を大きな岩(千曳の石)で塞ぎ、イザナミと決別します。
この時両者は大いに口論をするのですが、
「是の時に菊理媛神亦白す事有り。伊弉諾尊聞こしめて、誉めたまいて、乃ち散去ましぬ。」(ククリヒメはイザナギに、何事かを囁いて褒めたたえた)
とあって、何を囁いたのかはしりませんが、壮大な夫婦喧嘩はひとまず収まることとなるのです。
それゆえか、なぜか菊理姫は夫婦円満、縁結びの神として親しまれるようになります。
しかしこの稀有な神を祭神とするのは白山信仰においてのみであり、その原点に福井の越知山があることを考えると、もっと重要な意味を彼女は有していると思われてなりません。
当社の存在を僕に教えてくださったAyakoさんは、神主さんになぜ菊理姫がいないのか尋ねてくださったそうです。
すると昔はいらっしゃった(古い文献にあった)が、いつの頃からか祀られなくなって時期が不明な為、いまもいらっしゃらない、との事だったそうです。
どのような状況であったにせよ、主祭神が消されるとは只事ではありません。
そうせざるを得ない特殊な事情があったのか、謎は深まります。
摂末社祭神群をみてみると、「天照皇大神」「豊受姫神」「須佐之男命」「少彦名命」「猿田彦命」「木花咲耶姫命」「迦具土命」「大山祇命」「道反之命」とメジャーな神様が揃っていますが、最後の道反之命(ちがえしのみこと)のところで目が留まりました。
道反之大神とは、黄泉の入口、黄泉比良坂を塞いだ千曳の石(ちびきのいは)を神格化したものだといい、別名を塞坐黄泉戸大神(ふさがりますよもつとのおおかみ)というそうです。
塞坐黄泉戸大神、黄泉比良坂を塞いだからその名なのでしょうが、なんでも出雲病の僕は、塞の神を思い浮かべてしまいます。
また関係ないとは思われますが、石見神楽の演目「道返し」で登場する大悪鬼「鬼八」(きはち)は出雲族を彷彿とさせます。
「峰は八つ谷は九つ音に聞く 鬼の住むちょうあららぎの里」と歌われるこの演目は、世界を荒らしまわる鬼八を武甕槌が成敗し西の高千穂に追いやるという内容で、東の諏訪に追いやられたタケミナカタと対比するような話になっています。
さらに興味深いのは、鬼八はいきなり剣を交えるのではなく、最初は言葉で武甕槌を説得しようと試みるところです。これはまるで出雲族そのものです。
洲原神社境内の隅に、「子育て安産の霊石」というものがありました。
足型のような窪みのある霊石で、「おびくにさんの足跡」とも呼ばれています。
この石を若い女性が三回またぐと、子宝に恵まれるとのことでした。
さて、この洲原神社のことを僕に教えてくださったのは、先にもご紹介したFB友のAyakoさんでした。
そのAyakoさんから、貴重な写真と動画をお借りし、ここにご紹介させていただきます。
洲原神社では毎年12月の頃、冬の間、深い雪に閉ざされる白山に代わり、大神を神社に迎える神事「神迎え神事」が行われます。
神迎えは夕方18時に行われますが、それまでに朝6時から7度に渡り川で垢離取(こりとり)と呼ばれる水垢離を繰り返します。
その様子がこちらの動画ですが、水垢離中に九字を切って雄叫びが。
非常に修験色の強い神事です。
修験というと出雲散家が関係していると思うのですが、山形の月山にせよ、豊の関わりも強く感じるのです。
また、春には神送り神事が執り行われ、大神は白山に戻っていくのだそうです。
洲原神社は間違いなく白山系の神社で、しかもかなり重要な拠点です。
しかしそこには何故か、主祭神たる菊理姫がいない。
これは社紋の下り藤が関係あるのかどうか。
僕は神岩のある長良川河川敷に降りてきて、ぼんやりと菊理姫について考えてみました。
偽書の一冊「ホツマツタエ」にも菊理姫についての記述が僅かにあります。
それによると、「菊理姫は豊受大神に子が産まれた時に、その子を産湯につけた」とあります。
豊受大神の正体とは、宇佐の豊玉姫の娘「豊姫」(台与)のこと。
つまり菊理姫は豊家の産婆、もしくは乳母にあたる家柄の神ということになるのでしょうか。
また菊理姫のククリは、「命を括る」という意としても考えられており、命を司る神であるとも考えられています。
菊理姫を祀る白山は命を司る山と謳われ、水神(龍神)の棲む山と云われています。
そこから命の源と言える「水」が流れ、この長良川にも注がれていました。
白山信仰の大元である越知山には飲めば若返ると云われる「変若水」(おちみず)の池がありました。
久留米大善寺の玉垂宮に伝わる水沼氏の伝承では、月の霊薬・変若水を受け取る巫女が「水沼の巫女」であるとのことでしたが、この変若が越智であるとは、越知山を訪ねるまで気がつきませんでした。
変若水は『萬葉集』の中でも散見され、
「天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも」(3245)
と、月読信仰、つまり豊家との深い関わりが窺えます。
神岩に近づこうと砂利岸をあるいていると、
白蛇が巻きついたような、はちまき石を見つけました。
よく見ると大きなはちまき石も。
そして神岩に近づいてみると、おおっ!
なんと龍神様の顔があります。
その龍神様の見つめる先を見てみると、
洲原神社の奥宮があったという鶴形山がありました。
ということは、この神岩は亀形岩とでもいうことでしょうか。
鶴形山の山肌にも、不思議な造形の岩が露出しています。
この造形が古代から変わらぬものであるかどうかは分かりませんが、見事な亀形です。
佐賀の土雲族聖域でたびたび見かけた、亀形の磐座を彷彿とさせます。
この龍神の顔は、神岩に近づいてみないと気づきにくいものです。
ささやかな発見に不思議な思いが膨らみ、青空の下、しばらく龍神の岩を僕は眺めていたのでした。