「谷が八つ峯が九つ戸が一つ鬼の住処はあららぎの里 」
神話のふるさと「高千穂」。
神話ゆかりの地と言えば「出雲」や「伊勢」が思い浮かぶところですが、九州は実に神話伝承の宝庫と言って差し支えありません。
その中でも宮崎の高千穂は、「ひむか(日向)神話」発祥の地となります。
高千穂奥部には「天の岩戸」の神跡が伝えられ、近年では日本神話ファン垂涎のパワスポと化しています。
その高千穂の入口にある「高千穂峡」(たかちほきょう)は、五ヶ瀬川にかかる峡谷で、国の名勝、天然記念物に指定されています。
三段橋と呼ばれる高千穂峡から眺めることのできる三つの橋は、下から「神橋」(石橋)「高千穂大橋」(鋼橋)「神都高千穂大橋」(コンクリート橋)と呼ばれ、峡谷に三本もの橋が架かっている風景は全国的にも珍しく、絶好の撮影スポットになっています。
この三段橋が見えるのは高千穂峡の奥側になり、今回は「あららぎ乃茶屋」があるその奥側からスタートします。
このあたりは「鬼の岩屋」「八峰九谷」(はちみねくたに)と呼ばれる渓谷になっており、
鬼八(きはち)が棲んでいたというその場所は、まこと幽玄と呼ぶにふさわしい景観です。
この高千穂峡散策路とは反対側の奥に見える滝は「あららぎの滝」と呼ばれます。
この滝は日によって流れていたりいなかったりする、幻の滝とも言われています。
神橋から下を覗き込めば、そのまま吸い込まれてしまいそう。
あららぎ乃茶屋さんの横にある階段を降りていくと、
その先の渓流に沿って作られた遊歩道へと続いていくのです。
高千穂は観光協会の案内パンフレットが充実していますので、ご旅行の際にご利用されると便利です。
高千穂峡の渓谷は独特な形状をしています。
約12万年前と約9万年前に起きた阿蘇山の大噴火は阿蘇カルデラをつくり、その高温の軽石流(火砕流)は五ヶ瀬川の峡谷沿いにまで厚く流れ込みました。
この火砕流堆積物が冷却固結し、柱状節理の溶結凝灰岩となったのが高千穂峡です。
近年インバウンドで溢れかえっていた高千穂峡が、コロナ禍で本来の景観を取り戻していました。
あの騒がしい人たちの姿が見えないのは、嬉しい限りです。
高千穂峡は、溶結凝灰岩の特徴をよく見ることができる、希少な渓谷です。
この岩は磨食を受けやすく、五ヶ瀬川の侵食によってV字峡谷となりました。
高さ80~100mに達する断崖が7kmにわたって続き、岩の割れ目に水が流れ込んで礫が隙間で舞ううちに丸くえぐれてできた「ポットホール」も随所に見受けられます。
五ヶ瀬川の最も狭い部分は「槍飛」と呼ばれ、天正19年(1591年)に延岡領主高橋元種に攻められ三田井城が落ちた時、橋がなかったため逃げ出した家来たちが槍を使って対岸に飛び渡ったと云われています。
静かな、神侘びた小道が続いています。
コロナ禍以前は、どこを写しても人が映り込むくらい、支那系のインバウンドで溢れていました。
街中なら賑やかでも良いのですが、神域や歴史的景観地では心静かに過ごしたいものです。
ひと丘越えると、素晴らしい渓谷が姿を現しました。
高千穂峡は、昭和9年に五箇瀬川峡谷として国の名勝天然記念物に指定されて以降、神話ゆかりのスポットとして人々に愛されてきました。
今では新緑の頃を始め、夏のライトアップや秋の紅葉も人気です。
「仙人の屏風岩」と呼ばれる見上げんばかりの大絶壁は、柱状節理の特徴がよく表れています。
その手前を注意してみると、「ハート石」を見つけることができるかもしれません。
水流のバランスがちょうど良い時にしか見れず、カップルで見つけるとウハウハなのだとか。
屏風岩の対岸にひときわ大きな岩の塊があります。
これは「鬼八の力石」と呼ばれる神跡です。
「三毛入野命」(みけいりぬのみこと)がアララギの里にやってきた時、荒神の「鬼八」(きはち)が一帯を荒らして村人を困らせていました。
そこで命は鬼八を成敗しようとしますが、その時、力自慢に鬼八が投げたのがこの石だと伝わります。
重量は推定200t。
しかしこの鬼八の力石の背後に目をやると、渓流がもたらす幸に感謝し祭祀するアララギ族の姿が目に浮かぶ、美しい景観があったのです。
さて、高千穂峡巡りもいよいよ佳境です。
遊歩道の左手に「七ッヶ池」と呼ばれる、七つの穴が広がってできた池があります。
ある時、三毛入野命が散歩をしていると、水鏡に美しい娘が映っていました。
その娘は、「鬼八」が奪って閉じ込めていた「鵜ノ目姫」(うのめひめ)だったと云います。
鵜ノ目姫に一目ぼれした命は、ついに鬼八を滅し、姫と結ばれることになったのです。
龍神の顎門のような切り立った渓谷の先に見えるのは、
高千穂峡の代名詞ともいえる「真名井の滝」(まないのたき)です。
雑誌にもよく取り上げられる有名な滝で、日本の滝100選に選定されています。
真名井の滝はボートに乗ると、近くで見ることができます。
神話によると、天孫降臨の際この地に水がなかったため、「天村雲命」(あめのむらくものみこと)が水種を移しました。
これが「天真名井」となって、滝となって流れ落ちているとされています。
ボートから見る真名井の滝は迫力があるのですが、たまにボートごと吸い込まれていく人がいますので、要注意です(笑)
真名井の滝の上は広い公園になっています。
高千穂峡は命が鵜ノ目姫に一目惚れした場所、
恋愛成就スポットとしても人気です。
真名井の滝の上にある池は「おのころ池」といいます。
池の中には「伊弉諾尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)が地上をかき混ぜ、最初に生み出されたという「おのころ島」があります。
高千穂神社の大祭では神輿がこの池を3回廻って禊をするそうです。
池の中には鯉に混じって不気味な魚影が。
なんとチョウザメが泳いでいるのです。
この池の水が下に流れて、真名井の滝となります。
おのころ池の背後の崖には、
「月形・日形」が刻まれています。
「岩戸開き神話」の後、素戔嗚は神々の裁きを受けて高天原を追放されます。
その時に詫びの印として天照大神を表す「日形」と、その半分の存在もない「月形」で自分を表現したと云われています。
かつては「日形」もあったのだそうですが今は崩壊し、「月形」のみが残っています。
しかしなぜ、月なのでしょうか。
スサノオ=徐福は道教の道士、星神を信仰していたので、記すなら星を刻んだはず。
太陽信仰といえば出雲族であり、月神信仰といえば宇佐族です。
そう、もしここに人工的に彫られた「月形・日形」があったとしたなら、それは古代に出雲族と宇佐族の、それぞれに縁ある者たちが和睦・共存の意を示すために彫った物ではなかったでしょうか。
神話の里を深く訪ね歩くと、英雄伝説の裏側に隠された敗者の物語が、高千穂と阿蘇を繋ぐ広大な地域にひっそりと伝えられていたのでした。
美しい風景☆
大好きな岩と緑と水に
心癒されました(*´ω`*)
大陸から渡ってきた古代の人々も
この国の森や水や岩たちに
荒んだ心を癒されたのかも…
この土地に、人の心を和らげる力が
あったのかもしれないと、
そんなことを思いました。
どうもありがとうございます(*^^*)
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古代の人は、何が自分の心を豊かにさせるか、本当によくご存知だったのだと思います。
そうした景色はずいぶん失われてしまいましたが、それでもこうして残されているところもあり、それが有難いです。
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高千穂の雄大な自然と、涼を感じる清々さと、人がいない素晴らしさを堪能することが出来ました。ありがとうございます😊
父は宮崎出身で、父方の親戚が宮崎と鹿児島におります。
地名由来なのか、旧高千穂線には私の苗字(旧姓)と同じ駅名があったりもして、勝手に所縁を感じています。
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こんにちは、KYOさん。
KYOさんは宮崎ゆかりの方でしたか。
神話好きの僕としては、もう何度、宮崎まで足を運んだか知れません。
都萬にある入船さんのうなぎを食べるためだけに、福岡から車を走らせたことも。
高千穂にお名前の地名があるとは、どこぞの姫君の末裔かも知れませんね♪
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初めまして。
Facebookからこのブログに辿り着きました。
私は宮崎出身で、禊池近くで産まれたこともあり、古事記や神話に興味があり調べていました。
四国、沼島にも
おのころ神社があり、
かき混ぜて国を作ったとされる
鉾岩があり
本当に高千穂が神話の里なのか
宮崎に残る神話はどこから来たものか
疑問が湧いて来て。。
(私の実家の産土神様は
山幸彦様とされています。
神主様からお聞きして
お参りして来ました。)
ブログ主様の時代考察、
大変興味深く、
これから読み進めてみますね。
写真も見応えあり
コロナで帰れない為
写真でも見れて嬉しかったです。
ありがとうございます。
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こんにちは、x-byrd様。
偲フ花へようこそお越しくださいました。
禊池といえば江田神社ですね。
あそこもとても素敵なところでした。
沼島にも立ち寄らせていただきました。
とても神秘的で、素晴らしい島です。
古事記・日本書紀は大きく3つの思惑が隠されています。
親魏和王、つまり形式的にせよ魏国の属国となった宇佐・豊王国(魏志にいう邪馬台国)の痕跡を消し去ること。
記紀編纂者の藤原不比等の父、鎌足の悪行(乙巳の変)を改変すること。
そして出雲王家の存在を歴史から抹殺することでした。
出雲王国時代の話は、神代の出来事として神話化し、場所も時間もごちゃまぜでわかりにくくされています。
宮崎沿岸地方の神話は、物部東征に関するものが多いです。
筑後平野に勢力を持っていた物部イニエ王は軍隊を編成し、大和へ東征することを決心しました。
彼は船で薩摩半島を周回し、薩摩隼人を軍人として募集します。
そこで出会ったのが薩摩の阿多津姫です。
彼女は木花佐久夜毘売として記されています。
阿多津姫を后に迎えたイニエ王は都萬に王国を築きました。
しかし阿多津姫は息子イクメを出産して早くに亡くなってしまいます。
その後、イニエ王が考えたのは、宇佐の豊玉姫(卑弥呼)を妻に迎え、物部・宇佐の連合王国で大和進出を図るというものでした。
話は遡りますが、秦の始皇帝時代、秦国から不老長寿の妙薬を求めて、2度日本にやってきた人がいます。
それが徐福です。
徐福は最初の来日で出雲に2000人、2度目の来日で佐賀に3000人の童男童女を連れてきたと云います。
出雲に連れてきた2000人はやがて海家(海部家)となり、佐賀に連れてきた3000人が物部家となりました。
彼らは共に秦国から来たので秦氏とも呼ばれます。
初期の大和王朝は、事代主の息子クシヒカタの登美家と、海家によって築かれたものでした。
つまり海家が海幸彦、物部家が山幸彦として神話が作られています。
あの話は、月読神を信奉する豊家を味方につけた物部家が、海家・大和王朝を負かしたというのが根本にあります。
神話に度々記される干珠・満珠というのは、月読みの秘儀を表しているのだと、割と最近になって気付くことができました。
記紀は豊家の痕跡と共に、月読信仰も痕跡を消しているので、なかなか気づきませんでした。
ということで、長くなりましたが、山幸彦というのは物部氏の神である可能性が濃厚です。
僕の知る方で、物部は殺しすぎるから嫌いだという人がいます。
確かに、ヤマトタケル神話に見られるよう、物部族はちょっとやり過ぎてしまう傾向があります。
しかし彼らにも事情があり、また悲哀に満ちた物語も多く、僕個人的には物部族も好意を抱いています。
とは言いましても、やはり大の出雲好きではあるのですが。
高千穂にまつわる話も、物部族の侵略系の話になります。
しかも割とエグめの。
ただ、僕が思うに、海族にしろ物部族にしろ、日本を支那国のように支配しようと思えば出来たと思うのです。
しかしそれをせず、皆大和に帰依して日本の王として振る舞いました。
だから今も日本はあり続けています。
これは島国日本だからこその特性であり、氏族を超えて大和とならなければ乗り越えられない災害大国ゆえのことだと思います。
日本の神はつくづく、厳しく優しいツンデレだなと思う次第です。
せっかく当ブログに訪れていただいたのなら、少し前にアップしてます各王家の系図をご覧くださいませ。
それはもう、出雲だとか物部だとかかんけいないくらいに、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、今の僕たちはここにいます。
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CHIRICOさん
大変ご丁寧に説明いただき
ほんとに嬉しいです!
ありがとうございます!
なるほど、と
ふに落ちていく感じです。
海部家と物部家
の争いだったんですね。。
山幸彦さんのお墓と言われる神社があるけど
海幸彦さんどこへ?とか
また疑問が湧いて来たり。
月読みの力、、
潮の満干のことだったかー!とか。。
各王家の系図、
見てみます!
ありがとうございます。
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この暑い日本列島で涼しくてマイナスイオンがたくさん出ていそうなUPありがとうございます。
毎日、熱中症との戦い・・・盆明け早々フラフラです。CHIRICOさんも気を付けてお出かけ下さいませ。
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まったく、コロナに加えてこの暑さ、どうにかして欲しいですね。
流行りの首にかける扇風機を買ってみましたが、外では熱風が舞うだけで、ほぼ無意味でした(笑)
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