出雲大社(杵築大社)前編:八雲ニ散ル花 01

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そこは長閑な国だった。
民は山海の幸に恵まれ、大地から得られる良質な砂鉄からは鉄器が容易に産み出せた。
先祖は大いなる大陸移動の果てに、この地へたどり着いたという。

初代国王の名は「菅之八耳」(スガノヤツミミ)といった。
民や多くの者たちの声に耳を傾けたというのが、名の由来だという。
つまり出雲代々の王は武力ではなく、言葉で多くの民を説き、まとめ上げていた。

6代王「臣津野」(オミツノ)は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を大綱で引き寄せて島根半島を造ったと「国引き神話」で語られる。
これは出雲王国が単に島根半島に限らず、東は新潟を中心としたの越の一帯、西は北九州、南は四国までも勢力下であったことを伝えている。

紀元前5世紀頃に成立し、紀元後3世紀までの約700年間続いた麗しき和の国「出雲王国」。

その国はとある一人の男が引き連れてきた、渡来人集団によって失われていくことになる。
国は滅ぼされたばかりか、歴史からもその存在を隠されてしまった。
僕らは欺かれているのかもしれない。
紀元3世紀、激動の大和に、僕は足を下ろした。

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僕らの子供時代、いちばんの遊び場と言えば、それは神社でした。
かくれんぼや様々な遊びに丁度良い境内があり、裏山はわくわくする冒険に満ちていました。
思えば僕の神社好きは、この子供時代に培われたもののようです。
今尚、境内に入れば心穏やかになり、散策で見つける神跡にときめきを感じます。
それに伴って日本神話にも詳しくなり、当然「古事記」「日本書紀」といった記紀も読みふけるようになりました。

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神話とつながる聖地を探索すること、それが何よりの楽しみとなっていきます。
しかしそこにかすかな矛盾、辻褄の合わない歴史が見えてきました。
ネットや書物に溢れる様々な説や意見を調べていくうち、だんだん訳がわからなくなり、古代史の謎は深まるばかりでしたが、そこで一つの伝承と出会いました。
古代出雲王家の直系の子孫という「富家(向家)」の伝承です。
それは富王家子孫の一人と、そこに関わる複数の著者から製作された数冊の本に綴られていました。

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前置きが長くなりましたが、「出雲大社」へ出かけてみます。

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古くは「杵築大社」(きづきたいしゃ・きづきのおおやしろ)と呼ばれた出雲大社。
「八束水臣津野命が国引き給うた後、諸皇神達がこの大社をキヅき給うたのでキヅキと称するようになった」と出雲国風土記に記されています。
が、この出雲国風土記もその内容の正確さに疑問があります。
6代臣津野王の頃にはまだ杵築大社は存在していませんでした。

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飛鳥時代までの日本は、国造(こくぞう)という役職の者たちが各地を支配し、それを大和王朝は間接的に支配する、いわゆる地方分権状態でした。
しかし702年文武天皇の代に大宝律令が施行され、日本の中央集権が行われることになりました。
これにより大和王朝より任命された国司が各国の国府で政治を行い、国造は役を解かれることとなります。

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その頃の出雲では、古代出雲王家の子孫の他に、出雲国造である出雲臣家が力を持っていましたが、その出雲臣家は国造から意宇郡(おうぐん)の郡領に格下げされます。
出雲臣果安(ハタヤス)は今後、失業する可能性があることを知り、焦りを感じたようです。

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久しぶりに訪れた出雲大社は、うさぎのモニュメントが至る所にありました。
因幡の素兎にあやかったものと思われます。

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出雲大社の参道は「下り参道」、参道から下った先に本殿があります。
神様は高いところに祀られるので、本殿へ続く参道は上るように作られているのが通常です。
そして参道の先には、神域「八雲山」が見えます。

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参道に入るとすぐ右手に「祓社」(はらいのやしろ)があります。
ここでは穢れを祓う「祓戸四柱神」(はらえどよはしらのかみ)が祀られています。

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「瀬織津比売神」(セオリツヒメ)は、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流します。
「速開都比売神」(ハヤアキツヒメ)は、海の底にいて、禍事・罪・穢れを飲み込みます。
「気吹戸主神」(イブキドヌシ)は、速開都比売が禍事・罪・穢れを飲み込んだのを、根の国・底の国に息吹とともに放ちます。
「速佐須良比売神」(ハヤサスラヒメ)は、根の国・底の国に持ち込まれた、禍事・罪・穢れをさすらって無くします。

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祓社の裏手には「浄めの池」が広がっていました。

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参道を進むと、境内を流れる「素鵞川」(そがかわ)に石橋が架かっています。

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その手前を左手に曲がったところに「野見宿禰神社」(のみのすくねじんじゃ)があります。

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「水辺を歩く」乙女の像を横目に進むと、

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ありました。

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神社の手前には、やはり最近できたと思われる可愛いうさぎの像が、狛犬がわりに鎮座していました。

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野見宿禰は相撲の始祖と伝わっていますが、実際の話は違っているようです。

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物部イクメ王は領地を拡大した田道間守(タジマモリ)が、あたかも自分が王のように振る舞うのを嫌い、物部の出雲進駐軍司令官だった「秋上十千根」(アキアゲトチネ)にこれを抑えるよう指示しました。
十千根は秋上家へ仕えていた「天穂日」(アメノホヒ)の子孫で出雲国造となっていた「甘美韓日狭」(ウマシカラヒサ)に出陣を命じます。
がしかし、日狭はまだ、出雲では人望が少なかったので旧王家の「向(富)家」へ出陣を願い出ました。
そこで大田彦が「富」の字を「野見」に変え、「野見大田彦」の名で兵を集め出陣、見事田道間守を制圧し淡路島へ追い払いました。
大いに喜んだイクメ王は、野見大田彦に、物部の敬称である「宿禰」を与え、「野見宿禰」と呼ばれるようになりました。
この経緯が、野見宿禰と当麻蹴速(タイマノケハヤ/田道間守)の相撲の逸話に変えて伝えられています。

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野見宿禰神社の側には、「上官屋敷跡」という場所がありました。
上官(じょうがん)とは国造に次ぐ祭祀職とありますが、そこに正当なる出雲王家子孫の、富家や神門臣家の名はありませんでした。

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そして出雲国造家が出雲臣として、太古より出雲の正当なる血筋であるとばかりに、今に伝えられているのです。

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まっすぐに伸びた、松林の参道を歩いていると、右手奥に気になる場所を見つけました。

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ひっそりと鳥居が立っています。

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そこは「杵那築森」(きなつきのもり)と呼ばれています。

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出雲国風土記に「天の下の国造りをなされた大國主大神のお住いを、たくさんの尊い神々がお集いになって築かれた」とあり、ここがその故地であるそうです。
杵築の由来となったこの場所に、土地・木組みを突き固めるための要具「杵」を埋納したと伝わります。

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そこは社殿はなく、石の臼が鎮座していました。

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出雲臣果安は国造から郡領へと格下げされ、失業の危機に不安になりました。
そこで彼は神社の神職になりたいと考え、旧出雲王家の向家に出向きます。
「出雲平野方面が開けてくるだろうから、出雲神を祀る神社を建てて、共同で運営したい」と申し出ました。
向家は出雲王の神を祀り、主祭神を変えない条件で、出資する約束をしました。

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古代出雲には向家と神門臣家(かんどのおみけ)の二つの王家がありました。
今の出雲大社の祭神である大国主「八千戈」(ヤチホコ)は神門臣家の王です。
果安氏は向家との約束を守らず、自分たちの祖である天穂日の主人であったスサノオを主祭神にしようと謀っていました。
しかしそれが時の右大臣「藤原不比等」に知られてしまい、大国主を祀るよう厳命を受けます。

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果安は神門臣家に出向き、八千戈王の神霊を祀りたいと申し入れます。
出雲大社は当初、宍道湖の西岸に建てられる予定でしたが、神門臣家の勧めで八千戈王の遺体を埋葬した竜山の磐座を遥拝する今の場所に建設することが決定されました。
向家は領地の一部を売って出雲大社の境内地と神職達の屋敷の敷地・家屋を購入する資金にしました。
神門臣家は領地内の材木を切り出し、運び、大工などの人件費を負担し、出雲大社を建てました。
大社社殿は神門臣家の所有となり、本殿の鍵は神門臣家出身の上官「別火家」が所有していました。
国造家・果安らはほどんど出資しなかったということです。

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そうして716年、杵築・出雲大社は創建されました。

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いよいよ出雲大社の拝殿・本殿がある敷地へとやってきましたが、その境界である「銅の鳥居」の手前両サイドに石像があります。
左側にあるのが大国主と八上姫のロマンスを綴る「因幡の素兎」のモニュメントです。

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愛らしい姿にほっこりします。

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右側にあるのが、「ムスビの御神像」といい、大国主神の前に、「幸魂」(サキミタマ)・「奇魂」(クシミタマ)が現れて神性を得られたというシーンを示しています。

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この幸魂・奇魂の正体は、奈良の大神神社で祀られる「大物主」のことであるとも云われていますが、

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真実は海面で目を光らせている海蛇の様子を表しているとのことです。
出雲大社近くの「稲佐の浜」では、旧暦10月ごろ亜熱帯の海から暖流に流されてきたセグロウミヘビが打ち上げれられるのだそうです。

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古代出雲では竜蛇神信仰があり、このセグロウミヘビを捕らえ、ミイラを作り、龍神の依代として崇めたそうです。

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海蛇が流されてくる旧暦10月13日には稲佐の浜から竜蛇神をお迎えする神事が行われており、「神在月」の発祥となったと云います。

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