太祝詞神社〜神功皇后紀 外伝

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都々智神社からの戻り道、田んぼの中の大きな岩の上に、小さな社を見つけてほっこりしました。
田植えの邪魔だろうに、でも大地に鎮座する岩神様を大切に祀っているのでしょうね。

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さて、ブィ~ンと車を走らせていたら、太祝詞神社という小さな案内板を見つけました。
太っとい祝詞(のりと)とはなんぞや?とハンドルを向けます。

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集落を抜け、細い山道に入ってしばらくすると、きれいな川が流れる場所につきました。
もののけの姫が、いるのかな。

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そしてそこに太祝詞神社があるわけですが、これが

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良すぎた。。。

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深き森の異世界。

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「太祝詞神社」(ふとのりとじんじゃ)は、長崎県対馬市美津島町加志に鎮座しています。
かつては加志大明神・賀志宮と呼ばれていました。

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ここは、神功皇后の重臣であった、「雷大臣」の屋敷跡だと云われています。

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雷大臣とは、『日本書紀』に「中臣烏賊津」(なかとみのいかつ)と記される人物で、仲哀天皇の死に関する皇后の神がかりにおいて、審神者を務めたと記されています。

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ただし、『古事記』に彼の名はなく、また当初は中臣を名乗ってはいなかったとする説もあります。

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『尊卑分脈』では、雷大臣は「初めて卜部姓を賜う」と記されてあり、「雷大臣命は、足中彦天皇の朝廷のとき、大兆の道を習い、亀卜の術に達し、卜部の姓を賜りその事で供奉せしむ」と伝えられます。
彼は二韓征伐の後、津島縣主となって韓邦の入貢を掌ったとされ、 厳原町豆酘の雷神社の地に邸宅を構え、祝官として祭祀の礼や亀卜の術を伝えたといいます。

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太祝詞神社の祭神は「太詔戸神」(太祝詞神)と「雷大臣命」で、この太詔戸神は「天児屋根」のことであるとされます。

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卜術に優れた雷大臣は晩年ここに移り住み、祖神アメノコヤネを祀った、ということでしょうか。

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韓邦の入貢を監視するためとはいえ、都から遠く離れた九州の離島に残り住むことになった中臣烏賊津。
神功皇后伝承を追いかけていた時には、彼はなんと寂しい思いをしたのだろうかと感じたものです。

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しかしここの樹勢は良く、日差しを受ければ穏やかな心地よささえあります。

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拝殿の横に、対馬らしい石積みと宝塔がありました。

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これは、雷大臣命の墓と伝えられています。

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地元民から大切に守られている感じのする聖域。
5月末から6月中頃までは、幻想的なツシマヒメボタルの飛翔を見ることができるそうです。

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『続日本紀』には、彼は百済人の女性を妻に迎え、やがて子をなしたと記されていました。
きっと彼にとって、都よりも大切な穏やかな日々がここにあったのだろうと、思われたのでした。

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