対馬の西側に「木坂山」というこれまで斧を入れていない、太古から受け継がれる聖地があります。
その木坂山の麓にあるのが対馬一の宮「海神神社」(かいじんじんじゃ・わだつみじんじゃ)です。
海神神社の手前にはダイナミックな入り江があり、そこには石積みの石塔があります。
木坂山全体が神域と言える海神神社は、対馬一の宮という割にはどこか寂しげな印象です。
参道は山に向かって登っていく感じです。
木坂山はかつて伊豆山と呼ばれていたこともあるそうです。
と何やら、道端に鎮座するものがあります。
しめ縄などないのですが、存在感アリアリです。
目の悪い僕は、遠目に見て狛犬と勘違いしました。
まだまだ登ります。
鳥居の先にも階段です。
そして拝殿。
主祭神は「豊玉姫命」ですが、かつては「八幡神」だったといいます。
中世以降は、八幡信仰発祥の地として八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現 厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称されていました。
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたと云います。
旗は後に現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称されました。
最近話題になった韓国の人が対馬から仏像を二体盗んだ事件、あの神社が海神神社です。
ここの神は気性が荒いようで、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承があるそうですが、
最近の隣国に続く大きな事故と、仏像の盗難を結びつける人もいるみたいです。
境内の隣の野原に1本の大きな木があります。
とあるドラマにも使用された大木だとか。
なかなかロマンティクなシチュエーションです。
【雷神社】
豆酘にある「雷神社」(いかづちじんじゃ)です。
なぜ、「海神神社」を外伝としたのか、それには理由があります。
神功皇后は新羅遠征に際して、対馬は行きも帰りも東側のルートをとっているようです。
とすると、西側の海神神社に皇后は行かなかったのではないか?という疑問が沸きます。
実は対馬には、「雷大臣命」を祀った神社が多数あります。
「雷大臣」とは神功皇后の重臣の一人で、仲哀天皇を祟った神の名を知る祭祀の際、審神者となった人、中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)のことであると云います。
烏賊津=雷というわけです。
中臣烏賊津連は三韓征伐凱還の折、対馬県主となって豆酘に館を構えました。
ここ雷神社がその館跡ではないかと云われています。
中臣烏賊津連は祭祀の礼を教え、太古の亀卜の術を伝えたと云います。
そして松浦、壱岐、対馬を行き来し束ね、のちに異国が攻めてこないよう国を守ったそうです。
壱岐真根子は中臣烏賊津連の子だと云います。
「海神神社」は対馬に残った中臣烏賊津連が、神功皇后の功績を称え残すために、後に木坂山の聖地に祀ったのではないでしょうか。
余談ですが、雷神社へ渡る小川の橋は、石や根に使われていたであろう、薄く硬い石の板が使ってありました。
【雷命神社】
対馬市阿連川沿いに鎮座する「雷命神社」(らいめいじんじゃ)、ここも対馬の西側になります。
そばに「傳教大師入唐帰國着船之地」という石碑があり、最澄が唐から帰国した際の上陸地であると伝えられています。
狛犬の前には砲弾。
国境の島は、戦時中はたくさんの砲台施設が造られました。
古くは「いかつちのみことじんじゃ」と呼ばれていたそうですが、
明治までは「八龍大明神」とも呼ばれていたそうです。
当地も、雷大臣の住居跡であり、亀卜発祥の地と伝えられています。
社紋は「橘」。
また、この辺りは「オヒデリ様」という太陽信仰も伝わっているそうで、
対馬特有の天道信仰との関係も気になるところです。