
ここに於いて、其の伊須気余理比売命の家、狭井の河の上に在り。
天皇(すめらみこと)、其の伊須気余理比売の許幸行し、一宿御寝坐しき也。
其の河、佐韋(さい)の河と謂ふ由は、其の河辺に於いて、山由理草(やまゆりくさ)多在る故、其の山由理草の名取り、佐韋の河となづく也。
山由理草の本名、佐韋と云ふ也。
- 柿本人麿 著『古事記』


『五条桐彦氏、ついに捕縛される!』

奈良県奈良市本子守町には、子守明神と呼ばれる「率川神社」(いさがわじんじゃ)があります。

当社は大神神社の境外摂社で、正式名称を「率川坐大神御子神社」(いさがわにいますおおみわみこじんじゃ)といいます。
つまり、大神神社祭神の御子神を祀る神社だということで、境内にある遥拝所は大神神社を遥拝しています。

創建は推古天皇元年(593年)2月3日、大三輪君白堤が勅命により初代天皇の皇后である「媛蹈韛五十鈴姫」(たたらいすずひめ)を奉斎したことに始まるとされます。

中本殿に主祭神として「媛蹈韛五十鈴姫命」が祀られ、右本殿に三輪山の神、大物主として「狭井大神」を、左本殿にはその后である「玉櫛姫命」を祀ります。

つまり、娘神を父母神が見守るように祀られていることから、子守明神と呼ばれています。

率川神社は奈良市最古の神社とも称されていますが、治承4年(1180年)12月、平重衡による南都焼討によって社殿が焼失。
建久元年(1190年)に興福寺の支援により再建されると、以後は興福寺の支配下に入りました。

中世以降は春日若宮神官により管理され、「春日三枝神社」と呼ばれた時期もありました。
近世には春日大社の大宮外院11社のひとつとされていましたが、明治10年(1877年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められ、今に至ります。

境内には「蛙石」という石が奉納されていました。

カエルは一度にたくさん(1500個)くらいの卵を産むので、縁起が良いとのことですゲコ。

本殿も誠に雅ではありますが、同じくらい真っ赤な境内社があります。

その春日社と

住吉社との合間に鎮座するのが、

「率川阿波神社」です。

この『延喜式神名帳』に「率川阿波神社」と記載される式内小社は、宝亀2年(771年)大納言是公による建立と伝わり、祭神は「事代主命」となっています。
天文元年(1532年)の土一揆や、三好三人衆と松永久秀の兵火にかかって廃滅し、その後、西城戸町の人家の裏に松樹1株を神木とし祀られていましたが、甚だ廃れていたようで、明治になってようやく小祠が祀られるようになり、大正9年(1920年)に率川神社境内に社殿が遷されたと伝えられます。

粟神といえば事代主なのですが、阿波、そこはかとなく気になるところです。



さて、この率川神社で有名、かつ重要な祭りが、6月17日に行われる例祭「三枝祭」(さいくさのまつり)です。

三輪山に咲く笹ゆりは、古くは”さいぐさ”と呼ばれ、この花を供えて祭りが行われることから、一般には「ゆり祭り」の名で知られています。

「罇(そん)にしらき・清酒を盛り、缶(ほとぎ)にくろき・濁酒を盛って供え、酒樽の周りをゆりの茎で囲む」

「折櫃に納めた熟饌を柏の葉で蓋をし、黒木の棚に備える」

「ゆりの花を大きな桶に盛って供える」
といった古式に則った様式で供えられ、鎮花祭に因んだ祭りで、悪疫除けの祈願が込められているとのことです。

三島由紀夫も晩年の小説『奔馬』において、登場人物に「これほど美しい神事は見たことがなかった」と語らせている三枝祭。

僕が美しき乙女らに見惚れていると、突然背後から声をかけられました。
「あの、五条さん、ですか?」
・・・ついにこの時が来てしまいました。僕も年貢の納め時が来たようです。
僕は両手を上げ、ゆっくり振り向いたのでした。



捕縛された僕が連れてこられたところは、1870年創業の『吉野本葛』の名店「天極堂」でした。
さては、葛もちサイダーなる得体の知れないものを飲まされ、知っていることを洗いざらい自白させようとでもいうのでしょうか。

覚悟を決めて席についた僕の目の前に出てきたのは、吉野葛を練り込んだ、葛うどんでした。うまし。
突然僕の背後に現れたのは、知りすぎた男を消すためのヒットマンではなく、『偲フ花』のファンのお方でした。
フウやれやれ、また命拾いしてしまったぜ。

食後に出てきた、出来立ぷるんぷるんの葛はとても温かくやさしいお味で、生きながらえた喜びもあってとても美味しゅうございました。
“よれ”さん、ごちそうさまでした。
福岡近辺へのお越しを、ぜひ楽しみにしております。

この三枝祭りの日は、午後1時すぎから七媛女(ななおとめ)・ゆり姫・稚児らの行列があるというので、よれさんと率川神社に戻ってきました。

しばしの神事のあと、行列がスタートします。

稚児姫ちゃんや、

大きな笹ゆりの山車を引く

曳き方ちゃんたちのロリかわよ。

そして、七媛女・ゆり姫さんたちが、しゃなりしゃなりと歩いて行きます。

この祭りは『古事記』に記される、初代天皇の「妻求ぎ(まぎ)神話」を題材にしたものと理解できます。

初代天皇が大和入りを果たし、后となる媛女(おとめ)を求めました。
そこで、家臣の大久米が申すには
「神の御子と伝える媛女がおります。三島の湟咋(みぞくい)の娘の勢夜陀多良比売(せやだたたらひめ)という御方が非常に美しかったので、三輪の大物主の神がそのが媛女が厠にいる時に、赤く塗った矢になって厠に続く河に流れてきました。媛女は驚いて、その矢を床の辺りに置きましたところ、たちまちに美しい男になって、二人は結婚したそうです。そして生まれた娘が、富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)であります。後にこの娘は、名を比売多多良伊須気余里比売(ひめたたらいすきよりひめ)と改めました。これは富登という文字を嫌って改めたものです。そういう次第で、神の御子と申されております」

そこで天皇と大久米が、大和の高佐士野を訪ねると、そこで七人の嬢女が遊んでいました。

大久米が申し上げました。
「大和の高佐士野を七人の嬢女が歩いております。誰をお召しなさいますか」

「うむ、では一番先頭を立っている年長の娘を妻にしよう」

そこで大久米は、先頭を歩いていた嬢女、伊須気余理比売に天皇の言葉を伝えました。
しかし伊須気余理比売は、大久米を見て言いました。
「そなたの目は、あの鳥たちのように、どうして入れ墨が入っているのですか」

大久米は答えて歌います。
「あなた様のような高貴な嬢女に、直接会うため、私は入れ墨を入れているのですよ」

「なるほど、それでは天皇のご命令のままに従いましょう」
こうして、伊須気余理比売は初代天皇の后となったのです。

この伊須気余里比売こそが、蹈鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)であり、率川神社の御祭神なのです。

その後、天皇が姫の元へ通います。当時は妻問婚でした。
伊須気余理比売の家は、狭井の河の上にあったと『古事記』は記します。

狭井の河は、佐韋(さい)と呼ばれ、それは河辺に山由理草(やまゆりくさ)がたくさん咲いているから、「佐韋の河」と名付けられたと言われていました。
山由理草の本名は佐韋と云ふ也、と。

三輪山に咲くヤマユリとは、実際にはササユリのことです。
ゆえに率川神社の三枝祭では、笹ゆりを添えて神を讃え尊ぶのです。


こんにちわ、私も見学させていただきました。ただ見れたのが、奥の席に通されてテレビモニター越しだったので、肝心なところを見れなかった感じです。また、祝詞奏上、禰宜の所作などもあまり聞こえず見れずでした。次回はカエル石辺りに陣取ろうと思います。行列も見させていただき稚児行列が不思議で正装男の子1人に正装女の子複数人??台車引き稚児行列男女人数位と正装男の子のあまりの少なさに違和感を感じた次第です。大奥系?三輪明神拝詞にある子孫の八十に続き~を表しているのか?この年は応募の男の子が少なかったので等の理由?と考えていました。御旅所も漢国神社・采女神社の前も通らないので、不思議に思った次第です。警察の交通整理が大変なのかななんても思いながら行列の後ろを歩いてました。ちなみに、お昼の私の食事は奈良駅前の王将でした。駅前王将無敵です外国人もたくさんで餃子注文されていました。ただ車運転の為ビールも飲まずでした。余談でしたが、その漢国神社でも同日に鎮華(はなしずめ)三枝祭となるものもやっておられました。こちらは祭神大物主で率川神社は狭井大神で荒御霊不思議で、鴨神社御阿礼神事を思いかえしました。ユリの花の生け花も幸の神信仰を感じさせてくれてました。来年は6月16日の大神神社より率川神社に行幸のささゆり奉献神事を見学に行こうかと思います。ちなみに系図などのパスワード保護の場所を見るには会員か何かに入らないと見れないのでしょうか。ご享受いただきましたら幸い致します。
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↓匿名になってしまいました
よれですー
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実はワタクシ、本当はassassinで、、、
なワケないですが、此方こそ過日はありがとうございました。
いつの日か?愛宕さん行脚紀行(狙うは参詣ポイント千倍週間)がアップされるのを楽しみにしています 笑
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ああそうでした!ご利益1000倍!暑さと虫と戦う愛宕さん登拝、いつか、必ず、きっと・・・
宝満山もぜひ、ご一緒に😊
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narisawa110
アババババw
私も山レコで身バレした事があります。ドキドキですよね。
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ドキドキ・デス💓
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