古事記曰く、
大国主神が出雲の美保の岬にいますとき、波間よりミソサザイの皮を衣服にして舟に乗ってくる神がいました。
大国主が供の者に聞かれても、だれもその神の名を知る者はいません。
すると、ヒキガエルが「久延彦が知っていますよ」と言いました。
大国主神が久延彦を呼び寄せてお聞きになると、「そのお方は神産巣日神の御子の少名彦神です」と答えました。
久延彦というのは、歩けはしないが天下のことにをすべて知るソホド(案山子)の神だと云います。
神産巣日神が少名彦にこう言付けていました。
「あなたは大国主と兄弟となって、この国を作り堅めなさい」と。
その教えに従って、大国主と少名彦は相並んで、国を作り堅めていきます。
ところが、少名彦は突然、常世の国に去られました。
大国主神は再び、美保の岬で「わたくし一人で、どのようにこの国を治めたらいいのでしょうか」と困っておられました。
すると、海より光って寄ってくる神があります。
「わたくしを、大和の青垣になった東の山上へ、祀りなさい。わたくしを丁寧に祀れば、あなたと共に、国を作りましょう。 もし祀らなければ巧くいかないでしょう。 」と告げました。
奈良の桜井市にある、なだらかな美しい神奈備「三輪山」。
そこは国内でも屈指の聖域です。
その三輪山を御神体とする聖地が「大神神社」(おおみわじんじゃ)です。
大神神社の御祭神は「大物主大神」(オオモノヌシノオオカミ)。
大物主とは一般に、出雲大社で祀られる「大国主命」と同一神とされており、大神神社の由緒では大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったと記してあります。
参道入口には、出雲大社を超えんばかりの、大きな鳥居が鎮座します。
大鳥居から大神神社に向かう途中、「大三輪神祠 大神教本院」なるものがありました。
こんな看板があるので、気になります。
主祭神は当然「三輪坐大物主大神」となります。
大神神社を信仰する神道系教団で、もとは大神神社の中にあった組織だということです。
明治5年に官幣大社大神神社の小教院として発足、
明治15年に社教分離令の発令にともない宗教活動が禁止され 、三輪信仰の絶滅を憂いた当時の大神神社の禰宜が宮司の了承を得て大神教会を分離独立させて創立したそうです。
僕が気になったのがこの「三柱鳥居」です。
何箇所かで見かけたこの鳥居。
ここでは「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」の造化の三神を表し、その柱がつながる事で三神のムスビの働きを表していると云います。
ただ比較的新しいものなので、神秘性はあまり感じません。
大神神社境内へと進んできました。
鬱蒼とした杜にぽっかり開いた入口。
一ノ鳥居の雄大さはありませんが、しかしそれ以上に神威を感じさせるニノ鳥居です。
鳥居の先には、木がよく茂る杜があり、気持ち良い参道が続きます。
「大物主」とはどういう神なのか。
出雲に祀られる大国主は、ともに国造りを行っていた「少彦名」(スクナヒコナ)が「常世の国」(海の彼方にあるとされる異世界)へ去った時、
これからどうやってこの国を造って行けば良いのか、思い悩みます。
すると海の向こうから光り輝く神様が現れて、「自分がこの国造りを手伝おう、その代わり大和国の三輪山に我を祭るように」と言いました。
大国主神が「あなたはどなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたと云います。
その時の像がが出雲大社にあります。
幸魂と奇魂を合わせて「和魂」(にきみたま)と言いますが、
大国主神は自らの和魂を三輪山に、大物主神として祀りました。
これが大神神社の始まりと伝わります。
参道の終盤に「祓戸神社」(はらえどじんじゃ)がありました。
ここで、身の穢れを祓って先へ進みます。
クシヒカタは丹波からやってきた海家一族に圧倒されて、葛城から三輪山方面の磯城郡に移り、指導者の家の長として磯城地方の首長になりました。
磯城を地盤としたことから、東出雲王家出身のクシヒカタ一族は、磯城登美家とも呼ばれるようになり、後では磯城の県主となったと云います。
さらにクシヒカタは、東出雲王官の宮内社から「事代主命」の御魂を三輪山に移し祭祀しました。
一般には大物主は大国主の和魂と解されていますが、その正体は出雲8代少名彦「八重波津身」、いわゆる「事代主」のことであると云うことです。
また出雲のサイノカミの神霊も三輪山の西北に移したことから、こそは狭井坐神社と呼ばれるようになりました。
出雲族は古くから、神名備山信仰を持っていました。
祖霊が形の良い山に籠っている、という考えがあり、円い山は女神の山と考えられました。
葛城や磯城では、太陽は朝、三輪山から現れるので、三輪山の神は「太陽の女神」とも考えられるようになったそうです。
そこで、クシヒカタは出雲の「佐姫山」(三瓶山)の太陽の女神を三輪山に移し祀りました。
これによりクシヒカタは「天日方奇日方」(アメノヒカタクシヒカタ)と、呼ばれるようになります。
その意味は、「天の奇しき力を持つ日(太陽)を祭る人」であると云います。
葛城・大和王国の初代大王に就任した天村雲は、クシヒカタの妹「蹈鞴五十鈴姫」を后にむかえました。
大王は后を三輪山の太陽神の最初の女司祭者に指名します。
こうして出雲族の朝日を拝む信仰が大和にもひろがり、三輪山から昇る太陽を拝むために、多くの人々が集まって政治的な結束が強まりました。
三輪山の祭りは、登美・磯城家の后や姫が司祭者となって行われ、彼女らは「姫巫女」(卑弥呼)と呼ばれるようになっていったと云います。
葛城王国の人々は、蹈鞴五十鈴姫を三輪山の女神であるかのように崇拝し、三輪山の西北、狭井川の上流付近に斎宮を建てました。
そこは出雲屋敷と呼ばれたと云います。
大和王国の大王は、姫巫女の祭祀能力と人気が力になっていきました。
出雲王国と同じく、祭りに集まる人々の結び付きから、宗教による指導と協力の政治が行われていきます。
その政治はマツリゴトと呼ばれ、出雲出身の鴨族(登美家・高鴨家)と丹波系の海・尾張家に支えられて少しずつ支配地を広げていったと云います。
葛城・大和王国は出雲王国と友好的で、その後も連合王国のような関係にありました。
葛城王家は、クシヒカタの二人の妹「蹈鞴五十鈴姫」と「五十鈴依姫」、クシヒカタの娘の「渟名底仲姫」(ヌナゾコナカヒメ)と、三代続けて登美家から后を迎えられた、と日本書紀に記されています。
参道の終点付近に、大物主が人間の女性に恋したというロマンティックな伝説を伝える「夫婦岩」があります。
葛城大和王家の后は、登美・磯城家から3代続けて迎えられ、海家より事代主の子孫の血が濃くなりました。
また、当時は妻問婚だったため、御子は母親の里で育てられたと云います。
こうして大和王朝の3代以降は「磯城王朝」と呼ばれ、大和の出雲王国のようになったと伝えられていました。
拝殿が見えてきました。
「巳の神杉」という立派な杉が境内にあります。
大物主は蛇神であり、水神または雷神としての性格を持っていると伝えられています。
稲作豊穣、疫病除け、酒造りの神として篤い信仰を集める大物主ですが、ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきたことに由来し、蛇神として扱われるようになったのでしょう。
この杉の穴には白蛇がいて蛇の神様が卵を丸のみするということから、願い事も丸のみしてもらえるという言い伝えがあり、たくさんの卵、お酒などが奉納されています。
大国主神に少名彦の名を教えた久延彦神は、歩けはしないが天下のことにをすべて知るソホド(案山子)の神だと云います。
カカシの由来の一説に元は「カガチ」であったと云う話があります。
カガチは「ヘビ」を意味します。
また、ソホド神とは赤顔のサルタ彦の別名だと云うことです。
大神神社には御神体を祀る本殿が存在しません。
三輪山そのものが大物主の御神体なので、拝殿から直接三輪山をお参りをするという、太古の形式がとられています。
拝殿の奥には、三輪山と拝殿の区切りに、「三ツ鳥居」があります。
この鳥居の奥は神職さえも立ち入れない、禁忌の聖域です。
いわばその三ツ鳥居は現世と聖域の結界となっており、その形状はとても特殊なものとなっています。
3個合わさった鳥居の真中、本鳥居には扉が取り付けられているそうですが、開放されるのは元旦の午前1時から行われる繞道祭(にょうどうさい)の時のみということです。
この三ツ鳥居は社務所に願い出ると、拝殿横から垣間見ることができます。
また、近くの桧原神社には、似た形状の三ツ鳥居をしっかり見ることができます。
社務所前には「なで兎」が鎮座します。
「因幡の素兎」ゆかりなのでしょうが、なで兎をなでると体の痛い部分が治り、運気も上昇すると云われています。
拝殿の左側を回ると祈祷殿があり、
その先に「くすりの道」があります。
大物主は薬の神様でも有名です。
道横の灯篭は、各製薬メーカーなどが寄進したものです。
少し行くと小さな鳥居がありました。
「少彦名」(スクナヒコナ)を祀る「磐座神社」があります。
拝殿さえ無く、御神体の磐座を直接拝するようになっています。
くすりの道の先で分かれ道があり、一方は「久延彦神社」、もう一方は「狭井神社」へと続きます。
「久延彦神社」(くえびこじんじゃ)へ続く道を進むと、展望台がありました。
そこからは後ろに三輪山が、
そして前方には奈良盆地、大和のまほろばの絶景が見えました。
竹林の細い参道を進み、
社殿が見えてきます。
こちらが表参道のようです。
知恵の神とされる久延彦神はスクナヒコの名を教えた神。
案山子の神であり、サルタ彦の別神と云うことです。
くすりの道の先のもう一方、「狭井神社」(さいじんじゃ)に着きました。
正式には、「狹井坐大神荒魂神社」(さいにますおおみわあらみたまじんじゃ)と言います。
境内に宗像三女神の一柱を祀る「市杵嶋姫神社」がありました。
朱色の雅な社殿が佇んでいます。
その先に狭井神社拝殿が見えます。
狭井神社は大物主の「荒魂」(あらみたま)を祀っていると云われていますが、
本来はクシヒカタが出雲の幸神(サイノカミ)を祀った場所だと云います。
古くより華鎮社と称され、病気を鎮める神としての信仰が篤く、大神神社との両社で行う「鎮花祭」は、春花びらが散るのとともに、はやる疫病を鎮めるために行われます。
狭井神社の拝殿の脇に「薬井戸」と呼ばれる御神水があります。
薬井戸の湧水はご神体の三輪山から出ているそうです。
古くから万病に効くと言い伝えられ多くの人が訪れます。
江原さんも大絶賛の薬井戸の水は、大量に持ち帰ることはNGですが、少量ならばペットボトルに入れて持ち帰ることもできます。
近年では渇水であったりと、水量が減ってきているようで心配です。
三国志・魏書に「その国はもと男子をもって王となし、続くこと7・80年。以後和国は乱れた」と書かれています。
この男王の時代とは、初代「天村雲」(神武天皇)、2代「沼川耳」(綏靖天皇)までの海・葛城王朝を指していると思われます。
3代「玉手看」(安寧天皇)以後は海家よりも出雲系登美家の血が濃くなり、磯城王朝になりました。
この時代はいわゆるヒメ・ヒコ制であり、当時の民衆には司祭者のヒメ(巫女)が、政治家のヒコ(大王)より尊敬されました。
記紀には大王家だけが、大和の支配者であるかのように書かれています。
しかし実力があったのは第2代大王まで、3代大王以降には支配力は衰え、大和は畿内の3割ほどを領地として支配する状態でした。
旧事本紀に、大和の豪族3家の系図があるそうですが、その最初が「登美家」で、次が「尾張家」と、有力な順に書かれているそうです。
すなわち登美家が準大王の家柄だったと云うことです。
大和全体の支配力の順位は、磯城大王家から登美家・尾張家・高鴨家であり、それらの豪族が狭い大和地方で覇権を争っていた、と伝えられています。
高鴨家は、西出雲王家の神門臣家が大和に移住した多岐津彦の家系です。
天皇という称号は弥生時代には存在せず、「大王」(おおきみ)の称号で呼ばれました。
天皇制は天武天皇の頃成立したと云われています。
持統女帝が命じ、藤原不比等が編纂させた記紀の編集方針の第一は「万世一系」を確立することでした。
つまり日本を支配するためにも、対外国に自分たちの由緒を正当化させるためにも、自分たちは天上世界から降臨して連綿と続く大王家の末裔であるというストーリーを創出することが必要だったのです。
渡来人の血筋が流れているとか、出雲王朝やその後の王朝を次々と倒してきた征服王朝という歴史は、隠されてきたと云われています。
狹井神社では社務所で申し込むと、三輪山に入山する許可をいただけます。
三輪山は太古の昔から聖域で長年禁足地でした。
しかし、近年入山して登拝することができるようになりました。
敬虔な信者の方は、山自体が御神体なので裸足で登山します。
三輪山登拝に際しは「午後4時までに下山」「写真撮影・飲食・喫煙は禁止」「山中の情報を口外しない」などいくつかの規則があり、絶対遵守です。
なのでこれ以上語ることはできませんが、片道90分ほどのそれなりに厳しい登山です。
実際に登頂してみて思うのですが、三輪山はやはり、本来侵すべきでない聖地でした。
山頂に広がる不思議な光景を眺めながら、近年解禁されていく禁足地の聖域に、微かに憂いを感じました。
大神教会のホイホイ看板、先生もご覧になられてましたかww
御朱印もらう人はほぼ吸い込まれる様にしてあそこに行く気がします。
さて、富士林先生の本を拝読した後だと、色々考えてしまうのが大神神社ですね。
事代主を、出雲大社の大国主と同じで正式に移動してきた神社という事になるのでしょうか。
西の大国主、東の事代主
今では三刀屋神社や、熊野大社での各王家の本宮としての位置付けは薄くなっていますし、そもそも、熊野大社は第二次物部東征の後。
大神神社の元宮としての神社は、よく考えたらどこからなのかハッキリ大元本にも出ていない気がしています。
もしかしたら王宮近くのあの高校の何処かに、最初の埋め墓、があったのかもしれません。
しかし、大神神社の最大の謎は個人的には大物主の正体でもなく、太陽の女神が天照になった話でもないと考えているのです。
何故八咫烏が居ないのでしょうか?
大神神社の祭祀形態は、伝統的な出雲式で、蛇神の投影が今でも色濃く残ります。
八咫烏神社は宇陀の方面であり、磐余彦ルートと思われますがワニからは遠すぎます。
登美家から、謎の太田家に祭祀が移りますが、八咫烏が居ないのは不自然な気がします。
大神神社の西側には後に阿部家が住んだともされ、現在でも山辺の道近くの神武天皇顕彰碑には、北斗七星の形に石が並べられています。
賀茂氏が後で入り込めるので仲は悪くなさそうです。
大神神社は、太田氏による、あの辺では一番後の神社なのかなという気がします。
サイ神社の方が古くなければ今の様な感じにならないと思うのです。
なんらかの理由により、最終的に大神神社の近くに豊家ノ山古墳ができた事と関係してくる気がする訳です。
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三輪山の最初がクシヒカタによるものなら、その大元は天宮山になるのではないでしょうか。高校裏のあの場所は拝み墓になりますので、埋め墓はないと思われますが、わかりません。
そう言われてみれば、確かに大神神社には八咫烏の影も形もありませんね。代わりにいるのは「なでうさぎ」ですよ。記紀で大物主が大国主の分身という設定ではありますが、そこにちゃっかり因幡の素兎がいるのはちょっと不自然な気がします。太田氏と宇佐氏は思った以上に近いのかもしれませんね。
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富士林先生の本には、鳥海山は、読み方を誤魔化して、体制に反していませんよと方便を使ったくだりが出てきます。
大神神社もそうですよね
まんま
「おおみかみ」神社ですもんねww
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古代人も苦労したのでしょうね。
方便を使いつつ、後世にヒントを残そうとしたのでしょう。隠された真実を紐解くということは、故に現代でもリスクがあるのかもしれません。
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展望台のところにはたくさんの桜が植樹されています。もし、まだその時期の訪問をしていらっしゃらなければ、機会がありましたら是非。ソメイヨシノも素晴らしいですが、ソメイヨシノが終わる頃には今度は枝垂れ桜が素晴らしいです。平日であればかなり空いています。10時半くらいになると関西圏のお客さんを集めた観光バスが来るので20分間くらいは賑わってしまいますが、今のところは穴場と言えると思います。
神社巡りは一人で行くことが多い私ですが、三輪山登頂だけは一人では不安であったので、誰かと、と思ってはいましたが、結果6人の大所帯で行ってきました。仲間には「神様のお山だから!」とキツく言っておきましたので、みんなお行儀良くできたかと思いますが…。
そもそも運動不足で声を発する余裕がなかったというのもありますが。
また登りたいです。
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過去3年、吉野の桜を見ようとチャレンジしましたが、いずれも早すぎ遅すぎで桜の季節を外しております。
またリベンジしたいと思っていますが、その際はぜひ大神神社も訪ねてみます。
良い情報、ありがとうございました!
三輪山は2度登りましたが、圧巻ですね。
三輪山の近くの山中にダンノダイラという、出雲族の磐座があるのですが、そこはまだ未訪問の為、この夏行けたらいいなと思っています。
まあ、コロナ次第ですが。
奈良も何度訪れても良いところですね♪
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神社になにがしかの形でウサギさんがいらっしゃる場合、
それは、いにしえの豊国宇佐族に由縁があるから。
と考えます。
八幡宮にウサギさんの彫り物があったり(応神天皇の秘された出自に関係)、神社自体がウサギさんや月神を祭神としていたり(白兎神社、調神社ほか)、
豊国宇佐族が暫しその土地にいた旧跡だったり、、、
大三輪神社にしても然別。
いにしえ、磯城王朝が滅亡の際に出雲式の祭祀や太陽の女神信仰を停止させて
その代わりに、豊国宇佐族が先祖代々深く信奉する
月神の信仰を桧原神社で開始させ、
その祭司には宇佐の豊姫/豊来入姫(神話では、豊鋤入姫命=イクメ大王/垂仁の異母妹)が当たったという。
海部、磯城王朝の三輪山歴代祭司、日女命/大倭日女命が太陽の女神の化身/顕現とされて
人々から大日霎貴命/大日女命と呼ばれていたのに対して、
月神(月の女神)の形代/顕現の稚日女命/稚日霎貴命と奉られた。とか?
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なるほど、大神神社の撫でうさぎも、豊姫が倭笠縫邑で姫巫女となったことの痕跡であるということですね。
因幡の素兎神話にもあるように、出雲家と宇佐家には、古代から長い繋がりがあるように思われます。
海家が日本にやってくる以前、またドラヴィダ族が出雲にやってくる以前から日本に居たとされる宇佐家の、その正体は謎に包まれていますね。
僕ら日本人の起源を示す、重要なキーパーソンの一つだと思われますが、彼らがどこからやってきたのか、宇佐家の伝承でもそれは明かされていないのは残念です。
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