彌伽宜神社:常世ニ降ル花 井氷鹿皓月篇 04

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京都府舞鶴市鎮座の「彌加宜神社」(みかげじんじゃ)を参拝してきました。
ミカゲって、読めね~。。

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当社は「大森神社」とも呼ばれ、その名に相応しく、住宅街の中に心地よい緑の参道が200mほど続いています。

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参道には誓約(うけい)で生まれた五男三女神を祀る「八代神社」や、

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「鹿島・香取神社」が鎮座しています。
こちらは由緒などを見ると、鹿島神社とだけ表記されており、香取神は後付けで、本来は武甕槌のみを祀る摂社だったのかもしれません。

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そしてもう一社、参道にある「三安神社」は、旧舞鶴海軍病院の守護神として、伊勢神宮から天照大神を勧請した神社だったとのことです。

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二の鳥居を潜ると社殿がありました。

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『丹後風土記』には、「彌加宜社は往昔、丹波道主命の祭り給う所にして、社中に霊水有り、世に杜清水と号す」と記されています。
これをもって由緒では、当社の祭神は「天御影命」(あめのみかげのみこと)であり、崇神天皇の御宇11年、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)が天御影を霊水の上に鎮斎したのが創建であるとしています。

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つまり、この神殿の下には、三尺に四尺の方形をした霊泉があり、故に「杜清水」(もりしみず)の名で呼ばれているのだそうです。

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非常に神秘的で謎めいた由緒ではありますが、いくつか疑問点も思い浮かびます。
天地悠久さんのブログ『かむながらのみち』で触れられていますが、『倉梯村誌』には「始め現時の行永小字弥伽宜谷に奉祀せられしが…(中略)…再遷三遷遂に現神域に奉祀せられたりとの説あれど」とあり、8世紀以前あたりに遷座された可能性があるとのことです。

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そうであるならば、本来の「杜清水」は、どこにあったのでしょうか。

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本殿の横には、社殿下の霊泉から湧き出る杜清水をいただける場所が用意されていますが、

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境内にはさらに水が滔々と湧き出る池があり、こちらも杜清水であるとしているようです。
この辺り一帯が、湧水地ということでしょうか。

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何より疑問なのは、大和から逃亡した道主大君が、なぜ当地でアメノミカゲを祭祀したのか、それが良く分かりません。
確かに『先代旧事本紀』や『新撰姓氏録』によれば、天津彦根の子に天御影がおり、彼の娘「息長水依媛」はヒコイマス大君の后となって、道主命を儲けています。
なので道主大君が外祖父を祀ったということでしょうが、何だか不自然極まりないのです。
なぜ天御影なのか。父のヒコイマス大君や、祖父のオオヒビ大君ではいけなかったのか。

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そもそも、アメノミカゲといえば天村雲と伊加理姫の間に生まれた海部家の祖「天御蔭」(大和宿禰)を思い浮かべるのですが、時代の違う天御蔭と天御影は別人なのでしょうか。

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さらに混乱させることに、彌伽宜神社では、祭神の天御影を、亦の名は「天目一箇命」(あめのまひとつのみこと)としていることです。
これは『新撰姓氏録』に天目一箇神は天津彦根命の子である、と記されていることによるものでしょうが、天津彦根の子=天御影=天目一箇ということになれば、ますます筑紫・伊勢忌部氏の祖神と言われる天目一箇と道主大君との関係性が分からないことになってきます。

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彌伽宜神社は、女布の笠水神社や伊加理姫神社と7kmほどしか離れていません。
なので当地もしくは旧社地には、伊加理姫の子で笠水彦の父である、海部家の祖である方の「天御蔭」が祀られていたのだと、僕は推察します。
道主大君は大和から逃れ、海部家の領地である丹波へ向かいます。そこで伊加理姫系の一族に当地で匿われることになり、それで天御蔭を祭祀した、ということではないでしょうか。
後年、『先代旧事本紀』や『新撰姓氏録』に、天津彦根の子が天御影だと記され、両者が混同されていったのではないかと思われます。

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天村雲が伊加理姫を娶った時期は早く、天御蔭は当地の母親の元で育てられたというのが僕の思い至るところではあるのですが、narisawaさんのご指摘のように、国産水銀の採掘が思いのほか後年になってなされたということなら、ちょっとこの考察は揺らいでしまいます。
また杜清水は「延齢泉」とも称され、地名の「行永」は、「息長」(おきなが)にも通じることから、天津彦根系 息長・天御影説も完全に否定できない部分は残ります。

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この他、当地には「蛇切岩伝説」というものが伝えられていました。

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とある若者と契りを交わした「おまつ」が、それを知らぬ親から縁談を迫られ、世を儚んで身投げして大蛇となった。
大蛇となったおまつは、今度は村人に危害を加え、退治されてしまったという、なんでそうなった、というお話でした。

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この伝承の巡礼はしていません。
また機会があれば、参拝してみます。

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5件のコメント 追加

  1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    ホヒる大捜査戦(笑)真の系図が残されているとしたら、それは永遠に表舞台には出てこないのかもしれませんね(T_T)

    いいね: 2人

  2. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

    こんにちは。近江の方の御上神社の天之御影神(御影山あるからこっちの字?)にも大蛇と百足のお伽噺ありますね。

    百足はたたら製鉄の槌を交互に打つ様が百足にたとえられたので向手(ムカデ)という、と何かの本で読んだことあります。海部関係の本でだったような。。。たくさんの向手がいた製鉄の象徴としての、鉄の属性の神、天目一筒神は、先進技術をもたらした渡来系の人だったとすると。。。

    天之御影命は、ヤマトスクネであり、水の属性でもあるから、同一神だとすると、この天目一筒神の鉄の属性の両方を備えていたのでしょうか。治水工事とかもしてたのでしょうか。。なんかマルチタスクですね。近江の御上神社と丹後の大森神社との関係性がよくわかりません。

    丹後→近江?謎

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      天御影と天目一筒神は同一神ではないような気がするのですけどね。

      いいね

      1. 出芽のSUETSUGU のアバター 出芽のSUETSUGU より:

        なるほど。。同一神でないとすると、私も天御蔭と天御影は違うのかなあと思い始めました。

        ところで、海部氏の系図には、六世孫の建田勢命のことを「またの名を玉手見と云う」九世孫の乙彦命のことを「またの名を彦國玖琉命と云う」とか書いてあって、安寧や考元天皇に似た名前の神様になっててどうも混乱します。海部氏がそれだけ後の天皇の名前にあやかるほど大きな存在だったということなのでしょうか。

        また、これはそもそもの話になりますが、出雲から五十猛が丹後に行ってから丹後、丹波に海部の系図が連綿と続き残されていると信じている私には、天火明が丹後に降臨したというのは、そこからそもそも、はて?という感じになってしまいます。天火明という名前は、徐福が出雲に上陸してからの名前でないのでしょうか。なのでこれは徐福の子孫が出雲から丹後に船で上陸した、という解釈で宜しいのでしょうか。

        海部氏系図についての信憑性。五条さんがどのように感じておられるのか知りたいなあと思いました。ザックリの質問でかなりお答えしにくいかもしれませんが。。色々聞いてすみませんm(_ _)m

        いいね: 2人

        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          徐福の子孫が出雲から丹後に船で上陸した、という解釈で良いのではないでしょうか。

          各系図というのは、当時の豪族が家柄を良く見せようとして残した意味合いが強いと思います。また、迫害から逃れるため、偽装した(いわゆるホヒる)形跡もあり、参考程度に考えた方が良いのかもしれません。
          その点で、海部氏系図にも怪しい点は多くあり、それは他の人も主張されていることです。

          ただ、やはり初代大君家に通じる海部が一目置かれていたのはあると思います。後の天皇家があやかったとしても不思議はないと思います。

          いいね: 1人

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