
時は寛永13年(1636年)、陸前国逆戸村(さかどむら)に、与太郎(よたろう)という百姓がおった。
与太郎と体の弱い妻は、二人の娘と一緒に、貧しくとも慎ましく幸せな生活を送っておった。
ある日、与太郎は、二人の娘と八枚田と呼ばれる小さな田んぼの草をとっておった。
そうしておると、妹娘が田んぼから引き抜いて放った草が、たまたま通りがかった男のはかまに当たってしもうた。
「この小娘が、何をする。儂のはかまに、泥をつけおって」
男は白石城の城主、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)に仕える、剣術指南役の志賀団七(しがだんしち)じゃった。
団七は腕は立つが、短気であまり評判の良い男ではなかった。
そう言って火のように怒った団七は、妹を斬り殺そうとしたんじゃった。
「すんません、お侍さま。私の娘が粗相をいたしました。どうか許してございませ」
与太郎は団七の前で土下座をして、深く深く謝った。だが団七は聞く耳を持たず、その場で与太郎を斬り殺してしもうた。
驚いた姉は、妹の手を引いて命からがら家へと逃げてきた。
「二人ともどうしたの。おっとうは?」
震える姉妹を見た母親が尋ねると、姉がことの顛末を泣きながら話した。それを聞いた病気の母親はさめざめと泣き、深い悲しみのあまり、与太郎の後を追うように亡くなってしもうた。
さても理不尽に両親を失った姉と妹。
「この恨み、団七を必ずや討ち取って、晴らしてやる」
そう誓うのであったが、相手は剣の達人。姉は親のかたみの土地を売って、妹と共に江戸へと向かった。姉が叩いた戸の先は、剣術家として名高い「由比正雪」(ゆいしょうせつ)の屋敷であった。
「だめだだめだ、そなたらのような娘御に教える剣はござらん」
正雪は見窄らしい姉妹を見て、玄関払いをするのであったが、姉妹は来る日も来る日も屋敷を訪ね、戸を叩いてはしぶとく頭を下げ続けた。
さしもの正雪も、ついには姉妹の熱心さに心を動かされた。
「あいわかった。姉は宮城野(みやぎの)、妹は信夫(しのぶ)と今日から名乗りなさい。私の元で3年間、修行を続けることができたなら、お主らの仇討ちを叶えてやろう」
その日から、姉と妹の血の滲むような稽古が始まった。
しばらくすると、正雪は姉・宮城野に鎖鎌と手裏剣を、妹・信夫には薙刀を指導するようになった。
また正雪は妻に、二人に女としての嗜みを教えるよう指示した。
そうして三年経つ頃には、宮城野と信夫は、器量よし、立ち居振る舞いよしの女剣士へと成長した。
さてさて、更に1年を加え、父母を亡くした宮城野・信夫姉妹は4年の修行を積み、仇討ちを成し遂げるため、門弟3人につきそわれて、白石へと向かうのであった。
白石についた姉妹は城に赴き、城主・片倉小十郎に願いでた。
「私たちの父母は5年前、妹・信夫の粗相で剣術指南役・志賀団七様の怒りに触れ、理不尽にもその命を落としました。今となっては我ら姉妹、親の仇を討たねば生きるすべもございません。願わくば親子もろとも、団七様のお手にかかって命散らしたく思います」
普通ならば仇討ちは認められておらぬことであったが、団七の無道ぶりは片倉小十郎の耳にも入っておった。片倉は伊達家を通じ幕府に伺いを立て、幕府も孝女であるとこれを特別に認めたのであった。
寛永17年(1640年)2月、白石川六本松河原には、片倉家の侍150人が周りを囲い、千人の見物客が集まっていた。
その中心にいたのは正しく志賀団七と宮城野・信夫の姉妹。いざ、仇討ちの時。
冷たく張り詰めた空気の中、宮城野と信夫は正雪の妻から贈られた着物を着て、頭に鉢巻を締めて立っていた。
宮城野は鎖鎌、信夫は薙刀を手にしている。
ドーン、ドーンと太鼓の音が六本松河原に鳴り響き、志賀団七がぬらりと、2尺5寸の大刀を抜いた。
いよいよ決戦が始まる。
「事の因縁は、私にございます。団七いざ、勝負」
まずは、信夫が薙刀を振り下ろす。ブンと風を切る刃を団七は、軽く受け流す。
「多少の剣術を嗜んだとはいえ、所詮は小娘」
ずいと前に足を運び、団七が信夫に切り付ける。
そこへ宮城野が手裏剣を放った。団七は剣の達人、宮城野の動きも想定のうち。刀をひらりと翻し、いとも容易く手裏剣を打ち払う。しかしその隙を見計らって、宮城野は鎖鎌の分銅を放った。
鎖はうまく団七の腕に絡まり、その時、信夫の薙刀が彼の両腕を切り落とした。
「うっ、侮ったか」
「志賀団七、今こそ父母の無念を晴らさん」
宮城野は叫び、鎌で団七の首を斬った。
こうして宮城野・信夫の仇討ちは終わった。
姉妹は武士を殺した罪を償うため、その場で自害しようとしたのだが、周りの人々に止められて思い留まり、髪を切って出家した。
宮城野62才、信夫64才、生涯亡くなるその日まで、姉妹は仏に仕えたという。


宮城県白石市にやって来ました。

陸奥国刈田郡白石、そこに聳える「白石城」(しろいしじょう)は、別名益岡城(枡岡)とも呼ばれます。
中世の頃は白石氏(刈田氏)の居館だったと伝えられ、豊臣秀吉の時代は刈田郡は会津に封じられた蒲生氏郷の領地となり、白石城には氏郷の家臣・蒲生郷成が入りました。

慶長3年(1598年)、蒲生氏が宇都宮に移封されると、これに代わって上杉景勝が会津へ入り、その家臣である甘糟景継が白石城主となります。
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討たんとする会津征伐が起こると、家康側についた伊達政宗が上杉領に攻めかかり、白石城の戦いが起こりました。
結果は伊達軍の勝利となり、刈田郡は再び伊達氏の領土となります。

伊達氏の城となった白石城には、まず政宗の叔父・石川昭光が入りましたが、慶長7年(1602年)12月、政宗の側近である片倉景綱が入城し、1万8000石を領しました。
慶長20年(1615年)に、江戸幕府が一国一城令を発しますが、仙台藩では仙台城に加えて白石城の存続が認められ、白石城は明治時代まで片倉氏の城として残ることになったのです。

仙台藩片倉氏の初代で白石城主・景綱は、通称を小十郎(こじゅうろう)と言い、その名を代々の当主が踏襲して名乗るようになりました。

この白石で語り継がれる物語が「白石女敵討」(しろいしめがたきうち) または 「奥州白石女敵討」 と呼ばれる 宮城野・信夫姉妹の仇討ちです。

宮城野・信夫姉妹の物語は、江戸時代に『碁太平記白石噺』(ごたいへいきしろいしばなし)として歌舞伎や浄瑠璃の演目となり、日本三大敵討として知られる「曽我兄弟の仇討」「鍵屋の辻の決闘」「赤穂浪士」に並ぶ人気を博しました。

白石の仇討ち話は、親を鬼に殺された胡蝶カナエ・胡蝶しのぶのモデルとなった人物であると考察する人もいらっしゃるようです。

この姉妹の仇討ちをサポートをしたのが、なんと江戸の風雲児・由比正雪(ゆいしょうせつ)であったと語られることから、今回の僕の白井旅へと繋がることになったのでした。



白石旧町内中町に鎮座の高徳山「専念寺」(こうとくさんせんねんじ)は、浄土真宗本願寺派にあたり、片倉家にゆかりのある寺院となります。

境内にある「太子堂」には法隆寺の国宝「聖徳太子像」の分身が祀られ、大晦日と旧暦元旦・10月11日の年3回の御開帳には多くの参拝者が訪れるのだとか。

専念寺は、宮城野・信夫姉妹の仇討ちを「白石噺」として後生に伝えている寺院で、所有の貴重な「錦絵」はその様子をうかがわせるのだという話です。
残念ながら、その錦絵を確認することはできませんでしたが、御住職からいろいろとお話を伺うことができました。



奥州白石噺、宮城野と信夫の「仇討ちの地」という場所が、宮城県白石市福岡蔵本下り川にあります。

そこは言わば、白石川の六本松河原と呼ばれる場所。

決戦の地は河川敷の広い所かと想像していましたが、雑草に覆われた森のような場所にひっそりとありました。

白石川に面した細い道の突き当たりには、石碑が一つ建っているだけ。
ここに片倉家の侍150人が周りを囲い、千人の見物客が集まったと語られます。

石碑を眺めていると、鬱蒼とした奥の空間に、何かを発見。

なんじゃこりゃ。

うっすらと、仏のようなものが彫られています。

どうやら馬頭観音のようでした。



宮城県白石市大鷹沢三沢に、宮城野・信夫姉妹を奉る「孝子堂」があるというので、訪ねてみました。

手前にある小さな田んぼが、事件の発端となった「八枚田」(はちまいだ)です。
確かに畔で区切られ、田が八枚ありますが、ちっさ。
畔を取っ払って一枚田にした方が効率が良いでしょうに。

なんて事を言っては野暮というものですね。
八枚田では、保存会の方の尽力で、今もちゃんと田植えがなされています。

田の奥には、姉妹の父・与太郎を供養する石碑が置かれています。

さて、このように白石城下には、白石噺の史跡がちらほらと残されているのですが、ん?史跡?

そう、この姉妹の仇討ち話、どうやら史実では無いようなのです。
史実としてのこの事件は10年ほど後の時代、享保8年(1723年)の、仙台藩領白石の農夫の娘、すみ・たか姉妹が父の仇である剣術師範の田辺志摩を討ったというものになります。
しかしさらには、すみ・たか姉妹の仇討ち話も出来すぎた話であり、本島知辰の『月堂見聞集』(げつどうけんもんしゅう)という書に記されるのみで、どこまでが真実かは怪しいものなのだとか。

ともあれ、すみ・たか姉妹の仇討ち話を元ネタに、浄瑠璃の『碁太平記白石噺』で宮城野・信夫姉妹の仇討ち話が創作されました。
この時、姉妹に武術を教えた人物として、ストーリーにあの由比正雪が加えられるのです。しかも得物は鎖鎌と薙刀・・・
さらに由比正雪の実録本『慶安太平記』にまで、宮城野・信夫姉妹の仇討ち話がそっくりそのまま収録されてしまいます。

実録本とは、日本の江戸時代に執筆された、当時の社会的事件を題材にした読み物のことで、近世実録とも呼称されます。
内容としては、表向きは事実性を標榜しつつ実際には虚構を多く含む読み物のことで、いわば「すべては見てきたような嘘」なのです。

僕が富先生から「由比正雪の本を書いてください」と指示を受け、調べてみたところ、今に伝わる彼の話は、その多くが慶安太平記を元にするものでした。
つまり、由比正雪については、ほとんど正しく伝わっていない、ということなのです。
歴史的に間違いない痕跡というのは、ほんの僅かなものでした。
ところが大元出版というのは、世に”正しい歴史を伝える”ということを旨としています。
そこで僕は先生に、「私が由比正雪について本を書くなら、それはどうしても創作にならざるを得ません」と伝えました。先生はそれでもいいからとおっしゃられ、2023年の3月12日、日曜の朝に再度連絡があり、「五条さんの好きなように書いて良い」と言われ、原稿を書き上げたものが『由比正雪と薄明の月』でした。

僕の書いた「由比正雪と薄明の月」、略して『ゆい×はく🌙』は、もちろんながら、正しい歴史ではないということです。
創作でいい、と振り切った僕は、この『ゆい×はく🌙』の中にも、宮城野・信夫姉妹の仇討ち話を「満千と園」の話として挿入しました。
ただし、僅かに残る由比正雪の史実からは、一般に言われている「慶安の乱」の首謀者としての彼の姿は見えず、正雪の真の姿を捉えた創作物として僕は物語を書きましたので、それに伴って満千と園の話も白石噺とはやや内容を異にしています。

それにしても、白石噺は創作である、というのはもはや明白なことです。
が、こうしてちゃんと史跡が残されているというのは、不思議なものです。

考えてみれば、天の岩戸やオノコロ島など、およそ真実とは言えない神話の話も、神跡として各地に残されています。
そこには実際にどうであったかは重要ではなく、長い時の間、真実のように伝えられて来たということが重要なのかもしれません。

専念寺の御住職は、当地に由比正雪が伝えた一心流鎖鎌術の後継者がいらっしゃると話しておられました。

「郷(さと)の生める 宮城野信夫 かんばしき 孝女の誉(ほまれ) 千代に朽ちせず」
宮城野・信夫の仇討ち話が、ずっと白石の人たちに愛されてきたのだということだけは、間違いのない真実なのでした。
