
岐阜県郡上市白鳥町石徹白(いとしろ)にやって来ました。
そこにある注連張(しめはり)は、この先が神域であることを示しています。

こうして、ようやく参拝が叶った場所が、「白山中居神社」(はくさんちゅうきょじんじゃ)です。

場所は、美濃国(名古屋)方面から白山へと至る美濃禅定道の途上にあり、美濃馬場である長滝白山神社からさらに深い山中に入ったところになります。
果たして無事に辿り着けるのか心配していましたが、ちゃんと車で行ける道がありました。

岐阜県八景に数えられる境内は、とてもしっとりしています。

御神木クラスの巨杉に囲われており、茂った枝や葉は、まるで神を隠す御簾のよう。

入口の境内社には、猿田彦大神と久那戸大神が合わせ祀られます。

平安時代から鎌倉時代にかけて白山信仰が盛んだった時代、石徹白は「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほどの修験者によって栄えた土地でした。

また明治までは、神に仕える人が住む村としてどの藩にも属さず、年貢免除・名字帯刀が許されていたといいます。

その石徹白・白山中居神社がどのあたりの位置だったかを、もう少し広域で見てみると、こうなります。
白山三社の中で、約2,700社の白山社総本宮であり、白山山頂の奥宮を飛地境内とする白山比咩神社が、一番遠い距離にあるのが不思議な感じです。

平泉寺白山神社から伸びる越前禅定道は、白山信仰の起点とも言える越知山から続く道となっており、白山長滝神社から伸びる美濃禅定道は、白山中居神社やさらには洲原神社が存在することからも重要性を感じるものです。
その点、白山比咩神社を端とする加賀禅定道はなんとなく見劣りしてしまいますが、あの大汝峰から御前峰を目指すという一点においては、他の禅定道と一線を画する存在であると言えるのかもしれません。

などと、まあどうでもいいことを考えていると、

宮川の先に、石積みの聖域が見えてきました。



石徹白は、神が坐す神域・白山と、 人の住む俗界の境界にある郷であり、この地には神様が中居りすると伝えられます。

石徹白には9000年前より人々が住み着き、郷の各所から、縄文時代の遺跡や石器、 勾玉、 土器などが多く出土しています。

そして白山中居神社の本殿下には、磐境(いわさか)の存在が認められており、この集落が太古から祈りとともに生活してきた場所であったことを偲ばせます。

磐境とは、神を迎え祭るために石で囲ったり石を積み上げたりして造った祭場のことですが、ここで神降しを行っていた、ということでしょうか。

原初の日本の祭祀というのは、自然崇拝であり、社殿などはなく、こうした磐境を作って神の目印としました。
富家伝承によれば、山中の巨石の元に王族の遺体を埋葬したので、それが神格化していったと伝えられますが、出雲族渡来以前から、巨石を神の坐す磐座とする信仰はおそらく存在し、今なお説明のつかぬ巨石遺跡は全国に認められています。

磐境の横にある石段を登ると、

覆屋に守られた本殿があります。

主祭神として「菊理媛神」(くくりひめのかみ/白山比咩神・白山権現)他、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀る、荘厳な神殿。

全面に施された見事な彫刻は、岐阜県の重要文化財に指定されています。

中でも、 向拝の「粟に鶉(うずら)」の彫刻は、諏訪の立川流によるものといいます。
立川流、ここにアワを持ってくるとは、なかなかのもの。

社記によれば、景行天皇12年(82年??)熊襲・蝦夷が朝廷に背いたとき、天皇を守護するために伊邪那岐・伊邪那美の二神が石徹白と打波との境の橋立山に天降り、東南の方、長滝川と短滝川の間に清々しい森を見つけてその地を「船岡山中居」と名づけ、社殿を建てたのが始まりであると伝えています。

このとき、二神が船岡山の坂路に千引岩を引いて許等度(ことど)渡しの呪言をとなえたところ、船岡山一帯に白雲がたなびいたので、千引岩・許等度・白雲から一字づつをとって「石度白」(いとしろ)と名づけたといいます。

また別伝によれば、景行天皇12年、古喜美という者がいて名を武比古と称していましたが、彼が山中にて神霊に出会い、
「吾が皇御孫に奉ろわぬ心悪しき賊、四方に興る。吾今此舟岡へ天下りて皇御孫を守護す。坐し吾を長く奉るべし。吾が留まる宮は舟岡の真中、朝日唯射す山、夕日輝く山と山とのあいなり、瀧と瀧とのあいなり」
との神託を得ます。武比古は舟岡中居の地に宮殿を造り、諾冊二神を奉斎したとのことです。

時が過ぎて養老元年(717年)泰澄が当社に参詣し、付近の霊地で行をしたあと、大熊に導かれて白山の山頂をきわめました。
このとき泰澄が「わが宿願貫徹せり」と言ったので、「石度白」を「石徹白」と書くようになったともいいます。

泰澄はそのまま白山にとどまって行をつみ、養老4年(720年)勅掟によって、白山二十一社を建立したと伝えられます。

泰澄の白山開山の話は、三馬場始め、白山系の神社の至る所で伝えられますが、一体どのルートを通って山頂に至ったのか、どの話がどこまで本当なのか、よくわからないことになっています。
弘法大師・空海もそうですが、弟子らがマイ空海話をあっちこっちで広めたのと同じで、修験者たちが自分の修業地で、マイ泰澄話を繰り広げたのでしょう。

社記に伝わる2つの創建話も後の創作であり、どちらかというと当社は、熊襲・エミシに与する側の神社であったろうと推察するのです。

ただ、「皇御孫」を守るために顕現したという神の話には、興味をそそられます。
その皇御孫とは、竹葉瀬ノ君のことだったのではないでしょうか。



白山中居神社本殿の手前には、大宮殿と呼ばれる建物があります。

幣殿、もしくは斎殿にあたる社殿で、この中に御朱印やお守りが置いてありました。

毎年5月の第3日曜日に行われる例祭では、平安時代から伝わる巫女神楽「五段の神楽」がここで奉納され、7月の第3日曜日に行われる夏季の例大祭では、磐境の前で巫女の舞が奉納されます。

Wikipediaに記載の、当社の沿革というのがなかなかすごいのですが、中でも、
・雄略天皇9年(465年)新嘗祭の節、大臣平群眞鳥を遣わし幣帛を奉るとともに、護国鎮護のために剣を奉納する。
・天武天皇(673年から686年)が神剱・弓・矢・矛・楯・神馬を中居神社に賜う。
・天平7年(735年)聖武天皇が吉備真備を勅使として遣わし神剣を奉献する。
と、神剣の奉納が目立ちます。
特に、天武天皇奉献の神剣は、明治45年時点では現存していたとのこと。

また、平安時代から江戸時代初期にかけては、源義仲、藤原能信、藤原秀衡、今川義元、柴田勝家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、数多くの武将の信仰を受けました。

江戸時代には、石徹白村が白山へ向かう巡礼者への手助けを行い、村人は、白山中居神社の社人、社家となり、無税、帯刀御免の身分とされていました。

元暦2年(1185年)藤原秀衡の家臣・桜井平四良正喜と上杉武右衛門宗庸が石徹白へ赴き、上下の神殿を建立しました。
このとき祀った「銅造虚空蔵菩薩坐像」は、現在国の重要文化財に指定されています。

仁徳天皇4年(316年)天下に疫病が流行し、鎮護のため出雲の地に鎮座し賜わる素戔嗚尊、杵築大己貴命の二柱の神を、石徹白に遷し祭ったとあります。
この時の社が境内の”両社”という建物内にあり、

向かって左に大己貴を祀る地造神社、

向かって右に素戔嗚を祀る須賀神社が鎮座しています。
この場合のスサノオは、須賀神社なので出雲王国初代王「菅之八耳」(すがのやつみみ)ではないかと、思いたいところです。

両社の手前に、無造作に置かれた丸い石、

これはなんでも御神木の体内から出てきた石なのだそうで、ありがたい気持ちになります。
丸いってのは、いいですね。



白山中居神社の境内図を見ていると、気になるものがいくつかありました。

300m先に、浄安杉なるものがあると。

なんだかよく分からないいわれが書いてあります。

これが、この先1km!とか書いてあれば諦めたのですが、300mなら仕方ない、とトボトボ歩き出しました。

まあ、多少の山道は覚悟していましたけどね、

このあと200mから先が、長かった。

暑い中、ヒイコラヒイコラと登っていくと、

それっぽいのがありました。

なるほど、根が一つに幹二つの、いわゆる夫婦杉というやつですね。

と思ったら、まさかの四股!

白山中居神社の数々の御神木の中でも、確かにとびきりですな。

ヒイコラした甲斐もあったというものです。
しかし、クマが出ぬうちに、退散しますか。

白山中居神社を流れる宮川の下流に”短滝”、上流に”長滝”があるというので探してみました。
短滝は人口のコンクリートじゃないか、と思いましたが、

いや、その下の岩の小さな滝が、それみたいですね。

短滝は「短龍泉」(たんりゅうせん)、または「イカダバの滝」とも呼ばれるらしく、宮川が石徹白川に流れ込む境目となっているようです。
イカダバとは筏場のことでしょうか。

次は車で600mほど宮川を遡り、そこから100m下って長滝を目指します。

この100mが、意外と長く感じるのよ。

最後は川に急降下。もちろん帰りはこれを登らなくてはなりません。

降りてみると、おおー、なんかすごい場所に出ました。

川の下流方面には、穴があって、龍穴のような雰囲気があります。

うむむ、怖いな。

正面には硯石のように上が窪んだ石がぽっかり。

そして上流部にあるのが長滝。
「長龍泉」(ちょうりゅうせん)、または「長走の滝」と呼ばれます。
この長滝と短滝の間が宮川と呼ばれ、世俗と神界の境界と云われてきました。

また、美濃馬場にあたる白山長滝神社の長滝は、阿弥陀ケ滝がその由緒であるとされていますが、この常世の境である長走の滝が本来の由来ではないかと思いました。

さて、この短滝と長滝のちょうど中間あたりに、磐座があるというので行ってみます。

一旦、境内に戻ってきました。

石のくぼみに溜まった雨水をイボにつけると、イボが取れるというイボ取石の傍に、道があります。

道といってもこんな感じ。クマちゃん出ないで~。

しばらく歩くと、ありました。

石票には「夫婦岩」とあります。案内図では「御手洗大岩」と書いてありました。
この磐座の情報はネットでもあまりありません。皆ここまでは来ないようです。

手前にもう一つ、小ぶりで特徴的な石がありました。これと合わせて夫婦岩と呼んでいるのでしょう。

社によると、この磐座には、瀬織津姫が祀られているとのことです。

川沿いの磐座なので、瀬織津姫なのでしょうが、僕はもう一つの関連性を思い浮かばせます。

瀬織津姫とは越智の常世織姫のことであり、世織姫がセオリ姫となり、セオリツ姫と名を変えたのではないかと考えています。
常世織姫の名はそのまま、”常世(と現世)を織る姫”となります。常世を織るとは、常世と母の胎内を結ぶ羊水=変若水(おちみず)を表しており、彼女は命の誕生の神秘を司る偉大な変若水の巫女であったと思われます。

変若水は月読神が持つ霊水で、これを受け取る巫女は、神の禊を行うことができます。故に禊祓いの巫女神・瀬織津姫となりうるのです。
また、変若水は常世、竹の節の間、龍宮を満たすとされ、かぐやは竹から生まれ、浦島は海中で息ができ、胎児も羊水の中で命を得るのです。

常世織姫は親魏倭国の女王・宇佐の豊玉姫の息子である豊彦に嫁いだ、越智家の姫君。記紀神話でいうならば”玉依姫”となります。
偉大なる月読みの巫女が豊玉姫であったなら、偉大なる変若水の巫女が玉依姫であり、神話では龍宮の姉妹として描かれたのだと考えられます。

常世と現世を織る姫というのは、そのまま命をくくる”菊理媛”となります。
白山の女神・白山比咩とは、菊理媛であり、瀬織津姫であり、玉依姫であり、その正体は越智の常世織姫となります。
“おちみず”は”若変りの水”と書いてしまったので、誤解されたのではないかと思いますが、本来は常世から現世へ”命を紡ぐ水”であり、”神を禊ぐ水”なのです。
その真意を知るのが越智の巫女であり、おそらく徐福が勘違いして求めた不老長寿の霊薬が、変若水であったろうと推察します。

この御手洗大岩は、命の誕生を願った”サイノカミの磐座”であったのではないでしょうか。
古代人にとって命の誕生は、最も重要な神秘事。
命を紡ぐ姫神が中居する聖域が、石徹白には今も存在しているのです。


お、行かれたのですね!
川沿い上流も探訪されてうらやましい限りです~
(以前わたしが訪ねた時は4月下旬でしたが、まだ川沿いには雪が積もってて神社から上流方向へ行くのは諦めました。。。)
個人的には入口が戸隠神社奥社の超ミニ版で、川を渡るところは伊勢神宮内宮みたいだなーと勝手に感じてました。
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なるほど、春はまだ雪が残っているのですね。
あの社殿までの演出は、見事ですね。気持ちが入り込んでしまいます。
今回行けて良かったです。
後日、能登入りもする予定です。
台風が来なければ良いけど。
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船岡山といえば、阿波のワナサヒコを祀る船林神社がピンっときました! あんでぃより
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そういえば、出雲にも船岡山がありましたね。
やはりアワ繋がりなのでしょうかね😌
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